第37話 1年後

 土曜の夕方前。

 電子音とともに、携帯電話の液晶画面に知らない番号が表示された。

 その番号から相手も携帯電話だと分かる。通話ボタンを押すと、絵未からだった。


「ヤッホー武志くん。私も携帯買ったんだよー」


「お、そうんなんだ。じゃあこの番号登録しておくね。……ところで今日はどうしたの? 長電話なら、通話料もったいないから家の電話にする?」

 

「違うの。今ね、S区にいるんだけどさ……久しぶりに会えないかなぁ? 今日、なんだけど」


「うん、いいよ。今日は休みだから。二時間後でもいいかな? 用意するからさ」


 待ち合わせ場所と時間を決めると、俺はゆっくり身支度を整える。電車に乗り、待ち合わせ場所のS区の駅へと向かった。街中には携帯電話で話す人たちで溢れ返っていた。


 待ち合わせ場所に着くと、絵未が俺を見つけ出し笑顔で駆け寄ってきた。


「ごめんね武志くん。急に呼び出しちゃって」


「ううん。平気だよ。俺も待たせてごめんね。お腹、空いてる? 俺、昼から何も食べてなくてさ」


「私も夕飯はまだだよ。じゃあ何か食べに行きましょ!」


 二人並んでS区のメインストリートへと向かう。並んでいるがその距離は、以前より遥かに遠い。

 

 俺たちは手頃なレストランを見つけると、料理とソフトドリンクを注文した。


 久しぶりの再会を祝してジュースで乾杯する。多少のぎこちなさを誤魔化す様に、俺は話題を振った。


「それにしても会うのは久しぶりだね。一ヶ月……いや、二ヶ月振りかな?」

 

 家の電話も最近はめっきり減っていた。こんなにも絵未と会わない事も初めてだ。

 

「ホント、久しぶり! 武志くん、放っておくと全然電話くれないんだもん」


「ゴメンゴメン。ちょっと曲作りに没頭しててね」


「そうなんだ……まだ頑張ってるんだね、エライエライ」


 子供をあやす様に絵未が言う。


「うん、今年一年が最後の年だからね。……一緒に約束したの、忘れたの?」


「忘れる訳ないじゃん! いつも心の中で応援しているんだよ『頑張れ』って」


 絵未の表情がコロコロ変わる。膨れたり、笑ったり、昔のままだ。


「絵未ちゃんも元気そうで何よりだよ。……ところで2号店を辞めてから、今は何やっているの?」


「色々バイトを転々としてたの。で、先月ね、就職が決まったんだ。今は正社員で働いてるの」


「えっ! ホントに? おめでとう! じゃあ何かお祝いしないと」


「それじゃ、私のお願い、聞いてくれる?」


「なんでも聞くよ! 何がいい? ……そんな高い物は無理だけど、この後何かプレゼントでも……」


 俺のその言葉を遮って、絵未が言った。


「……今日は朝まで一緒にいて」




 

 食事を済ませコンビニへと立ち寄る。ちょっと奮発して高いシャンパンを買うと、そのまま緩やかな坂を登り、ホテル街へと向かう。


 なるべく綺麗なホテルと部屋を選び、チェックインを済ますと、絵未が「シャワーを浴びたい」と言ってバスルームへと入っていく。俺はフロントに電話をしてシャンパンクーラーと氷を頼み、用意を整えた。


 シャワーで少し湿った髪をタオルで拭きながら、絵未はテーブルに用意されたシャンパンセットに喜んだ。


 栓を抜き、泡が弾ける液体をグラスに注ぐ。


「就職、おめでとう」


「ありがとう、武志くん」


 カチリとグラスを合わせると、二人同時にシャンパンを口にした。


 俺はあの一件の後、なるべく酒を飲まない様にしていた。酒を飲むと、あの出来事をついつい思い出してしまうからだ。だけど今日は違う。このシャンパンだけは格別の味だ。


「……あれから、一年以上経つんだね」


「……え?」


「ほらO海岸に二人で行った時さ、ホテルでたくさんお酒飲んで、二人で酔い潰れて寝ちゃった事、あったでしょ?」


 ……ああ、あの事か。


「そうだね、もう一年以上経つのかぁ。……そういえばあの時の絵未ちゃん、会計の時驚いてたよね」


「……まさかホテルのお酒があんなに高いとは……。ぼったくりだよね、あれじゃ!」


 頬を少し膨らませながら、無邪気に笑う。……変わらないなぁ、絵未は。

 

 昔のやりとりを思い出し、俺も笑顔を誘われた。


 暫くは二人で昔話に花を咲かせていたが、次第に絵未の顔が曇り始める。

 そしてぽつりぽつりと、話しの核心を切り出してきた。


「実は私ね……この半年で、二人の人と付き合ったんだ……」


「そう、なんだ……」

 

 針で突かれた様な、チクリとした痛みが胸に走った。


「でもね……どっちの人とも一ヶ月くらいしか続かなかったの……。何か『違う』ってね、そう思っちゃたんだ。……どうしてかな?」


 絵未は決して不真面目な付き合いをする女性ではない。それは俺が一番知っている。


「その人たちの事、本当に好きだったの?」


「……わからない。ねえ武志くん。『好き』って一体なんなんだろうね。一緒にいたいって思う事? 相手の事を知りたいって思う気持ち? なんかね、私、わからなくなっちゃったよ」



 絵未は前に進もうとしたのだろう。俺を忘れて、前に進むという決断を。それに引き替え俺は一年以上前のあの時から、何も変わっちゃいない。一歩も踏み出せず、立ち止まったままだ。


 過去を有耶無耶にしたまま、このままの関係が続けばいいと思っていた。いつか時間が解決してくれるかもと、絵未の優しさを盾にして、卑怯な妄想さえ思い描いていた。


 結局俺は、ただ怖かっただけだったんだ。どうすれば許されるとか、そんな事は単なる綺麗事に過ぎない。


 許して欲しければ、後の事など考えず全力で謝ればいい。自分の気持ちを素直に伝えればいい。


 それができなかった俺は、絵未に嫌われるのを恐れていた、ただの臆病者だ。


 

 ようやくそれに気がついた。



 俯く俺のそばを通り過ぎ、絵未はベッドに腰掛けると「武志くん、側にきて」と小さな声で呟いた。俺が隣に座ると絵未はバスローブを肩から落とし、両手を広げて抱きついてきた。


 そこからはもう、言葉はいらなかった。


 絵未は、理性を断ち切った程に大胆だった。包み隠さず今の自分を見てもらうかの様に。こんなにも本能に従順な絵未を見たのは、初めてかもしれない。


 俺もそんな絵未に応えようと、懸命に抱いた。俺は臆病者じゃない。そう自分に言い聞かせながら。


 大きくのけぞり、絵未の白く細い肩がリズムカルに痙攣する。達した時に見せる仕草だ。


 この日の絵未は俺に包まれながら、その動作を何度も何度も繰り返した。


 


 ベッドにうつ伏せながら、互いに荒い呼吸を整える。絵未の左手が、俺の右手に絡まってくる。掌を合わせると、呼吸を戻した絵未が、俺を見て柔らかな笑顔を浮かべた。


「今の会社でね、歓迎会を開いてくれた時に『彼氏いますか』って聞かれたの。……なんて答えたと思う?」


「……え? なんだろう。わかんないなぁ」


「ふふ……『彼氏はいないけど、ずっと追いかけている人がいます』って答えたんだ。……いつかもう一度、振り向いてくれるかなぁ」


 そう言って遠くを見つめる絵未の顔を、俺は直視できなかった。


 俺の心の中では、絵未を独り占めしたい気持ちと、開放してあげたい気持ちの二つが、激しくぶつかり合っていた。

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