第33話 199X年 10月 4/4
バイトが終わって曲作りに没頭し昼過ぎに寝た。夕方前にポケベル音で目を覚まされる。見覚えのない番号にかけると、どこかの喫茶店の様だった。受話器の声が香流へと変わる。
「……ああ、武志くん。今日休みでしょ、お店。今、W市の近くにいるの。……一緒に飲みましょう」
「え、いや……」
「別にいいじゃない。近くで飲むくらい。車は乗らなくて済むでしょう? それに私、武志くんにお礼されていないと思うの。……お店紹介したの、誰だっけな?」
「……わかった。でも俺、明日午前中から用事があるんで、早めに切り上げるけど、それでもよければ」
「いいわ。じゃあどこに向かえばいい?」
W駅前でなんか飲める訳ない。駅前には2号店がある。誰か知り合いに見つかったり、最悪絵未に見つかりでもしたら、大変だ。
「K駅前集合で、大丈夫?」
「OK。じゃ、30分後ね。待ってるから」
俺は急いで身支度を整えると、K駅まで自転車を漕ぐ。駐輪場に停め駅前に行くと、香流がタバコを吸いながら待っていた。
香流は背も高く、スタイルもいい。ミステリアスな雰囲気も混じり合って、通りすがりの男はたいてい振り向く容姿をしている。案の定、俺が香流の側に行くと、男が舌打ちをして去って行った。
「……知り合い?」
「ううん、ただのナンパよナンパ。これから待ち合わせしてるって言ってるのにしつこくて。早めに来てくれて助かったわ。ありがと」
今日の香流は大きめで濃度の低いサングラスをしていて、その脚線美を最大限に主張できる短っ目のスカートをはいている。正直、目のやり場に困る。
「さ、行きましょ。私この辺詳しくないから、案内してね」
「ああ。……だけどそんなに持ち合わせがなくて、普通の居酒屋でいい?」
「もちろんよ。どんな形でも、武志くんからのお礼なら、嬉しいわ」
そう言って香流がニコリと微笑む。いつも棘のある薔薇の様な笑顔と違い、女性らしい柔らかな笑みだった。
……この人、こんな顔もできるんだ。
俺はちょっと誤解していたのかもしれない。最初は渋々だった気持ちがほぐれ、ちゃんと今回の件のお礼をしたいという気持ちになってきた。
もろろん。本当にお礼だけだけどね。俺には絵未がいるんだから。
「さ、今日は飲みましょう。あ、安心して。お代は私が払うから」
「え……今日はお礼だから、俺が出すよ」
「お金……やりたい事の為に必要なんでしょ?」
「う、うん。でもちゃんとお礼をしなきゃって思ってたから……」
「……分かったわ。じゃあ割り勘にしましょう。それなら武志くんも、少しは気が済むでしょう?」
「ありがとう……じゃあお言葉に甘えるよ」
「フフフ……本当にかわいい子ね」
香流がジョッキを重ねてきた。
———んん。な、なんだこの痛みは……。
俺はひどい頭痛で目が覚めた。昨日の事がよく思い出せない。
確か香流と飲んでいて……あれ? その後どうしたんだっけ。……っていうか、ここは俺の部屋だよな?
頭を押さえながら上半身を持ち上げる。間違いない。俺の部屋だ。
「……ふふ、おはよう」
心臓が凍りついた。
「か、香流!? な、なんで……!」
「あら? 失礼ね。武志くんが誘ったんじゃない」
俺が……誘った? そんな……バカな事……。そして二人とも何も着ていない事に、今更気付く。
「やーね、起きて早々そんな顔して。……昨日は凄かったわぁ、武志くん。……ねえ、もう一回しましょうよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺が誘ったって……そんな事あるわけないだろう!」
「だってここ、武志くんの部屋でしょう? 私が知ってるはずないじゃない。武志くんの家」
昨日の事を思い出そうとするが、頭の中はぐちゃぐちゃで、何もまとまらない。
……俺が、俺が誘うなんてそんな事、あってたまるか!
頭痛に加えて目眩もしてきた。喉が異常に渇き、吐き気もする。俺はトランクスを履くと、一階に降りてトイレで嘔吐した。いっその事、このまま何もかも吐き出して、この現実をなかった事にしたい。
玄関のチャイムが鳴り響いた。
昼間、家には基本誰もいない。俺はふらつきながらインターフォンを取り上げる。
「……はい」
「きたよー、武志くーん」
身体中の血の気が引いた。
そうだ……今日は絵未が家に来る日だった。
「……武志くん?」
「ごめん絵未ちゃん。来てくれて悪いんだけど、体調がよくないんだ……今日は……帰ってくれないかな?」
「え? 風邪でも引いたの? だったら私が……」
「いいから! お願いだから今日は帰ってくれ!!」
「……武志く…ん。……どうしちゃったの?」
「今日は会いたくないんだ! お願いだ!」
こんな酷い事が言えるとは思わなかった。自分を殴り殺してやりたい。
「ねえ……どうして……? 何が…あった……の……?」
絵未の声が震えている。俺は頭を激しく壁に打ちつけた。
その音がインターフォン越しに伝わったのか、絵未が一言だけ呟いた。
「……わかった。帰る……」
インターフォン越しに、絵未の気配が消えた事が分かった。
俺は急いで二階へ駆け上がると、ベランダから少しだけ顔を出し、外を見る。
俺の家から遠ざかる絵未の細い肩は、上下に揺れていた。
その後の事は、断片的にしか覚えていなかった。
部屋に戻ると香流が何度か誘ってきた。それを無言で断り続けると、俺に興味が失せたのか、「帰るからタクシー、呼んで」と言われたので、その通りにした。
玄関前でタクシーに乗り込む香流を見届けると、フラつく足取りで部屋へと戻る。
部屋には香流のブランド物であろう香水の残り香が漂っていた。
汚された、と思った。
一年近く掛けてゆっくりと積み上げた絵未の柔らかい体臭と控えめな香水の香りが、一瞬で跡形もなく散っていた。
手遅れだとは分かっている。だけど昨日の事を思い出そうとしても、記憶が曖昧ではっきりしない。
酒を飲んで記憶をなくす事など、今まで一度たりともなかった。
……本当に俺が誘ったのか?
だけどこの部屋には香流がいた。
もう何が現実で、何が夢かも分からない。
ただ一つ、はっきり分かっている事は、絵未を深く深く傷つけてしまった事だけだった。
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