夜淵の窓辺 -1

 お昼ご飯を食べ終わったら、家の中に静寂が閉じ込められた。

 食事を終えるなり、譲は離れの奥で寝てしまった。うんと疲れさせてしまったんだろう。お兄ちゃんや義姉さんが文句を言うはずなく、芳乃は近くにいていなさいとわたしに言っただけだった。日陰に少し水を撒いて、扇風機を運んできたら、譲は部屋の隅で胎児のように丸まっていた。蚊取り線香を焚いて、横にいるかしばし迷って、結局部屋の外に出た。

 こういうとき、抱きしめることもできないから、わたしは


          *


 濡れ縁で仰向けに倒れていた体を起こして、何度か瞬きをする。午後の光が眩しかった。板間に頭をつけていたせいで、少し頭痛がした。冷たい水でも飲みたいのだけど、これ以上体を動かすのが億劫だった。庭にだらりと足を垂らす。無意識に腹を撫でていることに気付いて、強く目をつむる。腹がうごめく。蹴りあげられる。ここにいると主張される。痛みのない傷口。すべて自分のせいにすぎないのだけど……。

 ざくざくと足音がした。小さくて軽い。松の幹から朔くんの顔が覗く。


「はなのおねえちゃん」

「はあい」


 なんとか笑って、立ち上がる。譲の昼寝の邪魔をするのはかわいそうなので、せめて母屋かどこかに行かないと。濡れ縁を歩いて、つっかけを探す。どこかにはあるはずだ。おしゃべりな朔くんがずっと黙りこくっているので、胸は痛むし腹は蹴られるしで散々な気持ち。離れと母屋をつなぐ渡廊下に、サンダルがぽつんと置いてあったので、庭に降りる。涼しい山とはいえ、地面に近い子どもは暑いだろう。朔くんに両腕を差し出す。首に朔くんの腕が回ったので、抱き上げる。

 さすがに直射日光を浴びたら溶けてしまいそうになる。かといって林や竹藪に入ったら虫に食われてひどい目にあうだろう。母屋は見るからに重たい空気になっているので、近寄りたくない。朔くんがこっちに来たってことは、この勘は正しいだろう。母屋の一番奥の障子から入って、狭い廊下の方に曲がっていく。朔くんが抑え込んだ声で、わたしの耳元でささやく。


「おとうさん、おこってるの」

「うん……」


 ぐずっと鼻をすすっている。お昼ご飯のときは、ハンバーグが出てきてにこにこしていたのだけど。大人の都合に付き合わされる子どもはあんまり見たいものではない。ため息がこぼれかけるのを、すんでで止める。

 元はわたしの部屋だった、小さな部屋に入る。勉強机と桐の箪笥、その間に布団を敷いたらもう足の踏み場はない、そんな部屋だ。わたしが家を出る時に勉強机と布団を捨てたので、今は少し広いけど。桐箪笥は着物を仕舞うための立派なものなので、最低限の手入れはされている。

 小さな頃からうんと高級で古い着物や、豪華な振袖が与えられていて、それを受け継ぐことができるのはわたしだけだ。箪笥にもたれて、足を伸ばして座る。背後にあるこの箪笥がうんと重圧に感じたこともある。


「このおへや、はいったことなーい」

「芳乃お姉ちゃんの部屋だからね」

「そうなの?」


 うん、と答える。子どもの扱いが得意なわけじゃないので、甥との会話は少し緊張する。ふぁ、と小さなあくびがこぼれている口をつつく。ふだんだったら昼寝の時間だろう。正直寝てくれた方が気楽ではあるのだけど。


「このへや、くらいねえ」

「そうね」

「はなのおねえちゃん……」

「なあに」

「おとうさんがこわいかおしているのは、なんで?」


 言葉を考える。この言葉は、もしかするとこの子がずっと覚え続ける言葉になるかもしれない。だから、子どもと話すのは、怖い。


「朔くんのお父さんはね、朔くんのお母さんが大好きなんだけどね」

「うん……」

「朔くんのお母さんをいじめる人が来ちゃってね、その人にね、はやく帰ってーって、お父さんが言ってくれたのよ。お母さんが大好きだから、うーんと怒っちゃったのね」

「おかあさん、いじめられたの?」


 すんっ、と朔くんが鼻を鳴らす。子どもに言うべきではなかったことまで言ってしまった、かも、しれない。失敗を悟って唇を噛み締める。自分の母親が嫌われてるなんて、わたしにとっては当たり前だったけど、朔くんには言うべきではなかった。

 膝によじのぼってきた体を抱き寄せる。背中をとんとん撫でたら、小さな頭が重たくのしかかる。本当に、大きくなった……。


「ううん、お父さんがすぐにやっつけてくれたから大丈夫」

「でも、おとうさん、こわいかおしてた」

「そうね、ちょっと怖い顔してたかもしれないね。びっくりしたね」

「こわかった……」

「うん。ごめんね。ひとりで、お父さんのお部屋で待っててくれてありがとう。怖かったね。もう大丈夫だよ。なんにもなかったからね……」


 強ばっていた小さな体が脱力する。しばらく返事がなかったので、そっと顔をのぞく。目を固くつむっている。寝てしまったようだ。柔らかくて丸い頬に流れた涙をそっとぬぐう。大きなため息がこぼれた。あとでお兄ちゃんと義姉さんに言って、叱られよう。ずっしりと重たさを増した体躯を抱えて立ち上がる。

 部屋から出て、細い廊下を歩く。ひと気がないだけで、記憶にある実家よりうんと居心地はいい。南の方に出て、内庭を囲む縁側を進む。中庭には、水を止めた鹿威しがぽつんとある。今は動かしていないのだろうか。小さな池も水が枯れている。

 日当たりと風通しが良いこのあたりは、昔は父母と兄の部屋が並んでいた。兄の部屋の場所は変わっていない。兄の部屋から、かすかにお茶のにおいがした。障子は開きっぱなしだったので、遠慮なく顔を出す。


「お兄ちゃん」


 最低限の家具と、花。藍染の布。その真ん中で、兄が温度の低い声でわたしの名前を呼ぶ。


「芳乃。……入りなさい」

「失礼しまーす」


 兄が、部屋の片隅から薄藍の麻で包まれた座布団を引っ張り出して、床に並べる。そっと朔くんをその上におろす。腕がじんと痛む。タオルケットを兄が朔くんにかける。扇風機のスイッチを押して、わたしの真ん前に正座する。

 確かに怖い顔をしている、と内心ため息がこぼれた。怒らせてしまったのは、わたしだ。


「ごめんね、いろいろ……」

「別にお前だけのせいではない」

「そうね」


 青白い湯呑が、ひとつだけ文机に置いてあった。この兄がわざわざお茶をいれるはずもないので、義姉がさっきまでいたんだろう。タイミングがいいんだか悪いんだか、わからないけど。

 湯呑を見つめながら、口を開く。うんと叱られそう。


「朔くん、泣かせちゃった」

「……」

「朔くんに、義姉さんがいじめられちゃったって、わたし、言っちゃった。言うべきじゃなかったね。ごめんなさい」

「……」

「お兄ちゃんも、義姉さんも、迷惑かけてごめんなさい……」

「……」


 沈黙が降りる。あんまり二人っきりで話したことはないのだ。兄妹のくせして。

 優しくて、まじめな人だと、譲には紹介した。習い事の成績が悪くて、雪の降る庭に裸足で出されたわたしをそっと中に入れてくれたのも、夜の山を徘徊するわたしの手を引いて連れて帰ってきてくれたのも、兄だった。父母ではなく。

 兄はどんなときでも黙っていた。わたしも、問いかけることはしなかった。引き結ばれた唇と、わたしとは合わない視線。今日も沈黙に困ってしまって、わたしもうつむく。膨らんだ腹が目に入る。わたしのことを、どう思っているのかも、わからないまま。蝉の鳴き声が鼓膜を叩く。脱水症状かもしれない、と少しぼやけた頭で考える。頭が痛い。


「……芳乃」


 兄の声に顔をあげる。ぱちりぱちりと兄が瞬きをした。


「……ずいぶん顔色が悪い」

「そう? ああ、でも、ちょっと体調悪いかも」

「なにか飲みなさい。お前は暑さに弱いんだから。昼食もそんなに食べてなかっただろう。午前中もずっと移動していたんだから。休めと望も言ってたのに。朔の面倒を見てくれたのは、有難いが」


 引き結ばれていた唇がすらすら動いている。兄がわたしにこんなに話しかけるなんて、初めてじゃないだろうか。


「お前はもっと体を大事になさい。ここに来たときも顔色が悪かったのだから、ゆっくり休みなさい。明後日には、お前たちの家に帰るんだから。……言ってしまったことは、仕方なし。あんまり気にしないように」

「う、うん……」

「朔は、芳乃に会うことを楽しみにしてた。お前まで暗い顔をしていたら世話ない」


 兄のささくれの目立つ指が、朔くんの髪を撫でた。脆い花を触るようだ。


「……朔くん、よくわたしのこと覚えていたね」

「写真を……」


 ふっと言葉が途切れた。え、と声が出た。写真なんて、残していっただろうか。卒業アルバムくらいしか残っていないはずだけど、わたしすらどこに仕舞ったか覚えていない。わたしの部屋のどこかにはあるはずだけど、さっき見た限りだとなにも残っていなかったから、捨てられたものだと思っていた。


「写真? わたしの?」

「……まあ、うん。体調はどうなんだ。休んできてもいいんだが」

「うん、まあ、大丈夫」

「もうここは、お前の家ではないけれど」


 ここをお前の家にする必要は、もうないけれど。


「ゆっくりできる場所には、なっただろう。少しは。ゆっくりしてなさい。朔には、私から言っておくから」

「うん。ごめんね」

「あんまり謝るのはおよし」

「はぁい」

「……顔色は、悪かったけれど、表情は明るくなった、と、私は思った。譲さんは、本当にいい人そうだし、お前が信頼しているなら、私は結婚に反対しない。お前は、人を見る目はあるんだから」

「人を見る目があるなんて、初めて言われたわ」


 それも、兄になんて。兄が大きく瞬きする。正座していた足を兄が崩すのを見て、それにならう。足がむくんでいる。


「昔から、お前が人を見る目があったよ。母さんも父さんも、お前の話しをもっとちゃんと聞いていればよかっただろうに」

「そんなこと思うことあった?」

「……」


 兄が黙って立ち上がって、部屋から出て行った。一瞬あっけにとられたけど、兄が黙ったまま行動するのは、いつものことなので。ふうとため息をついて、兄と同じように朔くんの額を撫でる。穏やかな寝顔だ。丸い頬をつつく。

 丸い輪郭や、ぱっちりとした瞳は、義姉さんに似ている。男は母親似になるものだけどねえ、とお手伝いのおばあさんが言ってたのを覚えている。わたしと兄は、母にも父にも似ないで、早く亡くなってしまった祖父に似ているとよく言われた。たしかに仏壇に飾られている遺影の、祖父の不機嫌そうな顔は兄によく似ていた。わたしに似ているかと問われると、あんまりわからないけど。

 兄妹そっくりだと、譲は笑っていた。義姉さんも、あなたたちそっくりねえとよく言う。そういう義姉と朔くんの笑い方はそっくりなので、こちらも笑ってしまうのだけど。

 義姉と初めて会ったのは、兄の展示会で、寒い冬の日だった。朗らかに笑って、こんにちは、と言ったのを覚えている。兄はもう一人ではなくなった、とそのとき思ったのだ。

 兄が廊下から戻ってきて、ピッチャーから麦茶をコップにそそぐ。有難く受け取って飲み干す。


「ごめん、じゃなかった、ありがとう。わざわざ立たせてごめんね」

「私も喉が渇いていた」

「そう……」


 香ばしいにおいを舌先でなめる。扇風機のうなり声がけだるくて、ぼんやりとした眠気を誘う。クーラーを置けないのは、この家が重要文化財に指定されていて、コンセントひとつ増設するためにも、面倒な手続きがたくさんあるからだ。実家で涼をとる方法といえば、もっぱら扇風機と打ち水、水浴びだ。

 兄の方をちらっと見上げる。大きく息をついているところだった。


「お兄ちゃん、なにか食べたいものある」

「え?」

「今晩はわたしが作るから。お兄ちゃんのリクエスト聞けるよ」

「……朔の方に聞いてくれればいい」

「わかった」


 小さい子供にご飯作るなんて初めてだけど。どうにかなるだろう。義姉さんもいるのだし……。


「下町の、緒方さんは覚えているだろう」


 からん、と氷がピッチャーの中でころがる。緒方さん。ああ、と声をあげる。


「うん、覚えているけど。昔はけっこう付き合いあったよね。今はあんまり話し聞かないけど」

「夜逃げした」


 口に入れかけていた麦茶を止める。こんな田舎で夜逃げなんて穏やかじゃない。

 緒方さんは嫌いだったから覚えている。うちの畑を借りて農作をしていた関係で出入りがあったけど、わたしに対してどこか馬鹿にしたしゃべり方をしていた。どれだけ父母に丁寧な対応していようが、あの話し方が本性だ、と母に言ったことがある。大人のことに口出しするなとひどく叱られたものだけど。


「先月くらいに。あちこちに金を借りたままどこかに行ってしまった」

「あらま。あれ、うちは?」

「いくらかは……母さんと仲良かったから、仕方ない」


 そんなことになってたなんて知らなかった。挨拶に回ったときに下手なこと言わなくてよかったと胸をなでおろす。嫌いな人なので、よっぽどじゃないかぎり話題には出さないけど。

 いくらくらい、と問うか迷ってやめる。この家の問題なら、わたしに口を出す権利はあまりない。そもそも月に一回の電話にも、義姉さんの話しにも出てこなかった時点で、そこまで大きな問題にはならなかったのだろう。


「……私も、緒方さんは苦手だったよ。先代から付き合いがあったから仕方なかったけれども。芳乃の言う通り、付き合いをすべきではなかったんだ」

「まあ……でもたまたまだよ。だってあの人、わたしのこと馬鹿にしてたから。いまどき珍しいくらい男尊女卑だったから」

「その時点で信用ならない人だと、私は思う……」


 少しお茶を飲んで、喉の中を冷やす。兄が小さくため息をつく。


「芳乃が苦手にしていた人と付き合っていたら、たいていろくなことにはならなかった。母さんが用意した私の見合い相手も、みんな芳乃は苦手にしていただろう」

「だって、あの母さんが連れてきた人だもの。わたしのことなめている人ばっかりだったよ」


 あんまり持ち上げられても困る。たいていは傲慢で、長子ではないわたしを下に見るような、血筋を崇拝しているような人ばかり連れてきていた母が悪いのだ。誰にも無関心な兄なら、誰でもいいと思って、母に一番都合のいい人を差し出していたにすぎない。


「そうだが。でも、親より芳乃の方が信頼できると昔から思っていた」

「それは、有難いけど。褒めたってなんにも出てこないよ」


 兄が小さく笑った。つられて自分も笑ってしまった。信頼してもらえているなら、それは悪いことではない。父母より兄の方が信頼できるのは、わたしもそうだ。反面教師が身近にいた同士だから。


「まあ、褒め言葉は有難く受け取るけどさ。ああ、お兄ちゃんとこんなに話せるなんて思わなかったから、嬉しかった」

「……別に、いつでも、話せばいいだろう。電話でも」

「お兄ちゃんが電話に出たこと、ほとんどないじゃないの。手紙だっていつも義姉さんばかりで」

「……」

「お兄ちゃんが連絡するなんて、ひどいことが起きたときだけだから、別にいいんだけどね。気にしてはいないよ」


 兄が電話口に出たのは。義姉さんと家を飛び出したとき。譲を父母に会わせないために、この家に連れてきてほしいと言ったとき。あとは義姉さんが、たまには話しなさいと言わないかぎり、電話には出ないのだ。べつにそれでもいい。仲のいい兄妹というわけじゃないから。

 お茶を飲み干して、立ち上がる。


「今日は、ありがとう。散々だったけど、悪いことだとは、わたし、思ってないよ。お兄ちゃんといっぱい話せたしね」

「なら、いい」

「うん。今度は、うちに来る方がいいかもね。冬は、こっち寒いし。じゃあわたし、離れにいるから。朔くんには、食べたいもの聞いて、教えてね。お邪魔しました」


 兄が小さくうなずく。廊下の方に出て、家の中を抜けていく。

 あらためて、わたしがこの家にいたころとはずいぶん様変わりした、と思う。離れは大切な客が来たときに、茶室として使うくらいなので、そんなに変わっていないのは、当たり前と言えば当たり前だ。あそこは、祖父が大切にしていたところなので、あんまり手を入れるのは憚れるだろうし。

 昔は過剰なほどたくさん飾られていた花や、掛け軸、壺の骨董品がなくなっている。小さな子どもがいるのだから当たり前だけど。朔くんが廊下を走っていると、ぎょっとしてしまうのは、家具も装飾品も傷付けるとひどく叱られていた昔を思い出すからだ。蔵に閉じ込められたことが何度もある。

 思い出すのも嫌だったことが、するする脳内でほどけていく。ため息の中に、諦めが混じった。この思い出を一生抱えていくしかない。ただ、それは、そんなに苦しいことではない。今であれば。


          *


 この家の夕飯がはやいのは、朝型の生活が染みついた兄のせいだ。にゅうめん、キュウリとツナのサラダ、ワカメと玉ねぎの酢の物とじゃがいもとひき肉のコロッケを食卓に並べる。まだ外は明るい。夕方五時のチャイムが鳴り響いている。

 朔くんが満面の笑みでおいしいおいしいと言っているのを見て、胸をなでおろす。義姉さんも一緒に作ってくれたので、味に間違いはないと思うけど、小さな子どもにはおいしいものを食べてほしいものだから。特に昼間にぴりぴりさせた犯人のひとりなので。

 ワカメの酢の物は、義姉さんの味付けで、酢が効いている。台所が暑かったので、冷やした酢の物がおいしい。


「そういえば、譲さんと芳乃ちゃんはどこかに行く予定はないの?」

「本当は、今夜山に登って星でも見ようかと思ってたんですけど。ちょっと疲れたのでやめにします」

「あら、そうなの?」

「明日は市内に出かけるので……星を見るなら、夏より冬ですし」


 そうね、と義姉さんが笑う。田舎なので、星は綺麗に見えるのだ。夏より冬の方が空気が綺麗なので、どうせなら冬がいい。死ぬほど寒いけど。


「じゃあ、今日はゆっくりするのね。それもいいと思うわ」

「はい」

「譲さんは、お酒は飲むの?」

「え、あ、はい。たまに」

「なら、芳乃ちゃんと晩酌でもいいんじゃないかしら。なにかおつまみを作る?」

「ええと、ありがとうございます」


 譲がちらっとこちらを見る。急いでコロッケを飲みこんで、義姉さんに返事をする。


「こっちで適当に準備するので大丈夫です。ありがとうございます」

「そう? じゃあ、台所のものは勝手に使ってね」

「はい。離れの台所もあるので大丈夫です」


 たしかにお酒を飲みたい気分かもしれなかった。仕事も入っていないし、明日は出かける予定だけど、朝早くからというわけじゃない。酔っぱらうほどお酒を飲んだ覚えは数年ないけど、正気を失うほど飲むのも一興だろう。

 この家なら、いい焼酎の一本や二本あるだろうから、一本くらいかっぱらってしまおう。たいがい疲れたので、そろそろご褒美がほしい。

 ごちそうさまでした! と元気のいい朔くんの声が響く。兄が朔くんの口元をティッシュで拭いて、立ち上がらせる。


「ごちそうさま。じゃあ、朔を風呂に入れてくるから」

「はあい。よろしくお願いします」


 朔くんの笑い声が遠くに歩いていく。テレビは消しているので、急に部屋の中が静かになる。


「朔は、後は智草さんが見てくれるから。今日は譲さんと芳乃ちゃんが世話してくれて助かったわ」

「わたし、朔くん、泣かせてしまったんですけど……」

「あれは芳乃ちゃんのせいじゃありません」


 ぴしゃんと義姉さんが言う。


「芳乃ちゃんの責任じゃないことを、自分のせいだと言わないでね。さ、ご飯食べて、ゆっくり休みましょう。そうだった、お酒はなににする? 焼酎と、日本酒と……ああ、暑中見舞いで酎ハイもらったから、それもよかったら」

「ええと、じゃあ、焼酎と酎ハイで」

「わかったわ。そういえば、芳乃ちゃんって、お酒詳しいのね。春先にいろいろ送ってくれたでしょう。あたし、芳乃ちゃんがお酒が好きなんて知らなかったわ」

「わたし、じゃなくて、譲が好きなんです。わたしは付き合い程度なので」

「まあ、そうなの」

「祖父が好きなので、いろいろ教わったんです」


 そうなの、と義姉さんと声が被った。いろんなお酒を買ってきて飲むのが好きなのは知っているけど、理由までは知らなかったから。


「ええ、はい。祖父はうわばみで……何度かつぶされましたけど、いろいろ詳しくはなったと思います。僕もなんでも好きなので」

「おじい様と仲いいのねえ」

「そうですね、祖父母にはよくしてもらってます」


 にゅうめんの汁を飲み干す。食卓に並べた料理の大半は食べ終わって、なんとなく解散しそうな空気になりつつある。家族の話しになりかけて、譲の空気がぴりっとしたので話題をそらした方がいいか、ほんの一瞬考える。わたしと目があった義姉さんが、ぱちんと瞬きをする。ごちそうさまでした、と義姉さんが手を合わせて言って、そのままにこっと笑う。


「焼酎は、芋焼酎なんだけど、譲さんは飲んだことあるかしら。けっこう独特なかおりなんだけど」

「ああ……このあたりは焼酎を芋で作るんでしたね」


 義姉さんなら滅多なことは言わないんだった、と安心する。食べ終わった食器をまとめる。譲はお風呂入っててよ、と言い残して、義姉さんと連れ立って薄暗い廊下を歩いて、揚げ物をした後の熱気が残っている台所に入る。お兄ちゃんと朔くんの食器は食器洗浄機に並べてある。古い型の蛇口を捻って、自分が持ってきた食器に水をそそぐ。

 水が流れる音を聞きながら冷蔵庫を開く。夏野菜がどっさりあるので、これでなにか作れるだろう。義姉さんも顔をのぞかせる。


「なににしようかしらねえ。茄子の煮びたし、トマトとチーズのカプレーゼ、オクラのマヨネーズ焼き、焼枝豆……」

「そんなにたくさん作りますか?」

「若いんだもの。たくさん食べてちょうだい」


 ふふ、と小さく笑ってしまった。若いなんて。二十代もそろそろ半分なのに。そりゃあ、義姉さんたちからしたら子どもだろうけど。まだ夕方の六時すぎだ。いつもの夕食より何時間も早いから、夜中にはお腹が空いていそうなものだし。

 ひとまず夕飯のぶんの食器を簡単に洗って、食器洗浄機に並べる。義姉さんが茄子を洗って皮をところどころ剥く。オクラを板ずりして、と言われたので、まな板の上に何本かオクラを置いて、塩をまぶす。オクラのマヨネーズ焼き。作ったことないので、どんなものになるのか楽しみだ。


「塩は洗い流して」

「はい」

「そしたら、そのままマヨネーズで和えてね。切らないままね」

「わかりました」


 義姉さんの言う通りにオクラを処理する。耐熱皿の中に入れて、オーブンで三分。その間に、トマトとモッツァレラチーズを切って、塩コショウとオリーブオイルをかけて、カプレーゼにする。酒のつまみなので塩も胡椒も多めにしておく。

 枝豆は枝についたまま、ビニール袋にたくさん入っていた。おすそ分けでたくさんもらっちゃったからたくさん食べてね、と義姉さんが茄子の面倒を見ながら言ったので、両手いっぱいに取り出す。水で洗って、使い終わった包丁をまな板を洗い終わる間、ボウルの中で水につけておく。枝豆をザルにあげて水気を切ったら、ちょうど茄子を義姉さんがフライパンから出したところだった。キッチンペーパーで油を吸い取って、新しい油を薄く引く。なべ底に枝豆が重ならないように広げて蓋をする。このまましばらく放置で焼き枝豆は完成する。

 マヨネーズが天ぷらの衣みたいになったオクラを食器に並べる。こっそり一本もらってつまみ食いする。マヨネーズの香ばしさとオクラの粘り気がおいしい。耐熱皿はまだ熱いので、後でまとめて洗おう。

 枝豆に焦げ目がついていたので、菜箸でかき混ぜる。枝豆は塩ゆでもおいしいけど、じっくり炒めたらまた違うおいしさになる。仕上げに塩を入れて、食器にざっと盛る。義姉さんが小鉢に七味マヨネーズを作ってくれた。マスタードも出して、お盆に乗せておく。冷やしておいた茄子の煮びたしに鰹節を乗せておしまい。ふう、と小さくため息をつく。料理は、嫌いではない。必ず結果が生まれるから。

 玉すだれがからころいう音に振り返る。譲が朔くんに手を引かれて、そこに立っていた。お風呂から出てきたばっかりなのだろう、ふたりとも髪が濡れている。小さな朔くんに手を引かれて、中腰になっている譲をちいさく笑う。


「どうしたの。髪も乾かさないで」

「いや、僕も手伝えそうならって思ったんだけど」

「もう作り終わっちゃったわ。でもありがとう。どうやって運ぼうかなって思ってたところなの」


 料理はお盆に置くにしても、一升瓶もあるし、酎ハイの缶はいくつもあるし。義姉さんが後片付けはしておくから、と言ってくれたので、お礼を言って台所から出る。兄の部屋も離れも奥の方なので、ついでに眠たそうに目をごしごしこすっている朔くんを兄の元に送り届けておこう。

 ビニール袋に入った焼酎瓶と酎ハイを持って、先を歩く譲の背中を見上げる。ぽつっと首筋に髪から雫が垂れた。浴衣も似合うだろうなあとぼんやり思う。背中が広いので、ぱりっとした布地の方がよさそうだけど。夏祭りでもあれば、無理矢理にでも着せるのだけど、あいにくわたしの地元では秋にある収穫を祝う祭りしかない。

 バスタオル片手に廊下を放浪していた兄に朔くんを預けて、離れに向かう。髪の毛乾かしてあげないと義姉さん怒るよと一応付け加えておく。

 お酒が入ってなにもかも面倒になる前に、と離れの部屋に蚊帳を張る。蚊取り線香にも火をつけておく。離れは人が生活する前提で作られていないので、網戸がなくて少し不便ではある。蚊取り線香や薄荷を使って虫を遠ざけるのは、わたしは慣れているけど、譲には面倒かもしれない。

 りー、りー、と虫の鳴き声が響いている。テレビをつけていないので、夜の静けさが響き渡るようだ。このあたりは滅多に車も通らないし、人の話し声もしないので。この家がもっと過ごしやすければ、ここで執筆をしたいくらいなのだけど。

 大切にしていたものを捨てられた記憶が色濃く残っているせいで、あんまりこの家に仕事関係のものを持ち込みたくない、と思う。兄や義姉さんがそんなことするはずないのは、わかっているけど。


「先に風呂行ってきたほうがいいよ」

「ええ? でも、料理冷めるでしょ」

「レンジでチンすればいいじゃん。酒入った後に風呂入るのは、僕、嫌だよ。危ないから」

「んー……うん、わかった。先食べてていいよ。さっと入ってくるから」


 お酒を飲んだあとにお風呂に入るのは確かに危ないし、面倒だし。料理をしたら暑くて仕方ないので、汗もかいている。さっさとお風呂に入って、全身洗い流したいところではあった。

 薄暗い洗面所で鏡に映る自分を見たら、目元に疲れがにじんでいて、少し笑ってしまった。そりゃあ疲れたに決まっている。早くお風呂に入って、おいしいものを食べて、寝てしまおう。服を脱いで、シャワールームに入る。生ぬるいお湯を頭から浴びて、目をつむる。水が柔らかに皮膚をつたう。

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