今夜はナイフを踏みしめろ
磨き上げられた木、は、わたしの実家。それが嫌いだった。床に欄間、鴨居、反射するほどに拭き上げて、磨いて、油や蜜蝋を塗り。木目は無数の目。きしむことなくきちんと並べられた床板はわたしの前で頭を下げる親戚たち。
わたしに与えられた場所は、家の最奥のちいさな部屋だった。窓はちいさく、板間は冷たかった。昔は使用人か、書生の部屋だったのだろう。半ば忘れ去られた書庫の目の前にあることと、ひと気がないことだけが利点の部屋だった。
そんな磨き上げられた廊下を足早に通りぬける。自分の履いていた下駄がぽつんと置いてあった。まだ母親は来ていないらしい。走ったり朔くんを抱きあげたりで崩れた袂を整えるべく、おはしょりを前も後ろも軽く引っ張る。髪の毛はさっきまとめ直したので大丈夫だ。
「どう、変なところはない?」
「くち」
下唇の際を譲がとんとんと叩く。帯にはさんでいたスマートフォンを出して、カメラを起動する。不格好によれているのに舌打ちをして、塗り直す。面倒な服装をしているときに面倒な人が来たものだ。どんな隙であっても、わたしの母ならあげつらうに決まっているので、直さざるをえない。懐紙で余分なクリームを落として、懐にしまい込む。
譲を見上げる。土壇場になったら笑うしかない。
「どう? きれい?」
「きれい」
短く笑い声をあげる。譲がきれいと言えば、その通りだろう。母親に罵られたところで別に、なんともない。母に誉め言葉をねだるなんてとうの昔にやめたのだけど。
「じゃあ、いいか。いつ来るんだろう。事前連絡もなしに来るなんて、これだから、社会になじんでいない人は嫌ね」
「まあ、自分の家だろうから」
「あの人たちの家じゃないよ」
そりゃあ、両親の家だったけど。
「ここは名実ともにお兄ちゃんの家。お兄ちゃんが勝ち取ったもの。……あとでくわしいこと教えるね」
「うん」
「……ああ、来た」
からころ下駄が鳴っている。大きく深呼吸して、玄関が開くのを見守る。強い香水のにおいがした。やはり嫌いだと、何より先に思った。
「いらっしゃい、お母さん。連絡もなしに、用事はなあに」
「玄関口で客の用事を聞くなんて、無作法なことをしないでちょうだい」
「客じゃないもの」
口元が笑うのを自覚する。覚えている姿より、白髪が増えている。べっ甲の柄に、派手な装飾が施された杖をついている。足が悪くなったなんて聞いていないけど。年老いたようねと言ってやろうか迷う。いつもは忘れている、自分の中に潜む悪意が吹きこぼれてくるようだ。
母の視線がわたしの腹をじっと見つめてから、背後に向かった。傲岸な視線だ。
「まだあなたはそんなみっともない体をして。いい加減甘えるのはやめて病気を治しなさいって何度言ったらわかるの」
「お母さんの性格が治んないようにね? わたしの体がどうとかお母さんには関係ないって、わたしも何度も言ってるのに忘れてる?」
「あなたじゃ話しにならないわ。智草はどこ?」
ちいさく息を吐く。この程度で帰ってくれる人なら、兄はわざわざこの家を乗っ取るような真似はしなかっただろうし、わたしは創作に頼らずにアイデンティティを確立していただろう。下駄を脱いで、ずかずか廊下を歩いていくので、無理やり前に割り込む。この家を勝手に歩かせたら兄が烈火のごとく怒り狂うだろう。
「お兄ちゃんはいないよ。客間で待ってて。連絡はしてるから」
「ああそう。あの女はいるの」
「義姉さんをあの女なんて言わないで。だからお兄ちゃんが許してくれないのよ」
なんでこの家はこんなに廊下が広いんだろう。客間のふすまを開けて、廊下の先には行かせないために両手を広げる。青いアイシャドウを塗った目が、こっちをじろっと見つめる。さすがにこれ以上は、わたしも責任を負えない。客間に通しているのだってギリギリの選択肢だ。
ここは兄の家だ。わたしも母も勝手することは許されない。膨大な土地と、雇っている人たち。管理が面倒な古い家。昔から伝わる財産。近所の人々との人間関係。家元として働きながら、兄はそれらを掌握して、完璧に保っている。義姉さんと結婚して、子どもを育てるという目的のためだけに。父と母をこの家にいれないためだけに。
お母さんの後ろに立つ譲が、目くばせをした。視線の先を追って、自分の背後を振り返る。髪をひとつにまとめた義姉さんが朗らかに笑った。
「お義母さん、ようこそいらっしゃいました。どうなさったんです、そんな廊下に立って。どうぞお座りになって、お茶を飲んでくださいな」
「まだこの家にいたの。図々しい女ね」
「智草さんはあと十分くらいで来るそうですよ。客間に通してと言ってました」
母が不満気に鼻を鳴らして、客間に入る。当然のように上座に座るので、苛立ちがさらにこみあげる。人に認められるために、マウントを取る以外の方法を知らない人なのだ。目上の人だから、上座に座るのは、間違っていない。母以外の全員が、そんなことをしたら兄が怒るとわかっているのに。
義姉さんがお茶を茶菓子を机に並べる。その所作を母が見つめているので、さっさとこちらに注意を向けてもらうことにする。
「で、用事はなんなの。わかっているけど」
「あなたじゃ話しにならないって言ってるでしょ」
「だってわたしの彼氏を見に来たんでしょう。物見高く」
「物見高くとはなんですか。娘のことを心配しているだけじゃないの。それより、なんですかこのお茶は。安いお茶を使っているわね。安いにしても、こんな渋くなるように淹れるなんて。わたしがここにいた時は、そんなこと絶対にさせなかったのに」
義姉さんがすみませんと小さく言う。絶対にそんなことないのに。義姉さんがこの家に初めて来たときに、頭から水をかけたのをわたしは知っている。見た目だけは上品な奥様を気取っているけど、選民思想と古臭い偏見に満ちた人だって、わたしも兄も知っているのだ。
部屋の中をじろじろ見ては、やれ掃除が甘いだの、床の間がなっていないだの言い始めたので、舌打ちする。
「床の間の花はお兄ちゃんが挿しているんだから、滅多なこと言わないで。義姉さん、もうこっちはいいので、奥の仕事をしてもらえますか」
「まあ、客を置いていくなんて」
「うるさいな。お茶を出したらすぐに引っ込むのが普通でしょ。義姉さんもお兄ちゃんも忙しいんだから。無理を通してるのはそっち。義姉さん、行ってください」
「じゃあ、すみませんけど、失礼します。どうぞごゆっくり」
愛想よく笑う義姉さんに心の中で手を合わせる。よくまあこんな親を持つ兄に嫁いできてくれたものだ。机を人差し指の爪で叩く。
「わたしの彼氏はどんな人かって、お兄ちゃんが知っていればいいって、お父さんと話しがついたんでしょ。お母さんが入る必要ないの。わかっている?」
「娘が心配じゃない。あなたは心が弱いんだから」
「お母さんに心配されるいわれなんてない。わたしが彼を選ぶのに、わたしの意思と判断以外に必要なものなんてないの」
「騙されてたらどうするのよ⁉ 曲がりなりにも良家の長女として生まれて、我が家の財産を受け継ぐあなたに寄ってくる人なんて、ちゃんとした人がどんな人か見ないといけないに決まってるでしょ!」
「ちゃんとした人は、本人を目の前にしてそんな失礼なこと言わない。馬鹿じゃないの。なにを言ってるかちゃんと自覚して口開いている? 頭使ってる? 大人って自覚ある? 娘の大事な人だって、わかってる?」
頭が沸騰しそうだ。もっと汚い言葉を吐きそうになるのを、譲がそっとわたしの膝を叩いて止めた。
怒りでちかちかする視界で譲の顔を見る。外面用の笑い方をしている。だから、だから嫌だったのだ。譲を傷付けるとわかっていたはずなのに。甘えたわたしが悪い。
「芳乃、親なんだから、そりゃあ心配するに決まっているだろう。いや、ご挨拶が遅れました。志摩譲といいます。芳乃さんにはお世話になっています」
「志摩さんとおっしゃるの」
譲が笑う。さわやかな青年だ。膝の上においている手の関節が真っ白になるほど握りしめられているのに。
「どういう了見でうちの娘と付き合おうなんてことになったのか知らないですけれど。娘には我が家に相応しい人を相手に選ばないといけないと思っていたところで、わたしもびっくりしてしまって」
「突然知らない男と付き合ってると聞いたんですから、ご心配なさったことでしょう」
「ええ! なんてったって、この子ったらいつまでも精神の病気にかかっていますし、こんな体になっているのに、恋人ができて、しかも同棲しているなんて。都会はいろんな人がいるでしょう? 騙されていたらことですから」
「芳乃さんはしっかりされていますから、そんな、まさか、騙されるなんてないと思いますよ」
「恋は人を馬鹿にしますから。娘も、若くて分別がないんです」
兄と義姉を遠回しに馬鹿にしていると気付いて、机を感情のままに叩く。譲の声も遠くに無視して。なにが。なにが!
「あんまり馬鹿にしないで! 何様のつもりなの!」
「あなたこそなによ、親を怒鳴りつけるなんて!」
「あなたを親だと思ったことはないんですよ」
母さん、と冷え切った声色で、兄が言う。大股で客間に入ってくる。座りもしなかった。岩のように母の目の前に立ちふさがる。譲がわたしの肩をつかんで、前のめりになっていた体を引っ張る。は、と詰めていた呼吸がこぼれた。兄が、こんなに怒っているのを、久しぶりに見た。
「あなたは私と芳乃の親ではないんですよ。だから、芳乃が誰と付き合おうが関係ないって言われるし、口出し無用なんて言われるんですよ。意味がわかってもわからなくてもはやく帰ってください。この家にあなたは不要ですからね。さあ立って」
「智草、あなたならわかるはずでしょう。芳乃に言ってやってちょうだい」
「なぜあなたの言うことをわからないといけないんですか?」
兄は着物の懐に、必ず花ハサミを入れているので、ハラハラすることこの上なかった。いや、兄が大切にしている花の道具で人を傷つけるはずなのは知っているのだけど、あんがい馬鹿にできないくらい刃が鋭いので。兄なら必ず磨き上げているから。
「帰ってください。もうここはあなたが大きな顔ができる家じゃないんです」
「智草」
「怒鳴っても殴っても構いませんよ。どうだっていいですから。痛くも痒くもありません。あなたごとき、もうどうでもいいんです。忘れてあげているんです。私のお金で楽しく老後生活を送っているんですから文句を言わないでください。あなたたちの言う通りに家を受け継いであげて、この家を維持も管理もしてあげて、もういいでしょう? それで満足するとあなたたちは言いました。私の家族に手を出さないと言いました。芳乃は私の家族です。手出しは無用。それではさようなら。おかえりください」
ぐうっと顔をしかめて、母が立ち上がる。母が動くと香水のにおいが強くなった。
玄関まで兄が無言で母を追い立てる。門の外に待たせていたタクシーに乗せて、行先は駅ですと有無を言わさない口調で告げる。買い上げたはずの喧嘩を兄がかっさらって行ったので、後ろでなかばぼーっとしていたら、不意に母がわたしの方を向いた。
「芳乃」
「はい?」
「わたしはあなたの幸せを思って言ってるのよ」
「そんなこと言うからお兄ちゃんが怒るのよ。大人しく帰ってね。運転手さん、ごめんなさい、行ってください」
まだなにか言いたげな母を乗せて、古い車が出発する。大きく息を吐く。相変わらず強烈な人だ。兄の顔を見上げる。いつも通りの無表情に戻っていた。
「ありがと、お兄ちゃん。いやあ、大変だったねえ」
「私は別になんともない。……譲さん、すみません。嫌なことに巻き込んでしまって」
「いえ、僕が大丈夫だと言ったので。あの、けっこう、きついこと仰ってましたけど、大丈夫でしょうか。今後の関係とか……」
「あの人たちと良好な関係を作る予定はひとつもないのでなんともありません。芳乃、譲さんと休んできなさい」
「はあい。ごめんねって、義姉さんと朔くんに言っておいてね」
顎を小さく引いて、兄がうなずく。庭つたいに離れまで行ってしまおう。譲のあせばんだ手を取って、歩き出す。早く着物を脱ぎたい。手始めにまとめていた髪の毛をほどく。
離れがすぐそこまで来たので、隣を見上げる。譲がぎゅっと唇を噛み締めていた。
「譲?」
「あ、え、なに?」
「こわーい顔してるよ」
濡れぶちから上がり込んで、涼しい室内に戻る。奥のキッチンから冷えた缶のサイダーを出して、机の上に置く。足を伸ばして座って、背伸びする。どうせ中に襦袢は着ているので、帯どめからなにからほどいていく。あまりにもお行儀の悪い脱ぎ方だけど、今日ばかりは許してほしかった。
薄い布一枚になったら、だいぶ呼吸が楽になった。冷たさが心地よくてサイダーを一気に飲んだら、少し炭酸が痛かった。着物を膝の上に広げる。一日中キーボードを叩いた日より肩が凝っている。
「あー、もう、疲れた! ごめんね、譲。大丈夫? サイダー飲まない?」
「いや、うん、飲む。ごめん」
「なんで譲が謝るの」
キャミソール一枚でいるようなものなので、さすがに襦袢でずっとぼんやりはできない。重たい腰を持ち上げて、キャリーケースを漁る。七分丈のシャツワンピースがあったのでこれにする。着物用のハンガーが洗面所に置いてあったはずなので、着物も抱えていく。
洗面所で化粧も落とす。タオルを水道水で濡らして、体を軽く拭いておく。しんどいことばっかりだった。お昼もまだなので空腹だ。ボタンをしめて、ハンガーに着物をかけて、昨日寝た部屋に干しておく。汗をかいてしまったので、後でちゃんとした手入れをしないといけない。
「譲」
譲に渡したはずのサイダーは封も開いていない。横に座って、顔をのぞき込む。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あんま大丈夫じゃないかも」
「ええ? そうだよね。ごめん。疲れた? 寝る? たぶんご飯までもう少しかかるけど」
わたしの言葉を遮って、譲が抱き寄せる。額が鎖骨にこつんと当たる。
「しばらくこうしてて」
「う、ん。いいけど……」
はー……、と譲の吐いた息が耳の裏を触っていく。膝の位置を変えて、譲の肩に手を回す。
「芳乃」
「なぁに」
「ずっと一緒にいようって、このタイミングで言ったらどう思う?」
「冷静なときに言った方がいいよって思う」
「ん……」
吊り橋効果に過ぎない、とまではさすがに言わないけど。でも、あんな母親を見た後にわざわざ言ってくれるのは、譲の優しさだ。嘘みたいな、自分のことを顧みない、優しさ。
嬉しかったから、怖い、とも、思うけど。それを言ったら責めているように聞こえてしまいかねない。こんなことに巻き込んだ後に言えることじゃなかった。ぐずぐずした気持ちをごまかすために、譲の肩に顔を埋める。涙が出なかったことに安堵する。譲はすぐに気付くから。
「芳乃のお母さんって、ずっとあんな感じ?」
「そりゃあもう。あれは生まれつきの性格」
「芳乃はよく元気に育ったなぁ」
「なぁにそれ。でもね、どっちかっていうとお兄ちゃんの方が酷かったと思うよ。わたしは半分放置だったもの」
「それはそれでひどいと思うけど」
「ねー。酷かったよ……」
酷かったんだよ、と繰り返す。譲の腕に力が入った。痛いくらい抱きしめてとねだってしまいそう。
「お母さんに、こんな風に抱きしめられた覚えもないんだよー……」
「うん」
「お兄ちゃんは馬鹿じゃないのってくらいのスパルタ教育受けてて、わたしは放置されてたけど、躾と習い事は馬鹿みたいに厳しくてね。お手伝いの人達がよくしてくれてたから、なんとかちゃんとした人間に育ったけど」
親以外はまともな大人たちだったのだ。それがわかるのに長い時間がかかった。幼い頃はまだ生きていた祖母の存在も大きいが。
自己肯定感とアイデンティティの確立。愛着障害。メンヘラ。被害妄想。鬱。膨らむ腹。
「ちゃんとした人間に育ったのかなぁ。わかんないけど。でも、譲がこんなに大事にしてくれるなら今のところは大丈夫。でも、ごめんね、負担だったら、本当にごめん。わたしはひとりでもなんとかなるから、すぐに言ってね」
「ん」
熱のこもった体が、わたしの体を包み込むように抱きしめる。小さく鼻をすする音がしたので、譲の背中を撫でる。
「とりあえず、僕と一緒にいて……」
「うん」
「芳乃のこと、僕はずっと大好きだ」
「ありがと」
「僕のこと、信じられる時はずっと信じてて。それが無理な時は、試してもいいから、一緒にいて」
「試してもいいの?」
冗談めかして言ってみる。わたしの浅ましい言動に、試すな、と強い口調で言うのは譲なのに。
「どっかに行かれるよりかはずっとマシって、思った。怒るけど。試して欲しくないけど。でも、ずっと、あんな親のこと思いながら、ひとりで生きてくのは、つらい、と、思う」
譲の声ががらがらになっているので、顔を見ようとしたら、乱暴に肩口に頭を押さえつけられた。彼が泣いてるのを、わたしは、見たことない。
「僕はそれがずっと辛かったから、芳乃が、そんなことになるのは、嫌。僕と一緒にいて紛れるなら、それが一番いい」
「……ごめん、きつかったよね。わたしは慣れてるから、そんなに重く考えなくていいよ。でも、ありがとう。すごくうれしいよ。わたしは、譲と一緒にいるのが一番。今が一番いいなあって思ってる」
心のどこかで、誰かとわかりあうことをあきらめていたことに気付いたのだ。
「嬉しいし楽しいし、譲がいて助かることばかり。ありがとう。嫌なことに巻き込んでごめんね。おいしいもの食べて休もう」
「うん……」
「お昼は義姉さんが決めてるだろうから言えないけど、夕飯ならどうとでもなるよ。なに食べる?」
嫌なことを思い出しただろう。自分の親を思い出しただろう。今夜はぐっすり眠れるか危うい。今は昼だからまだいいけど、夜中になったら今以上にたくさん嫌なことを思い出して苦しくなる。絶対に。
おいしいもの食べて、早めにお風呂を済ませないと今夜はダメになる。何年もメンタルクリニックに通い続けているわたしが言うんだから間違いない。頭の中に昔親から言われた言葉がこだまして、眠ろうと目を閉じたら虚しさが胸を刺して痛みだす。自分の呼吸がうるさくて仕方ない。些細な音で心臓が跳ね上がる。苦しい夜になる。
「……カラの作ったやつ……」
「うん。なんでも作るよ」
「あれが好き。にゅう麺……」
そんなものでいいのかと拍子抜けしてしまった。昨日の夜も温かい素麵だったけどいいだろうか。譲が言うんだったら作るけど。
「いいね。具材はなににする?」
「なんでもいい」
「おっけー。じゃあ今夜は作るね」
小さくため息をついて、譲が体を離した。鼻先が赤くなっている。
「あー、ごめん。けっこう平気だと思ってたんだけど」
「あんなのきついに決まってるじゃん。わたしもお兄ちゃんもきついなーって思ってるよ」
「ん……」
「お昼はなにかなあ。ちょっと見てくるから、譲は座ってて。ちゃんと休んでてよ」
うんと素直にうなずいた譲を置いて、離れから出る。髪を結ぶゴムを忘れたのを後悔しながら母屋に入って、台所まで歩く。なにかしら作っているかみしれないと思ったけど、物音はほとんどしていない。玉すだれをかきわけて、広い台所をのぞく。
休憩用の机で、義姉さんが突っ伏していた。明るく染めた髪が広がっている。
「義姉さん、大丈夫ですか?」
「芳乃ちゃん?」
ぱっと義姉さんが笑顔を作った。
「ごめんなさいね。お昼ご飯準備しなきゃ」
「いえ。出前頼みましょ」
残念ながらピザだのが配達範囲外の田舎だけど、山のふもとにある、昔ながらの定食屋に電話したら、お弁当を作って持ってきてくれる。電話機の置いてある棚から電話帳を取り出して、開き癖のついたページを開く。番号を押す。懐かしい、威勢のいいおじちゃんが電話に出る。ふつうのお弁当を四つ、半分の量のお弁当をひとつ頼む。
日替わり定食をお弁当にするので、なにが来るのかはわからないけど。受話器を置いて、義姉さんの方に振り向く。
「30分くらいで来るらしいです。大丈夫ですか?」
「ありがとう。うん、ちょっと疲れちゃった」
ガラスのコップに氷をいくつか入れて、冷蔵庫の麦茶を注ぐ。義姉さんの真向いに座る。
「あの短時間で不愉快さを振りまくから、あれは才能ですよ。本当にすみません。兄さんと朔くんは?」
「朔が泣いてたって、智草さんカンカンでねえ……」
ああもう、と舌打ちでもしそうだった。楽しそうにもしなきゃ、笑い声もあげないくせに、苛立ちはすぐに表現するんだから、兄さんだって仕方ない人だった。
「義姉さんに怒ってるわけじゃないんです。ああ、いえ、義姉さんならわかってると思うんですけど」
「お義母さんと相性が一番悪いのって、智草さんよね」
「それは、本当にそうです。疲れましたね。ドタバタさせてすみません。嫌なことたくさん言われてたし」
「芳乃ちゃんがすぐ奥に戻らせてくれたから、今日はぜんぜん平気。でも、急に来るとなんだか心臓に悪いわね」
「前もって言われてもわたしは会いたくないですけどねえ」
義姉さんが黙って笑う。義理の家族の悪口に付き合わせても悪いだろう。冷たい麦茶を一口すする。奥の兄の部屋に置いていった時点で、朔くんは半泣きだったし、ろくな説明をしないまま一人っきりにしてしまったので、わたしがずいぶん悪いことをしてしまったのだ。後で謝らないといけない。
兄が一番嫌うのは、朔くんと両親を会わせること。次に嫌うのが、この家に両親が足を踏み入れること。両親は朔くんも嫌っているので、なかなか会うことはないだろけど。
椅子の背もたれに体重を預けたら、ぎしっときしんだ。義姉さんも疲れているし、お兄ちゃんは家事ができない人だし。
「夕飯はわたしが作っていいですか?」
「……お願いしてもいい? あたしも手伝うから」
「はい。譲がにゅう麺がいいって言ってたんですけど……」
立ち上がって、冷蔵庫の扉を開く。台所に出入りすることは長年なかったので、勝手はわからない。そもそも他の人が管理しているお勝手で料理することがあんまり好きじゃないのだ。自分がされても嫌な気分になるだろう。古い価値観に染められている、とはわかっている。
素麺なら冬まで残るくらいお中元でもらうからあるだろう。じゃかいもと玉ねぎ、にんじん、長ネギ。冷凍庫に鶏のもも肉があるので、これでいい。キュウリとツナ缶でサラダにして、ワカメの酢の物でも作ればいいだろうか。譲とお兄ちゃんには物足りないかもしれないから、もう一品必要かもしれないけど、それは義姉さんに相談すればいい。
だいたい算段はついたので、冷蔵庫を閉める。料理や家事をわたしに教えてくれたのは、粟谷さんの奥さんと義姉さんだ。料理は特に、義姉さんがよく教えてくれた。狭いアパートの小さな台所で。
「なんとかなりそう?」
「はい」
すみません、と口が言いかけるのを止める。あんまり謝りっぱなしなのはよくないだろう。譲だったら不満そうに鼻を鳴らすだろうし、目元にうんと力が入るだろう。
「ありがとうございました、義姉さん。なんとかなってよかったです」
「ううん。芳乃ちゃんが一番大変だったんだから……」
ふっと義姉さんが優しく笑った。まるで彼女は、本当の姉のようだ。この笑みに兄が心を許したっていうんなら、そりゃあそうだと思う。
「譲さんは、本当にいい人で、そんな場合じゃないけど、あたしはすごく安心したわ。あんな場面で一緒にいてくれる人なんてそういないから」
「うん……」
「優しくて、強い人なのね」
「そうなんです」
ため息混じりの返事に、義姉さんが目線をあげる。義姉さんくらいしか相談できる人が思い当たらない。友人は、いないわけじゃないけど、わたしの家のことも体と精神状態のことも説明するのはあまりにも億劫だから。
「譲に、わたし、ずっと負担をかけているような気がして」
「座って」
わたしが生まれる前からここに置いてある古い椅子が椅子がきしむ。両手を握り合わせる。
「彼は本当に優しくしてくれるんですけど、それがいつか負担になるんじゃないかと思って、本当に不安で」
「うん」
「彼は健康な男性で、わたしにかかずらっている暇なんてないでしょうにって、思う……」
「芳乃ちゃんは、譲さんが健康な男性だから好きってわけじゃないのに?」
「でも、だって、負担じゃないですか」
こんな家だって。あんな親だって。わたしだって。
わたしが、一番。
「人間関係って、結局は損得勘定が発生してしまうものだと思います。わたしがいることで、なんのプラスにもならないのにって」
「芳乃ちゃんって、」
言葉が途切れた。義姉さんの唇がもごもごしているのをしばらく眺める。なに言われても、別にいいのだけど。
「……なんだか、小さいころの育てられ方って、引きずるわね」
「そうですね」
言葉を濁らせた義姉さんに、ぼんやりした言葉で返事をする。引きずる、のは、間違っていない。いつまで経っても成長できていないような気持ちになる。アダルトチルドレンだとか機能不全家族だとか、巷にあふれてしまった言葉で表現したら簡単なのだろうけど、だからといって過去の自分が救われるわけでもなく、将来に希望が見えるわけでもなく、すべてが無駄のようにしか思えない。
家を離れて、大人を名乗り始めてそれなりに経つようになって、メンタルクリニックに通って、ようやくこういう思考から逃げ出せるようになった。逃げるだけで、なんにも根本的な解決になっていないのが問題といえば問題だけど、当面は対処療法で生きていけそうなので、思考回路を変えるという体力を使うことからも逃げている。
いつか、対峙するときが来るだろう、と思うと、腹を、内側から蹴られる錯覚に襲われて、怖くなる。
「いつまで経っても小さいころのことを引きずっててバカみたいって思います。でも……」
「バカみたいなんて言わないで。誰もそんなこと思わないわ」
「……」
「譲さんもそうだと思う」
義姉さんの言葉にぎこちなく笑う。譲だって、きっと、そう言う。バカみたいなんて言うな。とびっきりぶっきらぼうな口調で。
「譲さんを信じてね。芳乃ちゃんが一番苦手なことかもしれないけど、それが一番だと思うわ」
曖昧に笑う。それができたら、できてたなら、わたしの腹は膨らんでいないだろう。
遠くで子どもの声が響いている。窓からこぼれている日光が手元のグラスを通過して乱反射していた。海に行きたい、と切実に思う。どこの海でもいい。できるだけ広くて、西に面している海なら、言うことない。太陽が揺れながら落ちていくのを眺めたかった。
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