木下闇

 眩しい、と思って目覚めた。見覚えのない板張りの屋根が目に入って飛び起きる。蚊帳の向こうに朝露が輝く枯山水が見えて、ああ芳乃の実家だ、と思いだす。枕元に置いた腕時計を見る。五時十二分。

 芳乃を起こさないようにそっと部屋から出て顔を洗う。シャツとジーンズに着替えて、外に出てみる。あんまり早起きはしないので、朝方の涼しい空気がもの珍しかった。こんなに朝早いから、起きてる人はいないだろうけど、少し庭先を歩くくらいならいいだろうか。離れと母屋をつなぐちいさな橋の下に外履きのスリッパがあったので借りて、池のふちまで歩く。赤白黒の鯉が泳いでいた。水面に軽く手を振ったら、わらわら集まってくる。ぼやっと眺めていたら、背後で足音がした。


「おはようございます」

「おはようございます。すみません、勝手に出歩いていて」


 いえ、と言いながら、芳乃のお兄さんが池に近寄る。今日は深緑色の着物を着ていた。薄茶色の餌を次々投げ込んでいる。鯉が餌を欲しがってぼちゃぼちゃ暴れている。水は案外澄んでいて、きちんと掃除されていた。

 沈黙に困って、池を眺め続けているしかない。遠くでセミが鳴きだした。


「譲さんに謝らないといけないことがありまして」

「え、はい」


 茫洋とした口調は、出会った頃の芳乃を思い出させた。


「私のせいで、あなたをここまで呼ぶことになったんです」

「……ええと」

「座りましょうか」


 深緑色の着物について歩く。母屋から出てすぐのところに、柄杓と水と花の入ったバケツが置いてあった。濡れぶちにはピンクのゾウのじょうろがあって、それを退けたところに座る。


「芳乃にはよく縁談がくるのですが」

「縁談?」

「いい年ごろですから」


 バケツに入った赤い花を手に取って、つぼみや葉っぱを切り取っていく手は、さかむけや、ひっかき傷だらけだった。爪の白いところが薄く緑色に染まっている。よく植物に触っているからだろう。

 芳乃とよく似た目は冷えている。こちらを見ずに、花をじっと見下ろしている。


「両親から話しが来るのを、私が断り続けているんです。……芳乃には言ってませんが」

「芳乃さんが知らない話しを聞いてもいいんですか」

「べつにいいでしょう。芳乃はあなたをよく信頼しているようですから。芳乃は、昔から人を見る目があるんです」


 ふとこちらを見られる。感情の薄い瞳だ。


「縁談は、病気を使って断っていました。体面を気にする人たちなので、そういうのにめっぽう弱いんです。でも、先月、私が、芳乃に良い相手がいるようですのでと言ってしまって」

「そのくらいは普通の世間話だと思います」

「そうでしょうか。人のプライベートなことを言ってしまったと反省することしきりで……。芳乃の住所は、両親には言ってないんですが、今すぐ教えろと大騒ぎになってしまって。いまは曲がりなりにも私が家長ですので、私が相手を確認すると言って……そもそも芳乃は大人として生活できているんですから、そんなことわざわざする必要もないでしょうに」


 仲のいい兄妹ではない、と芳乃は言っていた。年も離れているし、二人そろっておしゃべりが好きなわけでもないし。お兄ちゃんは家を率いるためにあれこれ忙しい人だし。華道の勉強で大変そうだったから、遊んでもらったこともない。まじめで優しい人だけどね、と笑っていた。


「だから、譲さんにわざわざ来てもらうことになったのは、私のせいなんです。こちらの事情で呼び出すんですから、私たちが行くことも考えたのですが、それは絶対嫌だと芳乃に言われて、来ていただくしかなくなってしまったということなんです」


 ぐっと深く頭を下げられた。


「面倒なことに巻き込んで申し訳ありません。芳乃は悪くないんです。あの子は、昔から家のことで行動を縛られてばかりでした。縁を切ってもいいとは言っています。芳乃と、この家は、切り取って考えていただきたいんです。こんな家で、あんな親で育ちましたけど、芳乃は悪くない。関係ない、と言わせてください」

「兄妹そろって、ご両親とお家のことが、……お嫌いでらっしゃる」

「ええ」


 ぱちんと葉を切り落とす音が響いた。


「嫌いです。両親は、家と血筋を続けることがなによりも大事な人たちでした。ばかばかしい。絶えるなら絶えればよいのです。婚姻の自由が認められて何年経つというのでしょう。好きなことを学び、好きな人と話し、好きなように職業を選べばよいのです。二人そろって、親ならどれだけ口を出してもいいと思っている」

「……僕の親も、そういう人でした」


 苦笑がこぼれた。過干渉の権化のような母親だった。父親が生きていたころは、父が上手に矛先を変えたり、説得してくれたりしていたけど、高校生のときに事故で死んでしまった。思春期を過保護な母とふたりきりで過ごすのはつらいことだった。

 家族が面倒なのは、僕も芳乃も一緒だ。なにも根本的な解決にはならないけど、嫌になる電話を取ったあとに、黙って抱きしめあったり、おいしいものを用意したりできる。ひとりきりが長かった僕らは、そういう優しさにずっと飢えていた。日々を過ごすだけなら、対症療法でいいのだ。いつかすべて忘れる日が来るだろうから。


「だから、構いません。芳乃はいろいろと遠慮してしまっていますけど、僕にとってはすべてなんてことないと思っているんです。家のことも、体のことも、芳乃は謝りますけど、僕にとっては謝ることではないです。なんてことないんです」

「……そう言っていただけるなら、嬉しいです」


 ぱたぱたぱた、と軽い足音が響き渡った。智草さんが濡れぶちに置いていた刃物をさっと回収して、懐に仕舞う。


「おとーさあん!!」


 子ども用の甚兵衛を着た男の子だった。寝癖だらけの頭のままでこちらに走ってくる。


「おはよう!」

「おはよう、朔」


 この子が芳乃の甥か、と思う。大きくてまん丸の瞳と視線が合った。


「このひとだあれ?」

「お客さんが来るって、お母さんに言われただろう。芳乃お姉ちゃんの友達だよ」

「はなのおねえちゃんいるの?」

「うん」


 ひょいと子どもを抱きかかえて、膝の上に乗せる。くしゃくしゃの毛を丁寧に梳いている手つきが優しい。


「朔、お客さんに挨拶なさい。お名前は?」

「かじわらはじめです!」

「志摩譲です。はじめまして」

「はじめまして!」


 子どもの大声がきんと廊下に響く。すとんと地面に朔くんをおろして、柄杓ですくった水をゾウのじょうろに注ぐ。


「朔、タチアオイに水をやっておいで」

「はあい!」


 水をこぼしながら、子どもが駆けていくのを見送る。素足でためらいなく走っていく姿が眩しかった。


「騒がしくてすみません」

「いえ……」

「長く話し過ぎましたね。譲さんは聞き上手でらっしゃる」

「ありがとうございます。不躾にいろいろと聞き過ぎたかと思っていたところです。お時間大丈夫ですか?」

「ええ。でも、そろそろ朝食でしょうから、一度お戻りになった方がいいでしょう」


 少し迷って、智草さん、と呼んでみる。


「智草さん、休みはずっと家でひとりだったものですから、僕はここに来れてよかったと思っています。こんなに自然が豊かな場所に初めて来たので」

「それならよかったです」

「またゆっくりお話しさせてください」

「ありがとうございます」


 はにかみながら笑うときの表情が、芳乃とそっくりでどきりとした。バケツと柄杓を持って会釈して、去っていく背中を見送る。一息ついて、離れの方につま先を向ける。もうすっかり太陽は昇っている。

 離れが見えてきたところで、玄関ががらりと勢いよく開いた。寝巻のままの芳乃が出てくる。


「譲、」

「どうしたの」

「どうしたのじゃないもの。どこにもいなくてびっくりした」


 スリッパを脱いで、縁側にあがる。芳乃が寝巻のまま寝室から出るのは珍しい。どれだけびっくりしたんだろう。


「ごめん。ちょっと散歩してた」

「いいけどさ。暑くなかった?」

「このくらいならぜんぜん。だいぶ涼しいから」


 かすかにきしむ廊下を歩く。ふとんも蚊帳もそのままだ。蚊帳をおろして、タオルケットと布団を畳む。

 芳乃が脱衣所で着替えて戻ってきたら、ちょうど作務衣の男が朝食ですと呼びに来た。昨日の客間とは違って生活感のある部屋に通された。テレビの前に座っていた朔くんが、こちらを見て駆け寄ってくる。


「はなのおねえちゃん!」

「はい、おはよう」

「おはようございまあす!」


 高い声でしゃべり続ける朔くんを、芳乃が慣れた仕草で抱き上げる。


「大きくなったねぇ。朔くんは何歳になりましたか?」

「よんさいです!」

「四歳かぁ。何組さんですか?」

「あおぐみさんです!」


 穏やかに芳乃が笑った。僕とは違って、小さな子どもを相手するのに慣れている話し方だった。テレビの前の机に座った芳乃の横で正座する。

 幼稚園はたのしい? お友達は? 好きな給食は? 子どもの高い声が明朗に答える。蝉の鳴き声とテレビの声が入りまじる。テレビの乗っている台の下には絵本がぎっしり詰まっていて、細かい刺繍が施されたタペストリーがかかっている。


「おはよう、芳乃ちゃん、譲さん」

「おはようございます」

「朔の相手させてごめんなさいね。譲さん、お茶どうぞ」

「ありがとうございます」

「朔はちゃんと挨拶した?」

「した!」


 出された麦茶を飲む。望さんがもう一度部屋から出て、お盆を持って戻ってくる。白い皿に焼いた食パンと目玉焼き、レタスとベーコンが置いてある。ちいさな瓶にはソースが入っていた。最後にケチャップを机に置く。

 朔くんが畳まれた布を持ってきて、机の上に敷いた。ベージュの布地に、車やヘリコプターのアップリケが縫い付けられている。


「ありがとう、朔。お椅子も持っておいで」

「はあい」

「智草さん、もう朝は済ませちゃってるの。生活リズムを崩すのが嫌いな人だから、どうしても譲ってくれなくて」

「大丈夫です。たしかに朝早いなあって思いました」


 朝の五時に着物を着て、庭や鯉の世話をするのは、自分では考えられないことだ。夜更かしは好きだけど、早起きは苦手だ。芳乃がぱちんと瞬きをする。


「お兄ちゃんに会ったの?」

「ああうん、庭を歩いていたら、たまたま会って」


 ふうん、とうなずいた表情が訝し気だった。話していた内容は、けっこう繊細なことだったので、ここで話したいことではない。会話の流れをそらしたいと思ったところで、子ども用の椅子を持った朔くんが戻ってきた。机の前に置いて勢いよく座る。ぺぷーと椅子から気の抜ける音がした。

 食パンに具材とソースを塗って口に運ぶ。やわらかくて分厚いパンが香ばしい。ソースはマスタードとマヨネーズが混ぜてある。朔くんがにこにこ笑いながら食べている。それを眺める芳乃の目がうんと優しい。

 食べ終わった朔くんの口や手を拭いて、歯磨きをしておいでと望さんが背中を押す。ほとんど冷めてしまったであろう自分の分をさっと食べて、望さんがお皿をまとめる。


「そう、芳乃ちゃん、申し訳ないけど、朝のうちに挨拶に行ってくれる?」

「いいですよ。ええと、わたしだけでもいいですか」

「智草さんは芳乃ちゃんだけでいいって言ってたわ。べつに結婚の挨拶じゃないもの」

「よかった。じゃあ、譲はゆっくりしててね」


 僕には面倒だと言ってたのに、朗らかにうなずいている。ゆっくりしててと言われても、なにをしようか少し困るけど。カバンには何冊か本があるし、なんとかなるだろう。

 望さんがお皿を持って部屋から出ていく。芳乃が後ろに手をついて、足を伸ばす。ワンピースの布が引っ張られて、体のラインが出る。右手をおなかに添えて、静かに撫でている。無意識の仕草だろう。ここにいるのだ、と、言葉にはしないけど、仕草の端々に出ているのが、生活を共にしてわかってきた。

 穏やかな顔をしていることもあれば、腹に爪を突き立てていることもある。テレビを見ているときや、うとうとしているとき、窓の外を眺めているとき。意識がどこか遠くに行っているとき。右手はいつも腹にある。


「譲」

「あ、うん、なに」

「そんなに見られたら穴が開きます」


 耳元まで熱くなったのがわかった。


「ごめん。そんなに見てた?」

「うん」


 よいしょと机に手をついて立ち上がったので、僕も立ち上がる。廊下を歩いて、奥へ奥へ進む。豪華に絵が描いてあった障子がどんどんシンプルになって、終いにはなにも描かれていないものになった。芳乃が古びた障子を開く。ほこりっぽい空気。なつかしい、と反射的に思った。

 中は板間になっていた。本棚がぎっしり並んでいる。窓は細長くて小さい。薄暗くて、ほこりっぽくて、本がたくさん並んでいる。高校の、図書室の奥の書庫に似ていた。芳乃が奥に行って、窓を開く。


「ううん、けっこうほこりっぽいなあ。閉めっぱなしだったのかな。わたししか本が好きな人いないから仕方ないんだけど」


 窓の近くには、木材の机と椅子が置いてあった。うっすらとほこりが積もっている。それを寂しそうに眺めて、芳乃がちいさく笑う。


「古い本しかないんだけど、品ぞろえはいいよ。何代もかけて集めた本たちだから。初版本も何冊かあるしね。空気の入れ替えして、ほこり拭いたら、居心地いいんじゃないかな」


 疲れてるでしょ、と芳乃が言う。窓の外は竹藪で、さわさわと潮騒に似た音が響いていた。


「人の多いところ苦手なのに連れてきてごめんね。ここだったら人来ないし、本読んでたら暇つぶせるでしょ。午前中で帰ってくるつもりだけど、今日はここにいたらと思って」

「うん……」

「義姉さんには言っておくから。お兄ちゃんは忙しいから気にしないだろうし。朔くんは来るかな。暗いから近寄んないかも。とにかくゆっくりしてて。疲れさせてごめんね」

「カラ」


 額と額を合わせる。細くて黒い髪の毛を両手で撫でる。きゅっと目と口を閉じた顔がおかしくてかわいかった。


「あんまり謝んなくていいって」

「ん……」

「ここは、カラがよくいたの」

「うん」


 そろっと目が開く。やっぱりお兄さんと目がよく似ている。手を離した。

 窓辺に置かれた、重そうな机と椅子を見たら、高校生のころの芳乃が猫背ぎみに座っているのが目に浮かぶようだった。本を何冊か積み上げて、頬杖をついてページをめくるのが。孤独の気配が立ち上る細い背中が。

 高校にあった書庫と空気があまりにも似ていて、過去と現在が混じりそうになる。竹藪の音も穏やかな海辺に似ていて仕方ない。本棚に近寄る。佐藤春夫、志賀直哉、永井荷風、森鷗外……。三上於菟吉の訳のシャーロック・ホームズシリーズがそろっていた。枕草子やら平家物語も並んでいる。たしかに古い本ばかりだ。


「今思えば、わたしの秘密基地だったなあ。休みの日はここで何時間も本を読んでた。習い事をたくさんさせてもらってて、嫌じゃなかったけど、本当はなんにも好きじゃなかったの。もっと普通の家の子だったら、もっとたくさん本を読めるのにってずっと思ってた」

「うん」

「本を読むのって、叱りにくいでしょう。ここで大人しくしている分には、お父さんもお母さんも文句は言わないから」


 芳乃が小さくくしゃみをする。だいぶ空気はマシになったけど、放っておかれた本はほこりっぽい。もう少し空気を入れ替えた方がいいだろう。芳乃が照れくさそうに笑った。


「こんなに放っておかれてるとは思ってなかったな。空気の入れ替えでよくなればいいけど」

「じゃあ、本だけ借りていこうかな。離れかどこかで読んでる」


 手近な本を何冊か手に取る。中をちらっと開いたら、古い本特有のうねるような明朝体がびっしり並んでいた。とぐろを巻くような配置の本棚の間を抜けて、廊下に出る。真向いの部屋の扉がちょうど開いた。顔を出した望さんがぱっと笑う。


「あ、芳乃ちゃん、探してたのよ。着替えのお手伝いをした方がいいかなって思って」

「すみません」


 芳乃が真向かいの扉を押し開く。狭い部屋だった。勉強机と大きな桐たんすがある。こちらも板間だ。たんすに薄い緑色の着物がかかっていた。


「じゃあお願いします。譲は離れにでもいて、ゆっくりしてて」


 ぱたんと扉が閉じる。記憶を頼りに廊下を歩いて、朝ごはんを食べた部屋まで向かう。いきなり離れにこもるのも印象が悪い気がしたので、テレビの前に腰を落ち着ける。人の多いところは苦手だけど、べつに昔ほどではない。社会人として生活しているんだから。

 ほこりを軽くはらって、日焼けして脆くなった紙をめくる。午前中から本を読むなんて久々だ。

 古い和訳の文章は、独特の風味があって昔から好きだった。近代文学と古典文学が好きな芳乃とは、あんまり趣味が合わない。序盤の、登場人物たちの会話を読み終わって、いよいよ本編だ、というところで視線を感じた。廊下の方を振り向く。ふすまの真ん中より下に、まんまるの目がのぞいていた。


「おっ……は、よう。朔くん」

「おはようございます!」


 二回目の朝の挨拶だ、と思ったけど、とっさに出てきた言葉がそれだけだった。折り目正しく頭を下げている。しっかりしたお子さんですねと頭の中の自分がほめる。


「テレビみてもいいですか!」

「ああ、うん、ごめんね。どうぞ」


 手に持っていたタオル地のクッションを僕の横に置いて、ちょこんと座る。まさか隣に来るとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしてしまった。小さな手がリモコンを操作して、教育番組を選ぶ。にぎやかな歌に合わせて果物を英語で言っている。周りがうるさくても本は読める性質なので、ページを繰る。

 何度も読んだことのある内容ではあるけど、訳者が違うだけでキャラクターの性格が違うように感じる。短い章を読み終わって、顔を上げる。短く息を吐いて顔をあげたら、ぱちっと丸い目と視線が合った。床に頬杖をついてこちらを見上げている。


「わ、うん、なあに」

「おなまえわすれちゃった」

「僕の? 譲です」

「ゆずるおにいちゃん?」

「うん」

「なによんでるの?」


 ええと、と口ごもる。読んでいる本は、シャーロック・ホームズの『土色の顔』だった。四歳の子供にうまく説明できるだろうか。


「シャーロック・ホームズっていう探偵がいて……探偵って、あの、わかる?」

「れたすたんてい!」

「れ、れたす探偵?」


 朔くんが俊敏に立ち上がって、テレビの下から薄い絵本を取ってくる。表紙には、レタス頭に鹿撃ち帽を乗せて、茶色のチェック模様のケープを羽織った紳士がいる。たしかにレタス探偵だ。


「はなのおねえちゃんがくれたの」

「ああ、そうなんだ。面白い?」

「とまとかいとうがかっこいーの」


 ページをためらいなくめくって、トマト頭の怪盗がビルの屋上に立っているシーンを出す。よっぽど好きなんだろう、本には開き癖がついていて、ページは少しくたびれている。

 最初のページに戻る。読もうか、と言いかけて、やめる。読み聞かせができるような技術を僕は持っていないので。


「朔くん、絵本ひとりで読めるの?」

「よめる!」

「お兄ちゃんに読んで聞かせて」

「いいよぉ!」


 節をつけて朔くんが歌い出す。おくちはチャック、ぴーっぴっ、手はおひざ、みなさんよいこで聞きましょう。自分の通っていた保育園でも、読み聞かせの前に歌を歌っていた。床に広げられた絵本を覗き込む。

 明朗に響く声が、絵本の文章を拙く読み上げる。時折興味がそれて、好きな挿し絵を語り、トマトが好きになったことを話し、畑で育てている野菜の話しになる。丁寧に育てられている子どもだ、と思う。両親から丁寧に愛情を注がれた子ども。

 芳乃に見せてもらった家族写真を見れば、それは一目瞭然ではあったのだけど。陰りのない子どもの笑顔と声を聞けば、糾弾されているような気持ちになる、ような、人生を送っていた。

 昔の僕も、こんな風に笑っていたのだろうか。幸せを信じ続けていたのは? 明日も笑っていられるなんて、思っていたのは……。


「ゆずるおにいちゃん?」

「あ」


 反射的に笑顔を作る。とっぴんぱらりのぷう。勇敢で聡明なレタス探偵の活躍は終わり。悪役のトマト怪盗は、病気の妹を救うために罪を重ねていて、それを知った街のお金持ちは、プチトマトちゃんを病院に入れてあげたのでした。

 面白かったよ、ありがとう、とお礼を言ったら、朔くんは底抜けに明るく笑った。こちらが困るくらいに。芳乃や望さん、智草さんがあれほど優しく笑えるのが不思議なくらいだ。

 何冊も絵本を持ってきて広げるので、相槌をうちながら絵本を眺める。水彩画のものが多いのは、芳乃の趣味を反映してそうだ。甥が生まれてから、季節の変わり目に何冊も何冊も絵本を贈ったと言っていた。

 そろそろ本棚が空になりそうだ、と思いながら絵本を閉じる。ふと手元に人影が落ちる。


「はなのおねえちゃん、おかえりなさーい」

「はい、ただいま」


 薄緑色の着物を着て、白いレースのショールを羽織った芳乃が、両手に大きなビニール袋を提げて、縁側に立っていた。机の上に袋をどさどさ置いたら、中から青いミカンが転がり出てきた。

 芳乃が自分の髪の毛に刺さっているかんざしを引き抜く。黒い髪がカラスの羽ばたきのように広がった。


「ああ、疲れちゃった」

「おかえり。はやかったね」

「うん。巻きに巻いてきましたとも」


 赤い紅を引いた唇が笑う。ふだんは薄い化粧しかしない人なので、目立つ色が目を引く。


「まあ、みんな元気そうでよかった。夏ミカンと、なんだっけ、水ようかんかなんかももらってきたから、後で食べようね。朔くんとなにしてたの」

「絵本読んでもらってた」


 芳乃が小さく笑う。着物は体のラインを覆い隠していて、まるで普通の女の人のようだった。いや、べつに、普通の人ではあるのだけど……。


「あんまり散らかしていたら、お母さんに叱られるでしょう。朔くん、お片付けはできるかなー?」

「できるー!」

「譲もやんなきゃダメだよ」


 大人しくうなずいて、絵本を集める。端が折れ曲がったり、クレヨンやペンで落書きされていたりしている本たち。新品の本も好きだけど、他人が読んだ形跡の残っている本も好きだ。誰かの足跡。誰かが何度も時間をかけて、文字を追って、笑って、泣いた跡。一人が辛いときは、図書館の一番奥で眠っている古い本を何冊も読んだものだ。

 絵本を本棚に仕舞う。とりあえずはこれでいいだろうか。本の並べ方にこだわりがなければいいのだけど。子どもが勝手に出したり仕舞ったりするのだし、大丈夫だろう。芳乃が頬杖をつきながら、僕が借りた本をちらりとめくっている。


「カラは」


 カラは。実家では芳乃と呼んでと言われていたのを忘れていた。芳乃が眉を跳ね上げたので、肩をすくめて返事代わりにする。


「芳乃は、着物よく着るの」

「挨拶に行くときくらいはね。別になんでもいいだろうけど、みっともない服装で出歩くのはね、お家の名前があるからさ」

「ふうん……」

「腹も隠れるから、着物の方が都合良いんだ」


 着替えないとね、と言いながら立つ気配がない。薄い緑色にちいさな白い花がいくつも咲いている。帯は銀、帯留めが鈍く光っている。

 バタバタバタッ! と大きな足音が廊下から響いた。大げさな音でふすまが開いた。望さんが大きく息を吸う。


「朔、奥に行ってなさい」

「どうしたの?」

「いいから。お父さんの部屋に行って!」


 朔くんの顔がぎゅうっとゆがんだ。泣き出してしまう、と手を伸ばした先で、薄い緑色の袖口が、ちいさなからだをさらう。素早く芳乃が立ち上がる。


「お兄ちゃんのところに預けてきます。すぐに戻りますね、義姉さん」

「芳乃ちゃん」

「わかってます」


 短く吐き捨てて、小走りで走り去る。細く子どもの泣き声が聞こえた。机の上に置き去りにされた鈍色のかんざしが光をかすかに反射している。望さんがため息をつく。


「どうしたんですか」

「お義母さんが」


 朗らかな声が震えている。何度も深呼吸をしている。おかあさんが? 芳乃の、親だろうか。


「……お義母さんが、いらっしゃるそうです。申し訳ないのだけど、譲さんも、奥に……離れにいてください」

「それでどうにかなるなら、そうしますが」

「……」

「逃げるだけで済むなら、そうしますが」


 望さんが心の底から困ったような顔をする。握りしめているこぶしすらぶるぶる震えていて、そんな人を置いていくのは気が引けた。どうせ、という気持ちもある。どうせいつかは顔を合わせないといけない人だろうし。どうせ僕の母より最低な人もいない。

 芳乃があれこれ僕のことを話すとは思えないので、この家の人はきっと僕のお母さんのことは知らない。慣れていると言ったら過言になるかもしれないけど、とち狂った母親が家に怒鳴りこんでくるくらいなら経験があるので。


「芳乃のお母さんは、僕めあてなんですか」

「……ええ」

「じゃあ、いいでしょう。僕がいたところで、なんにもならないかもしれませんが。にぎやかしくらいにはなりますよ。どうせ僕が出てこないと帰らないとか言って居座りますよ……ああいえ、失礼な言い回しになったでしょうか。すみません。でも、話しが短く済むなら、そちらの方がいいでしょう」

「そうね……そうだけど。いえ、でも」


 ここでうだうだしていても仕方ないだろう。立ち上がってテレビを消す。机から芳乃のかんざしを手に取る。真鍮だろうか。細身なのにずっしり重い。銀色の房飾りと透かし彫りがされた円形の木の板が揺れる。


「どこに通しますか? 僕が来た時に通していただいた客間ですか」

「譲さん」

「ご迷惑ならいいですけど」

「こら、譲!」


 廊下から芳乃の声がした。口紅がよれている。僕の手からかんざしを奪い取って、慣れた動作で髪を後頭部でまとめる。


「義姉さんを困らせないで。義姉さん、すみませんけど、とりあえず適当にお茶の準備をお願いします。お兄ちゃん、部屋にいなかったので、LINEしかしていないです。電話してもらっていいですか? わたし、玄関で待ってますから」

「うん……」

「お茶を出したら、義姉さんは朔くんをお願いしますね。わたしとお兄ちゃんで相手しますから」


 はやく行ってくださいと芳乃が早口で急かす。その口調に無理やり背中を押されたように、望さんがつまずきながら部屋から出ていく。芳乃がこちらをにらみ上げる。


「義姉さんになに言ってたの」

「僕も芳乃のお母さんと会うよって」


 芳乃が自分の腹に爪を突き立てた。その手を取って、部屋を出る。玄関なら、なんとなく道筋はわかる。


「さっさと済ませようぜ。僕は黙っている……黙っているかな、とりあえずは」

「譲」


 足を止めて、芳乃を見下ろす。選択。選択。芳乃の、選択。どちらを選ぶか。芳乃の選択を待つのは、あの海で再会した日以来だった。メールが届くか。メールを見るか。メールを開くか。僕たちが高校生活の三年間で何度も口に出して、文字にした名前をごちゃまぜにした名前に気付くか。場所がわかるか。ここまでは、神様の領分なのかもしれない。偶然と運命というしかないのかもしれない。

 僕は、会いたいと選んで、芳乃がそうしようと言うかは、芳乃の選択だ。


「僕を頼れよ。今すぐ」

「……けっこうキツいの来るよ」

「包丁を持って?」


 芳乃が引きつった笑い声をあげる。


「そこまではないと思うけどね。女の子の体に傷がついたら、お嫁の貰い手がこないっていまだに信じている人だから」

「なら安心だ。行こう」

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