揺籃 -2

 紺色に白い縞の入った着物を着た男性が、明るい玄関の中で立っていた。気難しそうにしかめられた眉と、引き結ばれた色素の薄い唇。芳乃が背筋を伸ばす。


「ただいま戻りました、兄さん。長く顔も見せずにすみませんでした」

「……芳乃は、来なさい。望、お客様を客間に」


 そのままふいと奥に行ってしまったのを呆気に取られて見送る。芳乃と望さんが顔を見合わせて笑う。


「お兄ちゃん、なんにも変わってないんですね。じゃあすみませんけど、譲のことお願いします」

「はい。譲さん、こっちにどうぞ」


 芳乃が手を振って、お兄さんと同じ方に歩いていく。宙ぶらりんな気持ちのまま望さんについて、板張りの廊下を歩く。見事に磨かれていて、飴色に輝いている。ずいぶん古そうなのに、きしむ音ひとつしない。気付けば荷物を持ってついて来ていたはずの男はいなくなっていた。


「ごめんなさいね、智草さんったら、人見知りで。緊張しているみたいです」

「ああ、ええと、気分を害しているのかと思ったんですが。大切な妹に手を出したのは僕なので」


 実際はバカバカしいほど清らかな間柄だったりするけど。そういうていで来ているので。望さんがくすくす笑う。


「いいえ、むすっとしているのが地顔なの。圧のある言い方しかできないんだけど、怒ってるわけじゃないから、緊張しないでね」


 ぱちんと望さんが口元を勢いよくてのひらで叩いた。


「あら、いやね、友達みたいな話し方しちゃって。すみません」

「いえ、気軽に話していただけた方が僕もうれしいので」

「そう? ならいいんだけど」


 豪華なふすまをを開いて、広々とした座敷に通される。欄間や鴨居までぴかぴかに磨きあげられて、長く丁寧な手入れをされていた木の色をしている。床の間には複雑な筆跡でなにか書いてある掛け軸がかけられていた。外側の廊下から、低く男の声がした。


「失礼いたします、お茶を持って参りました」

「どうぞ」


 先程の男だ、とわかったのは作務衣の色が同じだったからだ。かすかな衣擦れの音だけをさせながら入ってきて、小さなお盆に乗ったお茶を机の上に置く。もう一度ふすまの前できちんと膝を揃えて、深深と頭を下げられる。


「お荷物は、お泊まりになる部屋に運びました」

「すみません、重かったですよね。ありがとうございます」

「恐縮です。それでは失礼いたします」


 やはり音もなく部屋から出ていく。和風の生活に慣れている人なんだろうな、と思う。ガラスのコップにはちいさな氷が浮かんだ緑茶が入っている。唇を湿らせる程度に口に運ぶ。冷たい。コップに水滴が浮く。

 同じくお茶を飲んで、望さんが小さく息をつく。半分は空になっている。


「もう少ししたら来ると思います。ほら、あの二人、そんなに会話が弾むような性格じゃないでしょう。兄妹そろって」

「それは……そうかもしれませんね」

「譲さんは、ひとりっこ?」

「はい」


 わたしも、と言って望さんは笑う。


「だから、結婚したら妹ができて嬉しかったなあ。芳乃ちゃんはいい子だし……」

「芳乃……さんと仲いいんですね」


 芳乃は、基本的に人付き合いが好きな人ではない。だから、駅で義姉さんと呼んで笑ったのは不思議でさえあった。あははと望さんが声をあげて笑う。


「すっごい人見知りよね。会ったのは、五年前かな。まだ、芳乃ちゃんは大学生で」


 望さんの言葉がふっと途切れる。間を取り直すように、残っていたお茶の半分を勢いよく飲み干す。


「うん、まあ、芳乃ちゃんに聞いて見て。こんな田舎に三日間もいるんだから、そのくらい暇な時間はあると思います」

「あ……はい」

「もうそろそろ来ると思うので、ちょっと様子を見てきますね」


 それじゃあと言って、望さんが部屋から出る。すっかり汗をかいてしまったコップを持って、お茶を飲む。まだきんきんに冷えていた。座布団の上で手足を伸ばす。ずいぶんなところに来てしまったものだ。

 障子の真ん中はガラスになっていて、中庭がよく見えた。夏ではあるけど、落ち葉ひとつ転がっていない、掃除の行き届いた庭だった。大きな池と、そのふちに灯篭が並んでゆらゆら灯りが揺れている。松らしきシルエットがいくつも高く生えている。花も植わっているけど、あいにく植物には詳しくなくて、名前はわからなかった。

 さらさらと水の流れる音がふと聞こえる。実家の近くには川がある、と先月雑誌に掲載されていた芳乃のコラムに書かれていた。井戸もどこかにあるはずだ。井戸なんて一度も見たことないので、後で案内を頼もう。

 芳乃の書いた文章の中で、彼女の故郷は自然豊かで、緑輝く山の中にあった。自生しているヤマモモを川の水で洗って口の中に入れる。黄イチゴをたくさん摘んで帽子の中に入れて持ち帰ったら、黄色に布が染まってしまって、叱られた。懐中電灯の光を頼りに蛍と星を眺めた真夜中の話し。暑さで眠れず蛍を見に行ったのに、蚊取り線香を忘れたので、しばらくもっと眠れない夜を過ごしました、と話しは終わる。淡々とした文章の中に、深い愛惜がにじんでいた。

 そういえば、と思って、スマートフォンを取り出す。電波の強度を指すマークは二本しか立っていなかった。たしかに電波は弱い。数年前まで、一部の通信会社の携帯は圏外になってしまっていたらしい。

 ふすまの向こうで、人の声がした。スマートフォンをポケットに仕舞って、座布団の上から移動する。すっとふすまが開く。


「お待たせしまして」


 玄関で聞いたのと変わらない不愛想な言い方だった。僕の返事を待たずに部屋の中に入ってくる。張りのある布地の着物を静かにさばいて、僕の真向いに座る。後からついてきた芳乃と望さんも机を囲んで座る。

 一番後ろには先ほどと同じ作務衣の男がいて、今度はお茶を四つ持ってきていた。緊張で半分も飲むことができなかった僕の分のお茶も下げられて、すこし申し訳なく思った。

 沈黙が部屋におりる。座布団に戻るタイミングがわからなくなってしまった。隣に正座した芳乃が、こちらを見て小さくうなずく。息を吸い込む。畳となにか香のにおいがする。畳に手をついて頭を下げる。


「ご挨拶に参りました、志摩譲と申します。芳乃さんとはお付き合いさせていただいています」


 顔を上げてください、と低く言われて、顔を上げる。相変わらず渋い顔をしている。


「こんな遠くまで来ていただいて。どうぞお座りください」

「失礼します……」

「お茶も飲んでいただいて」


 どうやら望さんの言う圧のある話し方がだんだんわかってきた。語尾の切り上げ方がうんとぶっきらぼうだ。


「芳乃から、こんなところまで呼びつけるなと叱られました」

「あ、いえ……泊まる場所まで準備していただいて、すみません、ありがとうございます」


 いえ、と返事は短い。望さんが手を叩く。


「智草さん、もう少し明るく話してくださいな! 譲さん、どうぞお茶も飲んで。膝も崩してくださいね」

「お兄ちゃん」


 姿勢を崩して頬杖をついた芳乃が、隣に置いておいた紙袋を机越しに渡す。


「これ、お土産。ほかの人たちの分は、あとでまとめておくから」

「……」

「朔くんは?」


 弛緩した空気に安堵しながら、お茶を口に流し込む。はじめ。甥だと言っていた子の名前だ。


「朔は奥で寝てる」

「そうなの? 会うの楽しみにしてたのに。まあ、でも、もう結構な時間だものね。元気にしてる?」

「まあ」

「大きくなった?」

「うん」

「それならいいけど。わたしたち、夕飯食べてないから、食べてきていい? どうせお兄ちゃん、これ以上会話続けられないでしょ」


 望さんが口を押さえて噴き出す。


「そりゃあそうだわ。もう遅いし、智草さん、明日の朝早いからもうお休みになるでしょう? あとはあたしでお相手しますから、もう朔と寝ててください」

「ああ」


 ちらりと僕の方を見られる。思わず背筋が伸びる。


「どうぞ、ごゆっくり。私はほとんど母屋にはいないでしょうけど、望と芳乃になんでも言ってください」

「はい」

「それでは、失礼します」


 そのまま一度も振り返らずに部屋から出ていく。思わず大きく息を吐いてしまったのを見て、望さんと芳乃が顔を見合わせて笑った。


「ごめんなさいね、ふだんはとっくに寝ている時間なものだから」

「夜遅くなってしまって……」

「こんな田舎なんだもの、仕方ないわ」


 もう休みましょうね、と笑顔で言われる。長時間の移動と緊張で疲れてはいる。もう夜の九時は過ぎていた。お昼は遅く食べたけど、たしかにお腹は空いている。慣れない正座でしびれた足でふらふら立ち上がる。

 芳乃がくすくす笑う。


「転ばないでよ。しびれたのが収まってから行こう。義姉さん、ありがとうございました。もうわたしで充分なので……離れって、枯山水の?」

「ええ。奥のキッチンに食べ物とか、飲み物はあるから。お土産ありがとうね。おやすみなさい」


 すぱんとふすまを開いて望さんも部屋から出ていく。足首をぐるぐる回して感覚がしっかりしたのを確認する。

 行こう、と言って芳乃が廊下に出るのについて行く。長い廊下の両サイドにはふすまで仕切られた部屋が並んでいる。人気はなく、廊下以外の電気はすべて消してある。薄暗い日本家屋と虫の鳴き声のせいでホラー映画みたいだった。

 広い廊下から狭い廊下に入って、暖簾をくぐる。カレンダーが壁にかけてあったり、小さな子どもが描いた絵が飾ってあったりして、ぐっと生活感が増す。テレビが置いてあるリビングを横切って、縁側に出る。部屋に生活感はあるけど、外は細い川や小さな丘がある豪奢な日本庭園だった。芳乃が足を止める。


「この庭に、たまに蛍が飛んでくるの」

「へえ……」

「塀の向こうに、川があるから。ひとつふたつ、ぼーって飛んできてね、綺麗なんだよ」


 ふー……、と芳乃が細く息を吐いた。芳乃も疲れているだろう。


「庭の川と池は、その川から水を引いてるの。水源地が近いから、夏でも水がとても冷たい。この家、エアコンはほとんどないから、川がないと暑くてみんなゆだっちゃう」


 手をつないでいい? と珍しく聞かれた。ふだんだったら無言のまま腕を取ってくるのに。黙って手を差し出す。指先だけを引っかけて芳乃が歩き出す。


「久しぶりにこんな暗いから怖くなっちゃった。一年も来ないと、よその家だね」

「たしかに、雰囲気あるよな。映画みたい」

「そんなに?」


 縁側と縁側をつなぐちいさな橋を渡って、離れと思しき建物に入る。また生活感のない空間になった。ふだんは使われていない建物なんだろう。

 真新しい畳が敷いてある部屋に入る。キャリーケースとボストンバッグが置いてあった。真ん中に黒い木材の机と、座椅子がふたつ置いてある。緑の葉がついた木の枝が鈍色の花瓶に入っていた。

 障子も雨戸も開かれていて、小さな内庭がよく見えた。白い砂利がよく均されている。苔むした庭石と、ちいさな木がぽつんと生えていた。


「お腹すいたでしょ。飲み物とご飯取ってくるから待ってて」

「一緒に行くよ」


 廊下の電気をぱちぱち付けながら廊下を歩く。離れとは言うけど、部屋はいくつかあるし、奥の方に小さな台所もある。冷蔵庫の中に鍋に入った肉じゃがと汁物があった。僕がコンロの火にかけて温めている後ろで、芳乃がお茶を作って、ご飯を電子レンジで温める。布巾をかけて置いてあった二人分の食器におかずをいれる。

 お互い疲れていて、無言だった。机に食器を並べて、いただきますと言って、肉じゃがを口に入れる。色合いと匂いで思ってはいたけど。


「芳乃の料理に似てる」

「そう?」

「なんだろう。……醤油だと思うけど」


 芳乃が使う醤油は、自分が今まで食べていたものに比べて独特に甘い。わざわざ地元のものを取り寄せて使っていると言っていた。芳乃も合点したようにうなずく。


「そうね、醤油は同じもの使ってるはずだから……おいしい?」

「うん。おいしい」

「よかった」


 一口食べたら急に空腹感が強くなった。汁物は飾り切りされたシイタケとニンジン、サヤインゲンとそうめんが入っている。そうめんを温かい汁物にするのも、この辺りの地域特有の料理らしい。休みの日のお昼ご飯や、時間のない日の夕飯によく出るので、最初は少し面食らったけど、今では好きなメニューのひとつだった。

 先に食べ終わった芳乃があくびをこぼす。目が半分くらいしか開いてない。


「ごめん、本当に眠いかも。先にお風呂入ってもいい?」

「うん。食器はどうしようか」

「流しに置いといて。明日まとめて洗うから」

「わかった」


 じゃあ、と言った芳乃を見送って、食器を台所に運ぶ。スポンジも洗剤も見当たらないので、軽く流して水の中に沈めておく。シャワーの音が廊下に小さく響いている。

 部屋に戻ったら、部屋の灯りに羽虫が集っていた。雨戸と障子を閉めるために縁側に出る。夜風に竹藪がざわざわ音を立てている。枯山水の、と芳乃が言った通り、庭は石が敷き詰めてあって、川や池はない。部屋の灯りでうっすらと模様が見える。苔むした庭石を囲うように円が描かれていた。

 ずっと人に囲まれ続けていたので、静けさが心地よかった。ふだんはもっとお手伝いの人がいるらしいので、ずっと生活するには息苦しいかもしれない、と思って、芳乃が高校の部活動で文芸部を選んだのは、もう人に囲まれるのはうんざりだったから、と言ったのを思い出す。

 同棲生活は送っているけど、お互い夕食を終えたらたいてい自室にこもりっきりになる。一日を終えた疲労感を覚えたら、一人になりたい。映画を見たり、だらだらと深夜まで話し込むこともあるけど、週に一回あるかないかくらいだ。芳乃は夜に小説を書いているのもあるけど。どれだけ仲が良くても、きっと四六時中一緒にいるのは嫌になるだろう。

 雨戸を閉めていたら、譲、と名前を呼ばれた。髪が濡れたままの芳乃が立っている。


「雨戸、閉めたら暑いよ」

「虫が寄ってくるから」

「そういうときは電気を消すの」


 声が眠気に丸められて、舌っ足らずだった。お湯のにおいと、嗅ぎなれない石鹸のにおいが混じる。


「扇風機しかないから、窓は開けっぱなしがいい。寝るときは蚊帳を張ればいいし。閉めるなら障子だけにした方がいいよ。蚊取り線香も焚いておこうか」

「わかった」

「譲もお風呂行っておいでよ。お客さんなのに後にしちゃってごめんね」

「いいよ、べつに。先に休んでていいから」

「ん……」


 芳乃が隣の部屋の障子を開く。緑の蚊帳が吊ってあった。布団が二つ並んでいる。そういう扱いで呼ばれているのを忘れかけていたせいで、少しぎょっとする。ああー、と芳乃が声を上げた。


「ごめん、そうだよね、義姉さんに言っとけばよかった」

「なんで謝るの。僕は別の部屋で寝るよ」

「だめだよ、お客さんなんだから。蚊帳がひとつしかないんだよね。ううん、どうしようか。わたしはいいよ。おんなじ部屋で」

「……ええー」


 どうして僕が渋るんだ、と思わないこともないけど、一応様式美として。そう簡単にいいよなんて言うもんじゃないだろう。赤の他人同士だというのが共通認識だろう。誰よりも心を許して、弱みを見せ合ってるだけの……。


「譲だったらいいよ」

「お前さあ……」


 わかってるよ、と芳乃が言った。


「どう転がっても平気だから言ってるんだよ。じゃ、おやすみ。蚊帳の中で寝ないとひどい目にあうからね。隣で寝てなかったらしつこく拗ねるからね」


 そう言って、蚊帳の中にするりと入っていく。中からドライヤーを使う音がする。とにかくお風呂に入って考えることにしよう。体は汗でべたべたしているし、疲れている。ボストンバックから着替えを出して、シャワールームに入る。熱いお湯を頭から浴びたら気分がすっきりした。置いてあったタオルで体を拭いて、部屋に戻ったら蚊取り線香のにおいがした。荷物を片付けて、蚊帳の張ってある部屋を縁側からそろっと覗く。

 薄いタオルケットを被ったからだが横たわっている。本当に寝てやがる、とちいさくつぶやく。あんなに距離を保ちつづけたのはそっちなのに。緑の蚊帳をを持ち上げて中に入る。太陽のにおいのする布団に横たわったら、どうでもよくなるくらい眠くなった。明日も緊張し続けるんだろうから早く寝てしまおう。竹藪が揺れる音が、凪の日の海みたいだった。

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