揺籃 -1

 夏は嫌い、とそのたぐいまれな語彙力を総動員して文句を言い続ける声を聞きながら、芳乃を扇子であおぐ。無人駅のホームに遮蔽物はなく、八月の太陽がさんさんと降り注いでいる。時折吹く風が、芳乃の深緑のスカートをぱたぱたあおいでいて、僕と一時的な協力体制をとっていた。

 腕時計を見る。電車が来るまであと十分だった。夏の暑さを湿気について語り続ける芳乃に相槌を打ちながら遠くを眺める。青い山肌が続いている。腕時計を持っていくことを推奨したのは芳乃だ。びっくりするくらい長く移動しなくちゃいけないから、覚悟してね、と。

 温度の低い手が、僕の頬に触れた。


「譲は暑くない?」

「うん、そんなに」


 ビルの間に比べたら、風は涼しいと思う。太陽光は強いけど。芳乃がつんと唇を尖らせる。


「ごめんね、せっかくの休みなのに、こんな田舎まで連れてきちゃって」

「べつにそれはいいよ。旅行だと思ってるし」


 ぴと、と芳乃が頭を預けて、すぐ離れた。暑かったんだろう。そっぽを向いて笑う。昔飼っていた猫みたいだった。

 駅名は、僕の知らない地名だった。朝の七時に家から出発して、もうお昼の三時だ。ここからさらに特急電車で一時間揺られて、乗り継いで一時間半乗って着いた駅に芳乃の家からお迎えが来るらしい。車で一時間かかると言われて、ほかの移動手段を使った方がいいんじゃないかと言ったら、二時間に一本しか走っていないバスの時刻表を見せられて、最低でも二時間はかかると言われたら断念せざるをえなかった。ちなみにバス停から芳乃の実家まで、徒歩で三十分はかかるらしい。

 田舎すぎてどうしようもないの、という芳乃の言葉を、駅を過ぎるたびにに実感する。僕の祖父母の家だってそれなりに田舎ではあったけど、ここまでではなかった。電車すら一時間に二本しか走っていないのだから。

 ふだん引きこもっているからわたしは暑さに弱いんだ、と自虐を織り交ぜ始めたので、小さく額を突いておく。言葉になっていない不明瞭な声をあげて芳乃が黙った。色の白い腕を伸ばすのを眺めていたら、ひび割れたサイレンが鳴り響く。特急電車にキャリーケースと芳乃の手を引きながら乗り込む。エアコンの効いた車内に入って、芳乃が息を吐く。自由席から適当に見繕って座る。

 芳乃が肩掛けのカバンからタブレットを取り出す。僕は休みだけど、芳乃はなにかしらの仕事が入っているらしい。朝に電話がかかってきていたし、ずっとキーボードを叩き続けている。この日程になったのは僕の休みに合わせてもらったからなので、ちょっと申し訳ない。

 芳乃が本当に申し訳なさそうに、実家まで一緒にきてほしい、と言ったのは先月のことだった。


          *


 毎晩毎晩、ご飯時に電話がかかってきている、とは思っていた。しかも毎回体力を消耗した顔で戻ってくるので仕事ではなさそうだったし、一週間も続けば疑問に思うのも当然だった。


「本当に申し訳ないお願いがあるのだけど」

「うん」


 豚しゃぶサラダと、豆腐とあおさのおすましの夕飯だった。とりあえず食べようと言って、手を合わせて、おすまし汁をすすって、芳乃はとつとつと話し出した。


「あの、先週、実家に電話していた時に譲の声が聞こえちゃったみたいで」

「え、そうなの。ごめん」

「男と同棲しているのかって、毎日電話がすごくて」


 ああだから、とうなずいた。芳乃が実家からなんとなく距離を置いているのは知っている。一週間も電話がかかってきたらそりゃあ気疲れもするだろう。


「もういっそ彼氏だって言ってるんだけど、じゃあ顔を見せに来いの一点張りで。もうわたし社会人だし、いまどきこんなことに口出す方がおかしいって言ってるんだけど、どうしても聞いてくれなくて」

「まあ、ずいぶん古めかしい価値観かもしれないけど……カラの家って、なんかすごい総本家みたいなところだろ」

「総本家なんてとんでもない。うちなんて古いだけ。……で、旅費はこっちで出すから、お盆くらいに帰ってきなさいって……」


 いいよ、とすぐさま答えた。少しでもためらったら、芳乃はもう二度と言わないってわかっていた。きちんと氷水で冷やされた豚肉とレタスを口に入れて、飲み込む。なんてことないことのような声色を調整して、カラ、と呼んだ。


「そんな遠慮しないでもっとはやく言ってくれたらよかったよ。どうせお盆休みはどこにも行かない予定だったし。芳乃の実家ってどこだっけ」

「いや、あなた、そんな簡単に言うけどね、わたしあなたのこと彼氏って言っちゃったのよ。きっとすっごく面倒なんだから」

「いいよ。僕はそんくらいいつだって名乗ってもいいんだけど」


 いっそ婚約まで済ませているていにしようか、と冗談のように言ってみる。こういう言葉で芳乃が強く動揺するのは一番よく知っている。彼女は、自分の体と精神状態言い訳に、男女の関係になることを避けている。背中を叩いた後に眉間を突くようだ、と思いながら言葉を続けた。


「まあ、カラの家の人が僕を見てどう思うかは知らないけど、心配してるだろうし、僕が顔を出して安心するんなら、いいよ。大丈夫ですって明日には答えておいて」

「……本当?」

「あんまり重く考えるなって。おすまし汁ぬるくなるぞ。せっかくおいしいんだから」

「うん……」


 食事中じゃなかったら頬をつまんでやるのに、なんて思ったりした。あちこち触るくらいなら体が硬くならないように芳乃の心を開かせたのは、たぶん僕だけなので、隙あらば顔を揉んだり髪を撫でるのは一番たのしいことだった。

 別にこのくらいなんてことない、と繰り返した。泣き出しそうな声でありがとうと言う芳乃の声を聞けば、なんてことなかった。


          *


 譲、と抑えた声で目が覚めた。


「次で着くよ」

「ん、」


 背伸びをして、窓の外を見る。一度山の中に入った特急電車はいつの間にか街の中に来ていた。お茶を飲んで、カバンの中に仕舞う。荷物をまとめて、降車する準備をする。キャリーケースをがらがら引いて、出口に向かった。

 キャリーケースを先におろしてから芳乃の手を引く。今度はローカル線に乗り継ぐらしい。迷いなく進む芳乃について行く。少しお土産を買っていい、と言われたので、銘菓を買った。お土産の数が三人家族のためのものじゃないと言ったら、これはお手伝いの人たちにだから、と言われた。

 芳乃が深々をため息をつくので、ぷすっと頬を突く。


「そんな嫌々しなくてもいいだろ」

「だって」


 冷房の効いた電車内だからか、芳乃が腕にもたれかかってくる。首筋にかかっているおくれ毛を梳く。


「疲れてない? 荷物も持ってもらっているし」

「電車の中だったら座ってるし、そんなに。カラこそ体調悪そうだけど平気?」

「うん」


 怒んないでね、と芳乃が小さく言う。


「昨日徹夜だったから、眠くって」

「馬鹿お前、休んでいればいいだろ」

「うぅん。そうね……」


 芳乃が僕の手を取って、ゆるゆるなぞる。人肌に飢えている、のが彼女。圧迫死するくらい人肌に囲まれて生きてきたのが僕。温度の低い手が躊躇いがちに触れてくると、胸の奥底がカッと熱くなる。このかっこつけめ、と内心で自分を罵りながら皮膚と皮膚が触れるだけに留めている。


「じゃあ、ひと駅前には起こしてくれる?」

「うん」


 ふふ、と小さく芳乃が笑った。


「譲の隣にいたら安心して眠くなっちゃった」


 カッと胸の中で炎があがる。すぐさま寝息を立て始めた芳乃の顔から目をそらす。どうにかしてしまいそうだ。

 山と山の隙間を縫うように走る線路だった。トンネルと、山肌と、大きな川が交代交代で窓の外で展開する。太陽はゆるやかに地面に落ちていって、東の遠くは薄紫色に染められていた。

 がたん、と強く揺れた拍子に、芳乃の体勢が大きく崩れた。慌てて抱きとめたけど、小さくうめき声をあげただけでそのまま眠り続けてる。そっと膝の上に乗せておく。目が覚めたら跳ね起きそうだけど、べつにいいだろう。あちこち動くキャリーケースをつま先で固定する。

 死んだように眠るか短い睡眠を繰り返すのが芳乃の常で、寿命を削っていそうだといつも思っている。崩れた生活リズムを睡眠薬でどうにかするのも本当はやめてほしい。そこまで干渉していいのかわからないので言わないけど。

 高校生活の終わりに裏切ったのは僕の方からで、その罪悪感はいつだって胸の奥でぷつぷつ良心を刺し続けている。わがままばかり言ってるのは僕ばかりで、芳乃を振り回している。冷笑的な自分の声が、お前は芳乃のことを便利に使って、自分の心を埋め合わせているだけだとささやく。拒否するのが苦手な芳乃を……、

 後頭部を窓ガラスにあてて、思考を切り替える。愛情だとか恋だとかを嘲笑するのは僕の悪い癖だったし、そんなことを考えるたびに自分のことや、身の回りの人たちを傷付けるようなことばかり思う。誰かにすがることを、すがっていいと言われることをこんな風に考えてはいけない、はず、だ。

 風が吹いたら飛んでいきそうな古い駅につく。この次でおりるはずだ。骨の目立つ芳乃の肩に触れる。


「芳乃」

「はい」


 妙に折り目正しい返事に思わず噴き出す。細い体がびくっと震えて飛び起きる。肩の下まである髪の毛が大きく揺れた。


「え、ごめん! いつ? あれ、わたし、そんなに厚かましく寝てた?」

「厚かましく寝てたってなに。いや、別に、よく寝てたから」


 はは、と笑い声がこぼれる。芳乃はひどくびっくりさせると素っ頓狂なことを言い出すときがある。ぐしゃぐしゃになった髪を撫でてやって、転がっていきかけたキャリーケースを捕まえる。


「次の駅だよ。降りる準備しないといけないんじゃない」

「はぁい」


 ぎゅっと芳乃が自分の顔を両手で包む。手荷物を確認して、電車から降りる。山間の駅は薄暗くて肌寒かった。まったく人気や民家がない。電灯がぽつりぽつり光っているだけだ。

 空気がきれい、と思わずつぶやく。日が暮れているからか、僕たちの住んでいる町に比べて気温が低い。秋口のような涼しい空気だった。芳乃が僕の服のすそを引く。


「こっち。車が来てくれてると思うから」

「うん」


 切符を箱にいれて、と芳乃が言うのに従う。自動改札もない駅だった。ぱちぱちと電灯が点滅して、その周りに虫がいくつも飛んでいる。芳乃が小さく笑った。


「田舎でしょ。ここからまた山の中に行くからね」

「うん」

「ああ、車が来てる」


 芳乃が白いバンに手を挙げる。ぶるぶると危なっかしい排気音を立てながら車が駅の入り口につく。運転席から人が降りてくる。ポロシャツとジーンズを着た背の低い女性だ。芳乃がぱっと明るく笑った。


「義姉さん、お久しぶりです」

「こんばんは! 遠くから疲れたでしょう」

「いえ、乗ってきただけなので」


 んん、と咳ばらいをして、芳乃が僕の腕をとった。一歩前に出る。色素の薄い瞳が、僕を見上げてにこりと笑う。


「こちらが、志摩譲さんです」

「今日はわざわざすみません。芳乃ちゃんの義理の姉のみちるといいます」


 深々と頭を下げられて、ああいえ、と慌てて答える。


「こちらこそお世話になります。お迎えまで来ていただいて」

「わがままを言ったのはこちらですから。古い車ですみませんけど、乗ってください。荷物も後ろに乗せましょうか」


 キャリーケースを荷台に乗せて、バンの後部座席に乗り込む。ぶるぶる車が揺れる。


「それじゃあ出発しますね。車酔いとかします?」

「あ、いえ、そんなには」

「山道で揺れるから、けっこう酔う人が多いんですよー。気分が悪くなったら言ってくださいね」


 はい、と答える。ずいぶん朗らかな人だな、と思う。芳乃と近況を盛んに話しているのを聞くともなしに聞く。ほら芳乃ちゃんの二つ下のカナちゃんっていたでしょう、来月くらいにお子さんが生まれるんですって、芳乃ちゃんと会いたいって言ってたのよ、芳乃ちゃんってカナちゃんと仲良かったかしら。まあ、小学校から中学校まで一緒ですから。そうねえ、会いに行く? いえ、今回はいいです。

 街灯のない山道をぐらんぐらん揺れながら車が駆け抜けていく。たしかに弱い人は酔ってしまうかもしれない。


「譲さん……譲さんって呼んでも大丈夫ですか?」


 ぼんやりしていたせいで返事が遅れた。


「あ、はい、大丈夫です」

「ありがとうございます。志摩さんだとうちのお手伝いさんと名前が一緒で、ちょっとややこしくて。譲さん、嫌いな食べ物はありますか?」

「なんでも食べますよ」

「良かった。今日はご飯作ってくれる人がいるんですけど、明日からお休みで、あたしが作るんです」

「料理を作ってくれる人もいるんですか?」


 どれだけの規模の家なのかだんだんわからなくなってきた。お手伝いの人がいるのも、食事を作る人がいるのも、一般的な家庭ではありえないだろう。芳乃は自虐的に古い家だからと言うけど、お兄さんの名前と苗字と検索したらトップページで華道教室や受賞や表彰されている写真が出てきた。重要文化財に指定されている古めかしい家と和服でそろえた家族写真。大きな家だとは思っていたけど、まさかそこまでとは思ってなかった。

 望さんがちいさく苦笑する。


「ええ、ふたりだけですけど。でも明日からお盆休みでみんないなくなるので、緊張しないでくださいね。泊まる所も離れを準備させたので、ゆっくりすごしてくださいね」


 ゆっくり過ごすんならホテルでいいと思わなくもない。あえて言う必要はないので、ありがとうございますと答える。


「あんまり田舎なので慣れないかもしれないですけど、一応いろいろ準備したので、ご不便があったら言ってください」

「はあ……」


 あんまりそっけなかったかと思って咳ばらいを挟む。恋人ってだけで下にも置かない勢いだ。なんだか不自然だとも思う。別にいいけど……。


「こんなに歓迎していただけるとは思ってなくて。こちらこそ失礼がなければいいんですが」

「だって、普通あり得ないでしょう、彼氏ができたら顔を見せに来なさいなんて。いまどきそんなこと言い出す家なんて、あたしだったらドン引きするわ」


 朗らかな声のままだった。芳乃がそっと僕の手を握る。冷えた指先だ。


「芳乃ちゃんも相当反対してくれたんだけど、どうしても。譲さんにはご迷惑はかけないようにします。でも、きっと、ただの好奇心でいらしたわけじゃないでしょう? こんなところまで来ていいっておっしゃってくれて、芳乃ちゃんが連れてくるって決めた人ならあたしは信頼します。うちのことも、ある程度見せていいと思っています」

「義姉さん、」

「芳乃ちゃん、今回で面倒なこと全部済ませちゃいましょうね。あんなお家忘れてやればいいのに、芳乃ちゃんはうんと真面目だから」

「……お父さんとお母さんですか?」


 芳乃の声が震えていた。暗闇の底で、指と指を絡ませる。バックミラーに映った、望さんの目と視線が合う。


「ええ、先週来たの。智草さんが怒って帰したけど、誰かが話しちゃったのね。無理やり連れてきた恋人をあれこれ騒ぎ立てるなんて。一度でたくさん」

「……あの人たちだけは変わりませんね」

「ええ! 帰したから大丈夫だとは思うけどね。でも、用心に越したことはないでしょう?」


 芳乃が笑ったのが、なんとなくわかった。いつかの、希死念慮や自己否定を混ぜた笑い声を思い出す。つないでいた手を、芳乃が彼女の腹の上に置いた。薄いシャツの下に、柔らかい肉がある。骨の目立つ体をしているのに、ここだけ。

 芳乃がここに触らせたのは初めてだった。くっくっく、と喉を震わせて芳乃が笑い声をあげる。


「帰る? 譲」


 最終電車には間に合うよとささやかれる。誰もいなかったら乱暴に抱きしめていたかもしれない。疑うなと怒鳴っていたかもしれない。僕の、恋情は、怒りに近しい、のが、うんと嫌いで、いつも吐き気がする。ヒステリックな母親を連想するからだった。

 疑わざるをえないのは、芳乃の性格で、僕がした裏切りのせいだろう。芳乃になにも言わず、なにも説明せず、着信とメッセージを無視し続けたのは僕の方だった。それだけは忘れたらいけない。


「芳乃」


 信じろと言っても、意味はない。信頼を得るには行動しかない。僕が信じたのは、沈黙を選んだ芳乃だった。母親を信じないと決めたのは、包丁を持って迫ってきたときだった。

 芳乃の手から力が抜けた。試すなといつか言った覚えがある。僕をあきらめるな、


「芳乃」

「……うん、ごめん」


 ふー……、と細く息を吐くのが聞こえた。芳乃が冗談口で僕を試すのはいつものことだ。距離を詰めるのか離れるのか決めかねて、口先だけでごまかして、結論を先延ばしにしている。

 面倒な人だなと苦笑する。精神状態が安定していないのは僕も同じなので、同類相哀れむと言うべきか、割れ鍋に綴じ蓋と言うべきか迷うところではある。対症療法的にすがりあっている、というようなことを芳乃が言ったことがある。言い得て妙だなと笑いあった。対症療法、という一時しのぎなのがいい。

 山道を登っていくと、畑と田んぼが広がる。両手で数えられるほどの民家には軽トラックや、僕には用途がわからない不思議な形の車がそれぞれ駐車していた。芳乃が僕の体越しに窓の外を指さした。長く伸びる白い漆喰の塀と、その向こうに瓦屋根が見えた。


「あれがうち」

「でかいね」

「まあねえ」


 望さんが弾けるように笑った。


「大地主だもんねえ。あたしもね、智草さんにただの華道の家ですってだけ言われてて、ここに来たのよ。そしたらまあすんごいお家で、使用人ですって何人も出てきてびっくり仰天したわ」

「だって、こんな田舎の地主ですもん。そんなこと言ったって、世間知らずの田舎者ですって言ってるようで恥ずかしい」

「まあ、そうね、こんなに広い畑や田んぼを見たのは初めてだったわ」

「僕もですね。祖父母の家は結構田舎なんですが。以前住んでたところは海が近かったですし」

「あら、海! 素敵ね」


 海が近いと言っても、車で一時間もかかる場所だったけど。小学校も中学校も海に行ってゴミ拾いをしたりして、生活に近かったと思う。大きな門の前で、車が揺れながら止まる。車から降りて、荷物をおろす。虫の鳴き声だけが響いている。車を置いてきますねと言いおいて、望さんがどこかに行く。

 大きく息を吐く。どちらかというと人見知りをする性格なので緊張してしまった。肺の中まですがすがしくなるような空気に少し感動する。街灯がひとつもないので、手を伸ばしたら触れそうなくらい星が輝いていた。


「……譲……」

「うん」

「ごめんね」

「なにに謝ってるのか言ってみろよ。……ああいや、ごめん、意地の悪いこと言った」


 ううん、とくぐもった声で芳乃が言う。問い詰めるようなことを言ってしまった。こんなこと言いたいわけではないのに。


「譲のことは、本当に信頼している」

「うん」

「裏切られたら、致命傷なんだ」


 うん。致命傷。アキレスの踵。みぞおち。心臓。屋台骨。芳乃にとっての小説。僕にとっての思い出。なくしたらもう生きていけない急所。


「裏切られるくらい、なら、自分から終わらせたいと、思う」

「……うん」

「譲は、裏切らないって思っているから、すごく怯えている」


 ごめん、と言った、僕と芳乃の声が重なった。芳乃が背を伸ばして笑う。


「ごめんって言うくらいならありがとうって言え、ばぁか!」

「お前が言うなよ」

「ありがとう、一緒に来てくれて。わたし、譲のこと本当に大好きだ」


 黙ったまま芳乃を抱きしめる。強がりを言うときに姿勢を正す癖は、芳乃は気付いていない。細い体が器用に腕から逃げた。


「ちょっと、誰かに見られたらどうするの」

「いいじゃん別に。ここらへんって人住んでるの」

「住んでるよ。失礼な」

「家にあかりついてないから」

「田舎の老人たちの夜のはやさをご存知ではないと」


 芳乃がかすかに見える民家を指さして家主の名前と親戚関係を次々にあげていく。一年以上帰ってないのによく覚えているものだった。


「まあ、今も住んでるかは知らないけど。義姉さんが言ってなかったってことは変わってないよ」

「へえ……」

「挨拶に行かないといけないかなあ。めんどくさいな」


 本当にめんどくさそうな口調だったので笑ってしまった。がこんと大きな音がしたので振り返る。門が内側から開く。


「ごめんなさいね、お待たせして。どうぞ入って。お荷物持ってさしあげて」


 作務衣を着た男性が僕の手からキャリーケースとボストンバックを受け取る。旅館でもないのにこんな扱いを受けたのは初めてなのでどぎまぎする。飛び石を歩いて、映画にでも出てきそうなくらい古くて大きな屋敷の玄関に入る。

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