シュガースティックの舌先

          *


 春陽眩しい季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 このあいだは、はじめにたくさんの絵本をありがとう。毎日わたしたちの元に持ってきては、読んでくれとねだられています。お野菜の絵本を読んでから、嫌いなトマトが好きになったみたいで、よく食べてくれるようになりました。

 わたしたちにはお酒を何種類も贈ってくれて、二人で楽しくいただきました。芳乃さんがあんなにお酒に詳しいなんて、初めて知りました。今度は芳乃さんがこちらに帰ってきたときか、芳乃さんのお家でいただきたいです。お酒に合う料理をたくさん覚えたんですよ。

 そういえば、ご友人の方と一緒に暮らし始めたと智草ちぐささんにこのあいだ聞きました。言ってくれたら、お引越しの手伝いに行きましたのに。なにか困ったことがあったら、電話でも手紙でもすぐに言ってくださいね。

 このあいだ、芳乃さんが活けたお花の写真を拝見しました。梅が特に印象的だったので、もう梅の季節は終わってしまいますけれど、紅梅と白梅のコースターとランチョンマットを作ったので、送らせていただきます。よろしければご友人と新しいお家で使ってくださいね。それと、今年はサクランボの当たり年だそうですので、一緒に贈ります。サクランボがお好きだったら良いのですけど。ねえ、智草さんったら、自分の妹のことなのに知らないばかりで、困っちゃいました。男の人って、これだから仕方ないわ。

 今回の手紙も長々と書いてしまって、芳乃さんに呆れられてないといいのですけど。今年のゴールデンウイークは、こちらに帰ってきますか? いつでも大歓迎です。おいしいものをたくさん用意して待ってますね。

 それでは、お体に気を付けて。かしこ


追って

 今度帰ってくるときは、よかったらご友人と一緒に来てくださいね。智草さん、いつものぶっきらぼうですけど、心配しているようです。もちろん、わたしも。




          *


 白と紺色の麻の布を広げる。白地のものには紅梅が、紺には白梅が刺繍されている。金色の縁取り。若葉の緑。四角のコースターも同じ意匠だ。一抱えもある段ボールの中には真っ赤なサクランボがみっちり詰まっていて、甘酸っぱいにおいがした。

 チューリップの便せんを折りたたんで封筒にしまう。血のつながっていない、義姉の手紙はいつも通り思いやりと気遣いにあふれていた。彼女の明るい笑顔と、仏頂面の兄が目蓋の裏に浮かぶ。重要文化財に指定されるほど古い実家では、今頃お手伝いの人と梅干しを作ったり、山菜の処理をしたりで忙しいころだろう。四歳になる甥は、どれくらい大きくなっただろうか。1年近く実家に帰っていないので、きっと忘れられているだろうけど。

 まだ片付けの済んでいないリビングに、段ボールを運ぶ。サクランボを冷蔵庫にしまう。さすがに二人で食べきれる量じゃない。譲と相談しないと。手紙だけ手に取って、自分の部屋に向かう。本棚に仕舞っている文箱を取り出す。PCデスクの椅子に浅く座る。

 桜の木の下で、おむすびを食べながらピースサインをする甥が、こちらに向かって満面の笑みを浮かべていた。横には義理の姉も笑っていて、カメラを構えているであろうわたしの兄を、愛おしそうに見つめている。お手本のような、家族団欒の写真だ。

 漆塗りの文箱を開く。季節折々の花が書かれた便箋と封筒。義姉は決まってカメラを構えている人を愛おしそうに見つめていて、ほんの小さな赤ん坊だった甥はみるみる大きくなっている。兄から手紙が来たことはないけど、写真に彼が写っていないということは、カメラを構えているのは兄なのだ。手紙の代わりに写真を一枚入れるのは、寡黙なあの人らしい。


「……大きくなったなぁ……」


 写真が来るたびに、片手で抱き上げられるほど小さな赤ん坊だった頃の写真から見返してしまう。兄夫婦は様々な軋轢としがらみを捨てた結婚だったので、わたしと義姉の友人しか子育てを手伝える人がいなくて、ほんの短いあいだ、小さなアパートで子育てを手伝った。ほとんど赤ん坊に触れたことがなかったので、良い経験だった。あの頃は、まだ、ふつうの体だった……。

 今だって普通の体だ、と思考を調整する。病気ではない。奇形ではない。以上、健康であることの証明。写真の裏に今日の日付をペンで書いて、文箱の中に仕舞い込む。ゴールデンウィークの帰省は難しいだろう。三月の末に越してきたこのマンションの部屋はまだ段ボールが残っていて、家具の位置ももう少し調整する必要がある。年度の変わり目に引っ越したせいで、わたしにも譲にも部屋を片付ける時間が足りていない。

 今日だって、午後から出かけないといけない。緩やかに広がるキレイめのワンピースを着て、髪を後ろでまとめる。今日は隣町の中学校。明後日は近くの高校。先々週は入社式のある会社をいくつもはしごした。

 義姉さんはどの花を見たんだろう、とキッチンで思考を巡らせる。ここ数週間で大量の花に触れたので、どれか分からなかった。そもそも梅だったら、お正月あたりの可能性もある。まあ、どれを見られても関係ないのだけど。

 譲の弁当のついでに今朝作ったおむすびをラップに包んで、タッパーに入れてきんちゃく袋に仕舞う。花ハサミを三種類。タオル。エプロン。麻の大きなカバンに全部まとめて入れて、家を出る。

 マンションのエントランスを出たら、もう花屋のワゴン車が来ていた。慌てて駆け寄って、助手席のドアを開ける。


「すみません、待ちましたか?」

「いいや、いま来たところだよ」


 はよ乗んな、と粟谷あわたにさんが言う。助手席に乗り込んで、シートベルトを締めたと同時にワゴン車が出発する。車の中は花の青いにおいに包まれている。固い座席の背もたれに体重を預ける。


「中途半端な時間やったけ、迷惑やったろ。お昼はどうする。コンビニに寄ろか」

「おむすび持ってきたので、大丈夫です」


 カバンを軽く叩く。粟谷さんの、いつまでも残り続ける地元の訛りを聞くとどうしても少し微笑んでしまう。あの広い実家で、兄とまとめて面倒を見てもらっていた記憶がよみがえるからかもしれなかった。

 華道の家元だった父の下で、父の仕事を手伝ったり、家の中の面倒ごとをしてくれていた人だった。わたしが中学校に上がるころに出ていって、それ以来花屋を営んでいる。わたしに華道を仕込んだのは、父と粟谷さんなので、花屋が忙しい時期になるとこうやって呼ばれて、仕事を任されるのだ。

 ちらりと後ろの荷台を見る。華やかな花と、葉物、濃い紫の壺が置いてある。我が家はなかなか名の知れた名前で、その家元の右腕だった粟本さんも当然有名で、腕は確かなものだった。ただ話していると、ただの気のいいおじちゃんにしか見えないのだけど。わたしも粟谷さんも、いくつかの流派で勉強して、さまざまな資格を有している。花屋のフラワーアレンジメントでは少し勝手が違うけど、なんとか人前に出せるくらいにはきちんとした教育を受けている。


「嬢は、新しい家はどげんね」

「そこそこですね」


 粟谷さんのさりげない問いに、曖昧に答える。わたしも譲も、お互い忙しすぎてほとんど顔を合わせる暇がないので、なんとも言えなかった。実家の兄家族と、隠居している父母からわたしについて探りを入れられているんだろう、と心の中でため息をつく。実家は兄が継ぐし、無事に息子までもうけているのだから、放っておいてほしいのだけど。

 兄家族はともかく、遠くの田舎で隠居生活を送っているはずの父母の影が見え隠れするのは、少し問題だった。とはいえ、恩義のある父に、義理固い粟本さんが逆らえるはずもない。


「まあ、わたしも、友人も忙しいですから、なかなか顔を合わせる暇がなくて。しばらく溜まっている仕事で手一杯ですね。お互い」

「春先は嬢に頼りっきりになるけん、いけんね。作家さんの仕事もあるやろ。来てもらって大丈夫やったかね」

「ああ、そんな、」


 慌てて手を振る。


「こんな時期に引っ越しなんてたのがいけなかったんです。それに、いつも粟谷さんにはご迷惑をおかけしていますから」

「それなら、よかけど。忙しかったら言って」


 大人しく、はい、と答える。幼少期の生活も面倒を見てもらって、高校生で県外に出ると言い出して父母と争いになったときも、味方になってもらった。そもそもブランクのあるわたしを雇ってもらって、給料を出してくれている時点で文句をつけるはずない。

 小学校の門からゆっくり駐車場に入る。入学式や卒業式のイベントで花が必要になると必ず粟谷さんにお願いする学校なので、わたしも勝手は知っている。体育館の裏口に一番近いところに車が止まったので、ドアを開いて降りる。桜が満開だった。子どもたちがピアノに合わせて校歌を歌っているのが聞こえてくる。職員室から先生が会釈する。粟谷さんの後ろに着いて行って挨拶をして、体育館に荷物を搬入する。

 オリエンタルリリィの束を抱き上げたら、ユリ特有の甘ったるいにおいが胸いっぱいに広がった。わたしに華道の才はなかった。それでも、美しい花に囲まれたこの仕事に呼ばれるたび、心が沸き立つ。よろしくお願いします、と粟谷さんに言ったら、いつものあたたかい笑みが返事だった。


          *


  ぎし、とフローリングがきしむ音がして目が覚めた。ソファから体を起こす。


「おかえり」

「ただいま。寝てた?」

「うん……」


 いつの間に寝ていたんだろう、と鈍い頭で考える。外は真っ暗で、空調をつけていない部屋は肌寒かった。スーツ姿の譲がレジ袋を置いて、部屋の電気をつける。学校に着ていったワンピースのまま眠っていてしまっていた。

 あ、と声が出る。


「ごめん、ご飯作ってないや。急いで作るね」

「あー、いいよ。LINEに返事なかったから、買ってきた。コンビニ弁当だけど」


 ごめん、と小さく言う。時間は21時を回ったところだ。豚カツ弁当と、冷凍のグラタン。サラダと即席の味噌汁。


「どっちにする?」

「譲から選んでよ。譲が買ってきてくれたんだから」


 せめて温かいお茶くらいは出したい。譲が電子レンジでお弁当を温める横で、お湯を沸かす。ふぁ、とあくびがひとつこぼれる。

 譲と顔を合わせるのは、二日ぶりだった。今日も今日で、近くの高校まで行って、壇上に飾る花を作ってきた。今日で入学式は終わりなので、やっと時間が取れる。連載しているコラムの締切がそろそろ近いので、脳みそを切り替えなきゃと思っているあいだに、ソファで寝落ちしていたらしい。やはり人と仕事するのは疲れる、とため息をつく。譲を待てずに自室で死んだように眠る日々だった。

 譲も譲で忙しいらしい。この引越しの前後で溜まった仕事の処理や、新しい職場で、新しい仕事を覚えるために夜遅くまで帰ってこない。食器乾燥機に置いてあるお弁当箱とお皿、フローリングがそっときしむ音だけが譲の存在感だった。


「カラ、そういえばすっごいサクランボがあるけど、どうしたの」

「義姉さんにもらったの。ご飯食べたら、デザートにしようか」

「うん」


 ローテーブルに食事を置いて、向かい合って座る。黙々と食べて、お茶を飲む。明日は買い物に行かなきゃ、とぼんやり考える。春キャベツとか、旬だろう。花は粟谷さんにあまりものを持たせてもらったので、買いに行かなくていい。

 おおむね食事を準備するのはわたしで、食器を片付けるのは譲だ。譲は料理がほとんど出来ないし、わたしはわたしで自分で食事を作らないとストレスが溜まる性格なので、なんとなくこの形に落ち着いている。

 譲が食器を片付ける隣で、サクランボの茎をもいでいく。食器をまた出して片付けるのは億劫なので、ラップを敷いた皿にサクランボを盛る。


「そういえば、カラってお姉さんがいたの。お兄さんだけだと思ってた」

「ああ、そう、お兄ちゃんのお嫁さん」

「そういうことか。お兄さんの話しは聞いた覚えがあったんだけど、お姉さんなんていたかなって思って」

「よく覚えてるね」


 兄の話しなんてしただろうか。年も離れている兄とは、不仲とまでは言わないけど、距離のある兄妹である自覚はあって、一人っ子に間違われることが多いのに。

 譲がちいさく首を傾げる。


「なんだっけ、華道ですごい賞をとってなかった? 新聞を見せてもらった覚えがある」

「そんなことあったっけ……」


 兄はわたしと違って親の期待した正道を歩いている人で、いろんな賞をとっている。さすがに新聞に載るくらい大きなものは限られているので、当たりはつくけど。わざわざ譲に話したりしたんだろうか。

 まあ、3年間も付き合いがあれば、一度二度くらい話したことはあるだろう。別に嫌いな家族の話しでもないのだから。

 ソファに座って、サクランボを口の中に放り込む。甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。譲も目がまん丸になった。


「春先なのに美味いなぁ」

「本当ね。当たり年って言ってたからかな」


 譲はサクランボの名産地に住んでいたはずだけど、舌に合うならよかった。疲れているのなら、季節の果物はよく効くはずだ。


「そうだ、すごくたくさん送ってくれたから、譲の会社に持っていく? ブランデーに漬けてケーキでも焼こうかと思ったけど、それでも余りそうだから」

「そんなにたくさんもらったの」

「いつも贈り物が一家族単位なのよね。編集さんと粟谷さんの花屋に配らないと毎回余らせちゃって」


 一人暮らしですよと一応抗議はしているけど。もう5年にもなるのでなかば諦めている。今回は果物なのでできるだけ早く消費しないといけないし。


「じゃあ、もらって行こうかな。うちの部署が十人くらいなんだけど、大丈夫そう」

「うん。タッパーに詰めて、お弁当と一緒に置いておくから」

「自分でやるからいいよ。疲れてるだろ」


 譲の肩にもたれる。ワイシャツは冷たく、外の空気を含んだままだ。外で働いている人なんだなあとしみじみ思う。わたしの親は自分の家と、敷地内にある華道教室で仕事をすることが多くて、華道の先生がスーツじゃあってことで着物を着ていたので、ワイシャツを着ている人が家にいると不思議に感じる。

 疲れているだろうか。己の体に聞く。帰ってきてからずいぶん寝てしまったから、どうせ朝まで眠れない。睡眠剤に頼るのは次の日に予定があってどうしようもない時だけと決めている。


「今日はたぶん朝まで起きているから大丈夫。出ていくときには起きてないと思うけど」

「カラが大丈夫ならいいけど。本当に平気? 僕、あんまり家のことできてないだろ。負担がかかってるなら嫌だから」

「無理なら作んないよ」


 無理できるような精神状態だったら、きっとわたしに処方される薬はないだろう、と苦笑しながら思う。サクランボをもうひとつ。張りのある皮を奥歯で噛めばぷつっと果汁が口の中で弾ける。


「無理ならやんないのが、わたしの家事のモットーです。あれ、レトルトも冷凍食品も残り物も使ってるし、そんなに手間かかってないよ」

「ならいいけど……」


 譲が体重を預けてくる。しばらく沈黙が降りる。譲が持っていたテレビからニュース番組のアナウンサーの温度の低い声が響く。今日もどこかで交通事故や火事や傷害事件が起きていた。明日は晴れ。洗濯ものがよく乾くでしょう。

 ぱっと譲が体を起こす。


「ごめん、寝てた」

「疲れてるの、そっちじゃない。はやくお風呂入っておいでよ」


 うん、と顔をこすりながら譲が立ち上がって、譲の部屋に入っていく。ソファの上で背伸びして立ち上がる。冷蔵庫にサクランボを仕舞って、わたしも自室に入る。入口の横にある電灯のスイッチを押す。LEDライトの青白い光が、散らかったままの部屋を照らす。

 壁際にはまだ段ボールが並んでいる。ベッドとPCデスク、服を仕舞っているタンス。あとは本棚が並んでいる。まだ本棚の整理は済んでいない。今の仕事が済んだらやらないといけなかった。

 PCを立ち上げて、メールを確認する。特に新しいものはない。Wordには雑誌に掲載される予定のコラム。テーマは学生時代について。椅子のひじ掛けで頬杖をつく。部活動に学生時代の友達、学校行事。なんでもいいとは言われてはいる。

 学生時代の思い出と問われると、どうしてもあの海での時間を思うけど、400字で興味を引けるようにまとめるのは難しいし、社会に発表すべきものかと言うと、そうではない、が答えだ。海辺を使って書籍を出し続けているわたしなのだから、コラムのときくらい違う場所にした方がいいだろう。


 実家は、川辺にあった。夏でも水が冷たい井戸の中に、西瓜やキュウリをザルに入れて冷やしていた。今時珍しい生活をしていたと気付いたのは高校生になってからだ。畑も田んぼも山も持っていたので、季節に合わせて野菜や果物、山菜を採りにいって、保存食にしていたものだ。それらは客人に振る舞われることもあれば、道の駅や無人販売で売ることもあった。人を使って家の維持管理をしているような実家なので、そういう人たちに配ることもあった。

 お稽古事と客人の対応でなにかと忙しかったけど、そういう野良仕事をするときは親の目から逃げて自由な子どもみたいに振る舞っていた。野山のことを将来的に管理するのはお前だという、無言の圧力だったのかもしれないが。

 今頃どうしているだろうか。親や親せきは嫌いだけど、あの山の生活は好きだった。真夜中に懐中電灯ひとつだけ持って蛍を見に行って、冬の流星群のころには熱いココアを持って山頂まで行った。

 蛍はいいかもしれない、とデスクの上に置いてあるメモに書く。掲載は夏の予定なので、季節にも合うだろう。ヤマモモをもいで川の水で洗って食べて、桑の実をジャムにしていたのも、切り口を考えれば面白いだろう。惜しむらくは同級生との思い出がないことだけど、ないものねだりしても無駄だ。

 隣の部屋の扉が開く音がした。食後はたいてい一人になって、自室でぼんやりしたり仕事をする。ルームシェアを始めたとはいえ、平日にふたりで顔を合わせるのは2時間もないかもしれない。

 メガネをかけて、キーボードを叩く。わたしが幼いころ暮らしていた町は、大変な田舎で、特にわたしの実家は山の中にあるので、人より虫や野生の動物が幅をきかせていたものです……

 コラムの第一稿を済ませたら、今連載しているシリーズの続編を書かないといけない。締め切りは遠いけど、早く書くに越したことはないので。

 キーボードをかたかた叩けば、意識が潜水していく。


          *

 

 カーテンの隙間から薄く光りが漏れた。

 キーボードを叩いていた手を止めて、肩を回す。左下に表示されている文字数を見て、大きく息を吐く。今夜はずいぶん調子よく書けた。壁掛けの時計は5時を指している。体のあちこちを伸ばしながら部屋から出る。洗面台で顔を洗う。

 台所で冷蔵庫を開いて、なにを作ろうか考える。昨日の夜お米を炊き忘れたので今日は麺類でなにか作ろう。うどんがあるので焼うどんにすることにして、適当に材料を冷蔵庫から出す。雪平なべにお湯を沸かす。卵を入れて、タイマーを8分で設定する。野菜の下ごしらえを済ませて、フライパンを火にかける。

 野菜と豚肉を炒めて、うどんを投入する。砂糖と醤油とみりん、香りづけにごま油も入れて菜箸でかき混ぜる。最後だけ火を強くして、焦げ目をつければ終わり。卵を火から上げて流水にさらす。ネイビーのお弁当箱に焼うどんを入れて、荒熱が取れるのを待つ。プチトマトの茎をとって、あとは上に置くだけにする。

 サクランボを大きなタッパーに入れる。こんなものだろうか。インスタントのコーヒーをマグカップに淹れて、砂糖とクリープを溶かす。限界まで脳みそを動かした後に料理をするのはいいクールダウンになって好きだった。ソファに深く腰掛けて、いつもより甘くしたコーヒーを飲む。

 窓が東向きなので、朝日が昇ると部屋は一気に明るくなる。ソファの上に寝そべってあくびをこぼす。呆れるくらい平和だった。

 がちゃりとドアノブが回る音がした。頭だけ起こす。寝癖がついたままの譲と目があった。


「おはよ」

「はよ……」


 寝ぼけた顔でじーっとこちらを見下ろしている。普段より早く起きているのは確実なので、まだ目が覚めていないんだろう。のしのしこちらに歩いてきて、わたしの前髪をくしゃくしゃ触る。


「なあに。まだ6時前だよ」

「ん……」

「もう少し寝たら……」

 

 はなの、と舌っ足らずに呼ばれた。笑いながら手を伸ばす。譲が床に座って、ソファにもたれる。寝癖のついた髪の毛をなでつける。ソファに頭だけ乗せて目をつむってしまったので、体を起こす。せめてソファで寝た方がいい。


「こっち来て。起こすからソファで寝なよ」

「うん……」

「譲ってば」


 軽く頬をつまんでみる。反応がないので、完全に寝てしまったらしい。まだ冷えるので、自分の部屋からひざ掛けを持ってきて、譲の肩にかける。一応7時にスマートフォンのアラームをセットする。

 チョコチップクッキーを食べながら譲の寝顔を眺める。譲は目元に力を入れる癖があるので、こうやって力を抜くと途端に幼く見える。

 放課後に、図書室の奥で眠っている譲の顔を眺めていたのを思い出す。あの頃には譲を意識していただろうか。好きな本と音楽、若さに任せて社会と大人に文句を言って、嫌いな先生の悪口とモノマネで笑いあって、将来の不安をこぼしていた。どうしようもなく気が沈んだらふたりで海に行って、日が暮れるまでとりとめなく話した。なにかが解決することはなかったけど、なにを話しても否定しない人があのころのわたしたちには必要で、それがお互いだったのは、なににも代えがたい奇跡だった。あんな別れ方をして、あんな縁の切り方をして、あんな再会ができたのも。

 譲の髪を触る。譲は知らないだろうけど、クラスの女子に志摩くんっていいよねって聞かれたことも、連絡先を教えてって言われたこともある。あんまり仲良くないからって嘘をついたのは、誰にも言えずに心の中に仕舞っている。

 机の上に置いたスマートフォンが震える。譲の自室からも小さくアラームの音が響いている。髪の毛を撫でていた手で、ぺちんと額を叩く。


「譲、起きて。アラーム鳴ってるよ」


 うめき声が返事をする。


「譲ってば。大丈夫?」


 黒い目が開いて、こちらを見上げた。耳たぶをつまんでいたわたしの手をぐっと引かれる。バランスを崩して床に滑り落ちたら、譲に抱きしめられた。痛いくらいに手に力が入っている。いつも優しい手なのに、


「ちょっ、と、譲、どうしたの」

「……え、ああ、芳乃? あれ?」


 顔を両手でつつまれる。ほとんど徹夜明けなので、あんまり近くで見ないでほしいのだけど。


「……あー、夢だと思ってた。おはよう、カラ」

「おはよう。寝ぼけてたの?」

「部屋出たら、カラがいて、夢だと思った。一人暮らしのはずなのに、カラが部屋にいるなんてそんなの夢だって」

「まあ、ずいぶん寝ぼけてたもの。大丈夫? 朝ごはんはどうする?」


 またぎゅうぎゅうに抱きしめてから、譲が立ち上がる。


「トースト焼いて食べようかな。もうカラは寝るだろ。僕のせいで起こしてるんじゃないの」

「んー……」


 大きな手で頭を撫でられたら急に眠くなってきた。いつもなら朝の4時頃にお弁当を作ったらそのまま寝ているので、そりゃあ眠いに決まっていた。一晩中頭を使い続けていたのだし。


「うん、もう休もうかな。お弁当作ったから、プチトマト上に置いてね。温泉卵も作ったんだけど、あのね、紙コップに入れたら割れにくいらしいから、それで持って行って」

「わかった。ありがとう。ちゃんと布団で寝ろよ」


 うん、と答えた自分の声がずいぶん寝ぼけていて、さっきとは立場が逆だった。寝ぼけているならいいだろう。譲の手を借りて立ち上がって、そのまま抱き着く。


「行ってらっしゃい、譲。なにかおいしいのつくって、待ってるね」


 自分から抱き着くなんて、目が覚めたら恥ずかしくて仕方ないだろうから、すぐに体を離して自室に戻る。頭は眠気にぼやけている。穏やかな心持まま目をつむれば、きっと幸せな夢が見れるだろう。

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