靴箱とハンガー


 鍋しよ、と夜中に届いた極々短いLINEのメッセージを、かすむ目で何度も読む。私的な文章では、てにをはを削りに削るのが譲の癖だ。

 今から? さすがに。じゃあ、来週だったら、とりあえず大丈夫。金曜日、カラの家行く。おっけー。

 床につけた頬が、痛いほど冷えていた。通っているメンタルクリニックに近いという理由だけで選ばれたアパートの一室は、エアコンしか暖房器具はなく、フローリングの床から、春先の冷たさが這い登ってくる。ラグかカーペットか、なにか買った方がよさそうだ、と思いながらずるずると買い物の予定を伸ばし続けている。

 よいしょ、と床に倒れ込んでいた体が、大袈裟に揺れながら立ち上がる。キッチンで電気ポットに水を入れて、スイッチを押して、湯を沸かす。深夜二時。勤め人のはずなのに、なんていう時間にLINEを送ってきてるんだろう。もともと夜更かしが好きな人では、あったけれど……。

 数年ぶりに再会して、初めてする送り合うメッセージが、鍋。

 構いやしないのだけど。間接照明をいくつかつけているだけの、薄暗い部屋を眺める。ありとあらゆる服が引きずり出されて、あちこちに書類と薬が散乱している。自傷行為を行わない代わりに、ものにあたるのは健全的といえるのか。月に二、三回、部屋をぐしゃぐしゃに荒らし回ってしまう。それは執筆に詰まった時だったし、誰かに頼りたいという気持ちが堪えられない時だった。

 発作のように起こしてしまう行動だ、と、理解して、飲み込まないと、まともな大人の顔をして生きていけない。どれだけ投げつけても問題のない服と、パッキングされたままの錠剤、同じことが書かれた診断書の塊。当たり散らすものを決めて、大切なものは奥にしまい込んで、己の中の嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

 明日は掃除をしないと、とため息をつく。床に散らばったものを片付けるには、大きすぎる腹は厄介の一言だ。すべて自業自得だけど。

 プラスチックのコップに、お湯と水を混ぜて、ぬるま湯にする。薄く黄色かかった白い錠剤を二つ口に含んで、水で流し込む。

 部屋の隅のベッドに、よたよた歩いていく。赤いダッフルコートと、白いシャツと、黒のスラックス。学生の頃によく着ていた服が、ベッドの上を占領している。睡眠導入剤の効果は既にあらわれていて、頭の芯がぼーっとしている。服を床に落として、掛布団と毛布をかき分けて、抱き枕を腹の下に敷いて横になる。スマートフォンを握り締めながら、目をつむる。

 たった三文字で、わたしの嵐を鎮めてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。



          *



 3月、というのは悪い季節ではない。世の中の人々は花粉症で苦しんでいたけど、わたしはそういうアレルギーの類とは無縁の人生を送っていて、そもそも家からほとんど出ないので、気軽に春は嫌いじゃないと言い捨てることができた。

 低いソファの背に、洗濯したばかりのパッチワークのカバーをかける。紺色と白色、えんじ色の布を縫い合わせた、雪の結晶やクリスマスローズの模様がいくつもいくつも刺繍してるものだった。パッチワークと刺繍で生計を立てている義姉からの贈り物で、四か月に一度送られてくる、布と布の集合体。甥の写真、必ず映画の字幕と同じフォントで印刷されて送られてくる手紙。気難しい兄の嫁としてふさわしい、朗らかで、嫌みのない人柄のおかげで、わたしは辛うじて親戚付き合いというものを彼女とすることができる。そろそろ次のパッチワークの品が送られてくるころだろう。お礼の品を探す必要がある。

 窓を開く。割れ物と細かな雑貨を排除したリビングだった。簡単な掃除をして、バターロールを温めて食べながら、タブレットでメールチェックをする。ミントのハーブティーをガラスのポットで作る。玄関と、PCデスクの横と、本棚の上と、洗面台にある大小の花瓶を集めて、水を変えて、花の茎を切って、透明の薬を入れる。ルーティンワーク。

 薄い緑の薔薇と、オレンジに染めたカスミソウ、白いラナンキュラス、黄色のポピー、まだつぼみの濃い紫のチューリップ。春は穏やかな色合いの花が多い。白い花が一番好きだけど、春はカラフルな色合いのものを思わず買ってしまう。木蓮があればいいのに、と小さくため息をつく。近くの花屋は、切り花の状態がいいのでよく行くけれど、枝ものがなかなかないのが欠点だ。冬の終わりによく流通するはずの蝋梅は、一度しか店先に並ばなくて至極残念だった。

 洗面台の細長い白の陶器の花瓶にチューリップをさして、タオルの棚の中に置く。今日の午後の三時に、譲と最寄り駅で待ち合わせをしている。なんてったって、急に鍋を、わたしの家で。理由も聞かずにいいよと返事をしたけど。買い物をして、食事をすれば、帰りは何時になるだろう。昨日、少し考えてから予備の布団を干した。ここらは終電がうんと早い。譲の住む隣の県まで帰りつこうとしたら、車か、タクシーかになる。

 一人で考えていても仕方ない。まあ、どうにでもなるだろう。そのまま洗面台で薄く化粧をして、肩の下まで伸ばしている髪をお団子にまとめる。もう出発しよう。玄関には一番大きな花瓶を置いている。白いラナンキュラスと、緑の薔薇をまとめて入れて、家の鍵を持って外に出る。

 春先の街を歩く。風だけ冬のままで、穏やかな日光はもう春のものだ。たいした理由もなく越してきた街だけど、街路樹が多い街並みは気に入っていた。その前は、ビルとビルの狭間に暮らしていて、息が詰まってしかたなかった。あなたには、少し田舎の方が向いているかもしれません、と主治医の先生も言っていた。あの先生は、曖昧な言い方が得意な人。決して欠点の指摘ではない。医者たちの断定的な言い方は、時に苛立ちを掻き起こす。

 仕事のことと、家事のこと、兄家族に贈るものを考えていたら、あっという間に最寄り駅にたどり着く。譲との待ち合わせには、まだ早い時間だ。改札口からすぐの、間の抜けた青色のベンチに腰かけて、深く息を吐く。

 スマートフォンをカバンから出して、通知を眺める。作家の公式アカウントとして作ったTwitterアカウントのタイムラインは、同業者と出版したレーベル、サイン会をした本屋がずらずら並んでいて、みんなそろって来週の新刊の話しで持ち切りだった。なんとなく気持ちが焦って、スケジュールアプリを立ち上げる。コラムとゲームシナリオの締め切り。通院。赤い文字は、もう一つの職業の予定。3月と4月は忙しい。

 小説だけで食べて行こうなんて土台無理な話しで、わたしは幸運なことにいくつか持っている資格と、大きくて古臭い実家の関係で、もう一つの仕事を持つことができている。この体である以上、人前に出るのはためらわれるけど、いくつかの得意先と、その伝手で得られる臨時的な仕事やらなんやらで、どうにか一人分をまかなっている。そうでもないと、実家に帰らざるを得なかっただろう。

 将来のことを思うと、暗鬱とする。景気のいい日本なんて見たことないわたしたちは、ゆとり世代と呼ばれ、年金は消え、就職難と上がり続ける税金に四苦八苦している。医療は発達し続けて、老後の時間は伸びていくのに、わたしたちに年金なんてものは回ってこないだろう。結局自分の力、自分の金で生きていかなければ。電車がホームに入ってきた音がする。もう一度深いため息が出た。


「こら、お前、なんだその不孝そうな顔は」

「日本の将来を憂いていました」


 譲がわたしの頭を軽く小突くふりをする。滓を吐き出すように小さく笑う。


「久しぶり。元気だった?」

「それなりに。急に誘ってごめん」

「自営業なんで、大丈夫だけど。みかんこそ、こっちまで来て大丈夫だった? 遠かったでしょう」

「んー、まあ……」


 差し出された手を有難く借りて立ち上がる。今日も相変わらずネイビーの上着を羽織っている。あの、海で会った日は、その下に厚いパーカーを着ていた。今日はさすがにあの服装では暑いだろうけど。


「今日なんて、平日じゃない。こんな時間でもよかったの」

「しばらく休み」

「そうなの? ああ、あっちのバスに乗るの。鍋も買いにいかないといけないから」


 譲が自然な仕草で肩を抱き寄せる。いきなり縮まった距離に肩が跳ねかけて、カバンの紐を意味なくいじって誤魔化す。黄緑色のバスに乗って、一番後ろの席に並んで座る。車内にはわたしたちしか乗客はいなかった。


「みかんが平気ならいいけど。ここらへんは最終電車がはやいし、もし仕事があるなら大変かもしれないと思って」

「それは平気。ちょっと事情ができて」

「へえ?」

「あとで言うよ。ちょっと込み合った話しだから。カラ、」


 つっ、と髪の毛を撫でられる。今度こそ強く動揺したのがバレただろう。動揺した声で、なあにと聞いたら、案の定意地の悪そうな笑顔になった。


「ほこりがついていただけど。そんなびくびくしないでも」

「ちょっとびっくりしただけでしょ」

「ごめんごめん」


 はは、と笑い声混じりに言われても。つんとそっぽを向いて、窓の外を眺める。カバンに下げているICカードのケースをいじる。無難な灰色のケースに、木製の鈴をつけている。からころ可愛らしい音がするので、長く持ち歩いている。

 バスで10分のところにある、大型のディスカウントストアの前で降車する。バスのステップから降りるのを手伝ってもらって、店に向かって歩く。拗ねたまま手を借りて、久しぶりに誰かに甘えているような気がしている。譲の中指の先に、ざらついた起伏がある。そういえば、彼はペンの持ち方が少しだけ変で、なんだか変わったところにペン胼胝がある人だった。


「これ、ペンだこ?」

「え、ああ、うん」

「書き物が多い仕事なの?」

「書類とかぜんぶ手書き。古い会社でさ、電子化がなかなか進んでないんだよ。そろばんが現役で出てくるくらい」


 それはなかなかに、とうなずく。譲の仕事も知らない……、と考えたら、長くあった断裂を思い出して、変に落ち込みそうなのでやめる。LINEのブロックも、着信拒否も、わたしからしたことなので。

 二~三人用の、卓上で使える鍋を選んで、足りない食材を購入すべく、カートを押して店内を歩く。食材のコーナーになった途端に、大人しくなった譲が後ろについてくるので笑ってしまった。


「急に借りてきた猫みたいね。なにを食べる?」

「鍋ってどうやるか、僕イマイチわかってないからさ」

「わかんないのに誘ったの?」


 いよいよ大きな笑い声が出る。困ったように譲が首筋をかいた。


「もう冬が終わるのに、鍋のひとつもしなかったって思ったら、なんだか寂しいと思って。それで、カラにLINEを送ったんだ」

「そんな、寂しいからなんて、平安時代の貴族みたい。いいよ、おいしいの食べよう。どの味にする?」


 春先だからか、鍋のスープの素は値下がりしていた。醤油、味噌、塩、カツオ出汁にこんぶ出汁、海鮮系の物もあるし、トマトや豆乳、チーズもある。自分で出汁を引いてもいいけど、楽できるところは楽して料理するのが、自炊を長続きさせるコツだと思っている。譲に好きなものを選んできてと言って、野菜を選びにいく。スープがなにになるのかわからないけど、基本的な食材は選んでおいていいだろう。

 お豆腐をカートのかごに入れたところで、譲が戻ってきた。味噌と塩とトマト。三つも袋を抱えている。


「三つも一度に食べれないけど、大丈夫?」

「やっぱりそう? 選びきれなくて」

「じゃあ、また今度もやればいいよ。お鍋も買ったしね」


 譲が滅多に見れないくらいうきうきした顔をしているので、苦笑してしまう。お肉と肉団子を選んで、買い物を済ませる。来た道をたどって、我が家に帰る。道々で、あそこのお店のケーキがおいしいとか、クチナシの花が咲く近所の家や、街路樹の名前をとめどなく話した。まるで高校のときの下校の時間だった。

 あの浜辺に行かない日は、駅のホームでずっと話しをしていたものだ。次の電車に乗ろう、次の電車で帰ろう、と言いながら、家に帰れる最終電車まで話し込んだこともある。冬は風が吹きすさぶし、夏は西日が痛いほど暑かったけど、そんなことは些細なことだったと思う。そんなことを気にするなら、そもそもわたしたちは海に思い出を置いていない。

 最後に花屋に寄って、大きなホタルブクロを三本買う。青みがかった白色なので、ベッドサイドに置こう。顔見知りの若い店員が、おまけですと言って真っ赤なガーベラを入れてくれた。

 アパートの階段をのぼって、部屋の鍵を開ける。


「どうぞ。狭いけど、ゆっくりしてて」

「お邪魔します」


 キッチンに買ってきたものを置いて、リビングのソファに座った譲に熱いコーヒーを出す。ホタルブクロを包みから出して、花瓶をしまっている棚を開く。背の高いものを買ったので、重たいものじゃないとひっくり返る。分厚いガラスの瓶に水を入れる。水切りを済ませて、花瓶にさして、リビングから見える場所に置く。今夜は荒れ狂うことはないだろうから、ここに置いていてもいい。

 対面キッチンからリビングをのぞき込む。パッチワークのカバーを眺めている譲に声をかける。


「ちょっと早いけど、鍋の準備しようか。それで、少し確認しておきたいんだけど」


 一応、年ごろの男女ふたりだ。数年ぶりに再会したばかりの同級生を家に上がらせるなんて、本来よくないことだというのはわかっている。自分の友人がこんなことしていると聞いたら、本当に大丈夫な相手なのと確認する。

 本当に大丈夫な相手だと、思っている。思っていなかったらわざわざ言葉にして確認なんてできない。


「あのね、最終電車で帰るんなら、けっこう早い時間になっちゃうし、タクシーは高いでしょ。わたし、車は持っていないし。だから、泊まっていってもいいよ。布団はあるから」

「ネカフェにでも泊まるつもりだけど。そんな迷惑かけれないだろ」

「別に泊まっていってもいいよって言ってる。どうする?」


 譲の顔が渋くなる。


「僕からカラの家でやろうって言った。それは、あんまり遠くに来てもらうのは億劫だろうからって理由で、そういうことじゃない。まだ話したりないこともあるし、ややこしい事情もできたから、直接話したかった。それ以上もそれ以下もない」

「それ以上もそれ以下もないんだったら、なおさら泊まっていけば」

「君、それ、誘ってるって解釈するぞ」


 君、の響きが強かった。そりゃあ、怒らせるようなことを言ってるから。


「こんな体で? ここらへんの夜ってまだ寒いから、夜出歩くのはそれこそ億劫だけど。これ以上言ったら、あなた、帰っちゃうね」

「今すぐ帰ってもいいよ。お前、僕を怒らせて予防線張るの、やめてくれる」


 肩をすくめて返事にする。コミュニケーション能力が高校生のあのころのままになってしまっている。挑発とはったりと、誤魔化しと。甘えているとも言うけど、ただただ迷惑を振りまいているだけなので。あのタイミングで、ごめんなさいと言ったらさらに怒るのが彼の性格だ。

 鍋を洗って、布巾で拭く。床に転がしたレジ袋から鍋の材料を取り出す。今日は味噌味がいいとの注文だった。大皿に切った野菜を乗せる。大根があったので、それも半月切りにする。鍋なんてよっぽどなにかしでかさない限りおいしくできるので、あるものを適当に入れる。豆腐としめじ。鶏肉をぶつ切りにして、雪平なべで軽く湯がいておく。薄切りの豚肉も食べやすい大きさに切って、これでだいたい終わり。

 そういえば、今年はわたしも鍋はしなかった。ずっと使っていた小さな土鍋を割ってしまって、もう二度と買わないと決めたのだ。鍋をリビングの真ん中のローテーブルに置いて、コンセントを差し込む。味噌の出汁の封を切って、鍋の中に注ぐ。白菜の白いところと、ニンジンと、鶏肉を入れて蓋をしてスイッチを押す。

 壁際のソファから譲が近寄ってくる。わたし、このテーブルで直にフローリングに座って食べるのずいぶん慣れてしまっているけど、兄家族には不評だったのを思い出した。


「もう準備できたの」

「うん。鍋だもの。そんなに必要ない」

「手伝うよ」

 

 少しためらってから、うんとうなずく。客人を台所に入れる文化は、実家にはないものだ。手伝うと言い出すことすら失礼なものだと教わったものだけど、たまにはいいだろう。別に親や祖父母が見ているわけでもない。

 食卓を整えて、向かい合って座る。鍋の中がふつふつとゆだってきているので、葉物と豆腐と豚肉を追加する。テレビもない部屋なので、沈黙が少し痛い。さっき怒らせたばかりだし。


「譲は、料理しないの」

「うん。いつも適当に買ってる」

「鍋のやり方がわからないなんて、よっぽどじゃない? 実家ではどうしてたの」

「ああ……」


 ちょっと譲の表情が苦くなった。


「母さんが、食卓で調理する料理が嫌いだったんだよな。あの人は、こう、ご飯、おかず、サラダ、汁物、小鉢って、ひとり分ずつ盛り付けて、お盆に乗せて台所から運んでこないと満足しない人で」

「毎日? すごいね」

「どんぶりものとかも嫌いだったかな。あんまり食べたことない。麺類も、お昼ご飯でしか出さないって、母さんの中の決まりがあったみたい。じいちゃんの家に行って、ばあちゃんがすき焼きをしてくれた時はすごくうれしかった覚えがある」

「そう……」


 なんというか、様々なことがうっすら透けて見える話しだった。譲がちいさく首を横に振る。


「まあ、そういう人だったよ。完璧な母親であり続けて、完璧に家の中をコントールしないとかわいそうなくらい怒り狂って、手がつけらんないもんで。途中で父さんも死んだし。止める人がいなくて」

「うん」

「今思えば、病院とか行くべきだったんだよな……」


 ふっつりと言葉が途切れる。若くして頼るべき存在がいなくなるなんて、どういう気持ちだったんだろう。そして、わたしの行動は、とどめを刺したに決まっていた。今だって、彼は優しいから、とずるずる子どもじみた行動をして。ふっと胸の中が暗くなる。

 テーブルの上に投げ出していた手の先に、譲がちいさく触った。いつの間にかうつむいていた顔を上げる。はは、と短く笑う。


「そんな顔するなよ。もう五年は前の話しだぜ」

「……いや、うん……」

「あと、そういう顔をするには早い。これからもっと面倒な話しと、ちょっとだけ良い話しをする。どっちからにする?」

「面倒な話し」


 正座にしていた足を崩す。鍋の火を弱くして、蓋を開ける。話しが長くなりそうなので、同時進行で食べた方がいい。お玉で具材をよそって、譲に渡す。いただきますと手を合わせて、白菜を一口。悪くない。


「先週、母さんが退院して」


 うん、と掠れた声で返事をする。


「母さんだけで一人暮らしさせるわけにはいかないってなって、じいちゃん家に母さんも帰ったんだよね。で、僕と母さんは、接近禁止命令が医者とじいちゃんたちから出てるわけ。やっと精神状態が安定したばかりだから。もともと会社の寮で一人暮らしはしていたんだけど。で、母さんは、僕を今だって手元に置いて育てないといけないと思ってる」

「それは、そうね、会わない方がいいかもしれないね」

「僕も会いたくはないし。ただ、いま働いているところが、母さんにバレて」


 あちゃあ、と顔をしかめる。譲のお母さんには、一度だけ話したことがある。体育祭で熱中症になった譲を救護テントの中でうちわであおいでいたら、尋常じゃない様子で駆けつけてきて、ただ近くにいただけのわたしを怒鳴りつけ始めたのだ。

 ヒステリックな女性には慣れていたけど、あまりにもびっくりしてなんにも言葉は出てこなかった。そんな人が、長い間離れ離れになった息子の勤め先を知ったら、なんとも面倒なことになりそうだ。


「会社に来て、僕を出せの一点張りで。たまたま外にいたからよかったんだけど、まあ、これじゃいつか業務に支障をきたすって話しになって」

「うん……」

「一度会社をやめたふりをして、今はホテルで転々としているところ」


 譲の口調があまりにも淡々としていて、こちらが困ってしまうくらい。手元の取り皿を見つめる表情は暗くて、投げやりだった。親に振り回される子どもの立場は、少しだけわかる。大人になったら逃げられるなんて、甘い話しなのだ。いつか、必ず、追いつかれる。それがわかっていて、逃げざるをえない。逃げる以外の方法を見つけるか、自分のよすがを見つけるかしない限り。

 縁を切ればおしまいなんてならない。個人情報をつかむ方法も、人を追跡する方法も、いくつもある。血のつながっている家族なら、本当にいくつも。


「いい会社でよかったよ。社長がすごく親身になってくれたから」

「そうね」

「……悪い親じゃなかったんだけどな……」


 ぎゅっと唇を噛んで、上半身を伸ばして譲の取り皿を奪う。肉団子と豚肉と鶏肉をこぼれそうなくらい積み上げる。


「ほら、食べて。固くなる」

「ん、」

「寒くない?」

「うん、へーき」


 へらっと譲が笑う。わたしも食べることにする。食欲があるうちは平気な顔をしていられる。鍋でよかったと思う。少しは部屋があたたかくなる。


「で、悪いことばかりじゃなくて、ここの近くに支社があって、異動することになった。あんまり会えないって思ってたけど、これからはもう少し気軽に会えると思う」

「そうなの?」


 譲の告げた地名は、確かにこの近くのもので、確かに気軽に会うことのできる距離だった。バスで二十分もかからない。

 わたしと仲良くしていいのと聞きたい気持ちもあるけど、嬉しいと思うことは止められなかった。もっと健康的な女性と仲を深めるべきだ、といつか言わないといけない、と脳裏の自分が冷たく囁く。少なくとも、腹が膨れていなくて、月に何度も部屋をぐちゃぐちゃにしないような人がいい。優しいこの人には、もっとふさわしい人がいるのに。あなた、自分のこと、自覚してる?

 譲が無邪気に笑う。


「カラと会えるんなら、悪いことばかりじゃない。どこに住むかは決まってないけど、年度初めには引っ越すつもり」

「そう……」

「ああ、よかった。どうしても、直接話したかったんだ」


 ぐつぐつ煮えている鍋を見ながら、そうねと答える。無邪気に喜べないのは、己の身の不確かさを知っているからだ。譲の母親が退院した病院は、きっと精神科医のいる病棟だろうし、わたし自身、そういう病院に入院する可能性を高く持っている。

 誰が、どんなことを言おうが、精神に問題のある人を身近に置くのは、面倒なことだと実感している。わたしのこの腹を賭けてもいい。

 ニンジンを噛む。砂みたいだ。自己否定のハイエンドに居続けて数年なので、こういう考え自体が、予防線で、試し行動で、自傷行為だというのは理解している。他人にこんな考えに付き合わせられるのは、迷惑で、億劫なことであることも。

 おもむろに譲が立ち上がる。大股でわたしの横まで来て、わたしの顔をぐいっとあお向ける。


「君、余計なことを考えてるだろ」

「……えー?」

「誤魔化すなよ」


 顔がくしゃっとなった。無意識のうちに、腹を抱きかかえていた。


「カラは、喜んでるときは僕の顔をまっすぐ見る。それくらい知ってる」


 近くに寄せられた顔が、本当に真剣だった。ふらふら逃げようとしていたのはわたしなので、当然のことではあった。


「なんだよ、言ってみろよ」

「……だって、譲、あなた、あんまりわたしに構わない方がいい。こんな面倒な人間なんだから。譲になにかしてあげれたことなんてないんだから」


 耳の横で、譲がうめくように囁く。


「だめか。僕じゃ」

「わたしがって話し」


 大きなため息が鼓膜をざわざわさせる。腹を抱えてなお、空っぽのままの両手をどうすべきかもわからない。拒絶しないといけなかった。互いのためにならない関係なんて、持つべきじゃない、ととぎれとぎれに言う。わかって。おねがいだから。きっと譲が近くにいたらずるずる甘えてしまうから。譲の大きな手に力が入ってから、肩を押される。からだとからだの隙間に入った空気で、この部屋がどれほど寒々しいか身に沁みる。

 彼は帰るかもしれない、と、顔を見上げる。涙は出なかった。代わりに、体温を失った手が、小さく震えていた。


「この部屋、家賃、いくら」

「え?」

「いくら」

「七万五千円……」


 口調に押されて思わず素直に答える。譲がスマートフォンを出して、いくつか操作をしてから、こちらに画面を見せてくる。賃貸の情報サイトだった。


「最寄り駅が変わらないくらいだったら、2LDKの相場が八万ちょっとで、引っ越し代はかかるけど、お互い家具は持ってるし、家賃とか光熱費を折半すればちょっとは生活費は浮くだろ。一人口は食えぬが二人口はって言うし。引っ越しの時は会社のトラック使わせてくれるって言ってたから、そんなにかかんないと思う。エアコンとかは業者に頼んだ方がいいのかな。あんまり詳しくないんだけど」

「ちょ、ちょっと、なんの話し?」

「こんな寒い部屋で、一人暮らしするくらいなら、僕と暮らせばいい。迷惑だって、僕が思ってるなんて、ちらっとでも考えられるのは嫌だ」


 返事に迷って、譲のシャツの袖をつかむ。ぐるりと手が回ってきて、しっかりと指と指が絡まる。振り払えって?


「カラ。芳乃。僕がどれだけお前に救われたと思ってるんだよ。なあ。本当に僕は、芳乃がいなければ海に飛び込んでたんだ。僕が一番苦しい時に黙って近くにいてくれたんだ。ひとりが寂しいって、言ってただろ。忘れてやんないからな。僕だって嫌だ。芳乃」

「……」

「お前は僕を優しいって言うけど、僕の面倒さだってなかなかなんだからな。お前、僕のこと、好きだろ。好きじゃなかったら、僕のこと忘れて、あんな適当につけた名前に気付きもしないで、変なメールが来たなぁで済ませてた。電車に乗って、あの駅に向かっていた時点で、芳乃が僕のこと好きだって、バレてるんだよ」


 妙に自信たっぷりな口調で言いきられて、小さく笑ってしまった。僕の面倒さだってなかなかなんて、そうそう言うもんじゃない。フローリングをつま先で引っかく。どうしようか。ルームシェアや同棲でダメになる人たちはたくさんいたし、生活費や家事の分担だとか、生活リズムの違いとか、懸念点の方が多いのに。

 いいよ、と言う。そうしようか。わたしたち、ふたりでいた方がいいのかもしれない。芳乃って、名前を呼んでほしいと、少しでも思ったわたしの負けだ。


「いいよ。そうして。わたし、譲を信じるよ」


 あの夜に信じきれなかったのを、謝れないなら、信じるしかないと思う。きっとわたしたちなら大丈夫と言うべきだった。信じて、対話を重ねて、時間を過ごすのが、わたしの信頼だと言わせてほしかった。譲が手を引くなら、ためらいなく着いて行きたかった。


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