カラのはら
天藍
カラのはら
心療内科の待合室でぼんやり自分の名前を呼ばれるのを待ってる時間が一番執筆が進む、気、が、する。
薄っぺらいタブレットの画面に映し出される、昨夜書き上げたばかりの小説を眺めた。誤字を直す。付属品のタッチペンが画面を叩く小さな音が耳に届く。
「梶原さーん、診察室へどうぞー」
ぼんやりしていたせいで、わたしの名前だと気づくのに数十秒かかった。診察室に向かいながら、本名より、ペンネームの方が反応がいいらしい、と唇をゆがめる。自嘲、自嘲、自嘲。
診察室には、いつもの先生。こんにちは。最近どうですか? 曖昧な質問には曖昧な返答をするに限る。いつも通りです。白い壁。窓には分厚いカーテン。足音を殺しながら動き回る看護師。
「薬の方はどうですか? 飲んでるときに違和感はありますか」
「いつも通りです。悪いところは、なにも」
「良かったです。それにしても寒いですねぇ。昨日の夜はお鍋をしました」
「わたしは……ええと、ああ、牛丼食べました。レトルトですけど」
「珍しいですね。締切が近いんですか?」
「筆が乗ってて、食事作る時間が惜しくて」
我ながら適当な返事だと思う。わたしはこの先生との語らいを目的にここに来てるのではなく、やはりあの待合室の椅子に座りたいだけなんだなと思う。すべて無駄なことだ、とささやき声が聞こえた。思考がマイナス方向に転がしだしたのを感じて、思考にブレーキをかける。
代わりに、鍋は食べるのではなく、するもの、脳内に緩くメモする。なにかのネタになるような気もしたし、すぐに忘れてしまうような気もした。
「いつものお薬出しておきます。また一か月後に来てくださいね。それじゃあ、帰り、お気をつけて」
「はい。失礼します」
過剰に日光が溢れる待合室に戻って、薄いクッションの椅子に体をうずめて目を閉じる。看護師のゆるやかで低い声と、誰かの早口の返答が聞こえた。
*
ヴヴッ、とポケットの中でスマートフォンが震えた。
信号待ちの時間に画面をのぞき込む。同窓会のお知らせというタイトルのメールが、Gメールのアカウントに届いていた。作家として公開しているメールアドレスなので、こちらに来るはずがない。無視しようと思いながらスクロールして、幹事の名前が目に入る。移瀬柑。
「う、う、……うつ、せ、かん……?」
ぱっぽー、と歩みを進める音が響く。反射的に一歩踏み出して、そのまま脊髄の判断に従って歩き続ける。スマートフォンを握る指先の感覚が鈍い。奥歯が寒さでかちかちと鳴る。……寒さで? 本当に? 影と過去は、足の裏に張り付いて、必ず追いかけてくるのだ。
強迫観念的に進む足を、無理やり止める。無意識のうちに浅くなっていた呼吸を、大きく、深く、何度か繰り返して。低い声で呟く。
「……馬鹿みたいよ、わたしたち」
悪趣味な裏切りをしたのはわたしからだ。
だから、悪趣味な知らせに欠席と返事することは出来ない。
ごめんと送ったら怒るだろうか。激怒するだろう。謝られるのが、世界で一番嫌いな人だから。いつもは固く拒否している記憶がずるずるとよみがえって、思わず涙がこぼれそうだ。
自分の頬を軽くはたいて、もう一度スマートフォンをのぞき込む。日程は、今日、今から。場所は? いつもの場所。そう、馬鹿なものだから、馬鹿の一つ覚え。駅に向かう。ICカードで、改札のカードリーダーを叩く。カードケースにつけた木製の鈴が、ころん、と鳴る。
電車は、好きではない。
わたしも、彼も。
*
がたんと大きな振動で目を開く。いつの間にか眠っていたようだった。締め切った電車の中は空気がこもっていて、少し気分が悪かった。いつの間にか隣に誰かが座っている、と視線を動かす。黒い瞳が、わたしを写して笑った。
「よう」
登校の電車でたまたま出会ったみたいな気軽な声で。反射的に膝に置いたかばんごと体を抱きしめる。驚いたまま声すら出ないわたしを、彼は笑う。
「どうしたの。そんな顔して」
「……幽霊が見えたみたいだった」
「はは。お前、そんなの嫌いなくせに」
皮肉げな声のまま、臙脂色の幅の広いマフラーを広げて、スカートが覆っているだけのわたしの膝にかける。懐かしい、彼の、優しさだった。罵倒が出てきそうで、わたしは唇を噛み締める。はは。短く笑い声が響く。
「怒ってる? ごめんって、そんなにびっくりするとは思わなかったんだよ。寝てたの」
「うん」
「でも、はは、ざまーみやがれ」
けたけた笑う声が、電車の中に響く。斜め向こうのおじさんが眉をひそめた。
「みかは……、」
電車の窓から、冬の夕暮れのひかりがころころ零れてくる。ほんの一瞬、彼の表情が陰った、ような気がした。
学生時代の愛称が口からこぼれてしまったことに、お互い大げさに感情を動かしてしまっている、と呼吸一つ分の間で思考する。手を伸ばして、彼のコートをつかむ。背の高い彼には似合わない、女の子のような愛称をつけたのはわたしで、それを使っていたのはわたしだけで。
「……なーに」
「みか、みかん? わたし、どっちで呼ぼうか」
「別に。えーと、じゃあ、冬だから、みかんかな」
「じゃあ、みかん。謝ったら、怒るんでしょ?」
「もちろん。君、裏切りだよ」
君、と呼ばわる時は、彼が激怒している時だ。君、君、君、たった二文字を、痛烈な響きにして。
「君、どうして僕を裏切った?」
「……どうしてかなぁー……」
かかとの低いブーツで、電車の床をコンと叩く。そう、わたしは、彼を見捨てて、裏切った。それは、たしかなことなんだけど。
「怒ったでしょ」
「だって、連絡先、ぜんぶ消したのはそっちだろ。僕、なにかした?」
「なぁんにも。そもそもみかんがわたしを傷付けて、気付かないはずがないんだよな」
「じゃあ、どうして」
どうして? 曖昧な質問だ。わかっているくせに、と言いたくなる。
裏切ったのはわたしから。
でも、先に背を向けたのは、あなたでしょ。
「どうして? どうしてかな」
口元を手で覆った。笑ってしまいそう。嘲笑の類だった。説明もなしの、曖昧な言葉と感情的な言葉のラリー。わたしと彼のあいだに作られた亀裂に関して、お互い正しく理解している。そうでなければ、こんな会話が成立するはずなかった。
なんだか、昔からまったく変わっていないような、錯覚。変わっていないなんて、そんなはず、絶対にないのに。
ないのにね?
「どうしてだろう。わかってると思うけど、わたし、みかんのこと嫌いじゃないんだよ。今だって」
「僕はさ、」
みかんが、視線をそらした。
「僕は、カラ、君だけには裏切られないと思ってた」
「……それは、ごめん」
「怒るよ」
「うん。でも、それ以外に、なにを言えっていうの」
あなたが、わたしを傷付けて、気付かないはずない。
だから、あなたは、わたしを傷付けたことを誰よりも知っている。
「……そうなんだけど」
「ねー、みかん、なにをわたしに言って欲しいのさ」
わたしから、言うことではないのだけど。駅のホームに電車が滑り込む。マフラーを返そうとしたら、みかんは首を横に振った。
「カラに貸す。なんでそんなに薄着なんだよ。寒がりのくせに」
「べつに……薄着でも、平気だから」
「体冷やすのは良くないだろ」
「ああ……」
彼は勘違いしてる。仕方のないことで、数年の空白のあいだにできたわたしの事情を彼が知るはずもない。臙脂色のマフラーを首に巻いて、わたしは笑う。かすかに煙草のにおいがした。
「煙草吸うの」
「ううん。においする? 会社で煙草吸う人がいるからかな」
「ちょっとだけだから大丈夫。ありがとう、借りるね」
がたん。電車が止まる。立ち上がると、みかんはわたしの右手を引いた。そう、彼は、とびっきり優しい。わすれていたわけじゃないけど、久々にこの優しさを浴びると胸がつきつき痛んだ。
「あのね、みかん、大丈夫だよ。心配しないで」
「なにが」
「わたし、健康体でね、病気もなにもなってないの」
「それで?」
「心配ご無用ってこと」
へえ、と乾いた声が返事をした。声の調子には似合わない、優しい手つきでわたしの手を引いているくせに。無骨な靴が、コンクリートをざらざら擦りながら歩いていくのに、ゆっくりついていく。
潮風のにおいがした。ここから海は近い。あと二駅電車に揺られたら、わたしたちが通っていた高校の目の前なのだけど、ただ、わたしたち、そこは思い出の場所ではないので。
防波堤を歩く。昔から閉店したままの釣り道具とボートのレンタル屋、テトラポットと海鳥の鳴き声。野良猫に餌やりをしないようにと看板が立っている。
懐かしい風景であった。
「何年ぶりだろ。なつかし……」
「僕は一昨日ぶりだけど」
「……うそ」
「ほんと。……カラは本当に、僕のこと嫌いになったんだな」
そちらがしがみつきすぎなんだ、とわたしはちっさな声で言う。だって、ねえ、わたしたち、もう大人じゃない。そんな寂しそうな声で言わなくったっていいじゃない。
大人になったでしょ? わたしたち。
「……嫌いじゃないよ」
「本当かなぁ」
「わたし、みかんにだけは嘘言ったことないのに。やなこと言うなぁ」
「嘘は言わないけど本当のことも言わないだろ」
「嫌いじゃ、ないよ。ほんとだよ……」
「……いじわる言ったかな」
「言った。みかんなんて嫌いだ」
「ほら嘘つき」
べっと舌を出す。手を振り払って、防波堤の階段を上がる。潮風に借り物のマフラーがひるがえった。灰色の海。青くなくていいのだ。近くにいるお互いの声しか聞こえないくらいの潮騒があれば。
「カラ、」
「あー、懐かしい!」
ダイブ!
ばさっと白い砂が舞い上がる。重心がぐうっと傾いて、支えきれずに砂浜に尻もちをつく。靴の中に砂が入った。冬の早い夕暮れが近い空がパッと広がる。大きな岩がなかったのは、運がよかったけれど。そのまま砂浜に仰向けになったら、小さく笑い声がこぼれた。もう、学生の頃の、少女の軽やかさなんてない。不格好で、歪な体を抱えて。
「こら、馬鹿、なにしてんだよ」
血相を変えたみかんが、堤防からわたしの横に飛び降りてくる。薄い青と、かすかな橙が混じる空が視界いっぱいに広がっていた。昼と夜の狭間の再会なら、わたしたちに相応しいだろう。
退屈な授業を終えてから、わたしたちはいつも夕暮れの海辺を歩いた。
わたしたちの思い出は。だから海にある。
「靴に砂入っちゃった。最悪」
「そうじゃなくて。なにやってるの、この馬鹿。大丈夫か」
「へーき」
みかんの濃紺のコートがはためいていた。昔から変わらない色だった。
「みかん、勘違いしてるな。仕方ないことだけど」
「はあ?」
抱っこをせがむ子供のように腕を伸ばす。頭の奥に、波の音が響く。からっぽの腹の中にも。
「わたしの身体はわたしひとりのもの」
「……」
「この腹はね、」
妊婦のように膨れた腹。こうやって仰向けになると重みで呼吸が苦しくなる。からっぽのくせに。重たくいびつな。
からっぽのくせに!
「この腹はからっぽ! なーんにも入ってないの。ぜんぶからっぽ!」
*
なにもかもが嘘だ。名前も描く物語も感情も膨れ続けるからっぽの腹も。
*
「……はぁ?」
「触ってみる? なにも入っていないよ。わたしの血と臓器だけで構成されてて、新たな命なんてない。これは、ただのからっぽの腹」
「ちょっと黙ってよ」
「嫌。これはわたしの自由だ」
「うるさいな、キスでもしてやろうか」
「やれるもんならやってみれば」
起き上がる。髪からぱらぱら砂が落ちた。風が吹く。冬、の、夕暮れ。つんと鼻の奥が痛くなる。
「想像妊娠。腹まで膨れるのは珍しいんだけどね。わかった?」
「……」
「おい、信じろよ」
片目を眇めて、わざとらしく荒れた言葉を使ってみる。かわいこぶったって仕方ないし、素なんてとうの昔に知られているものだから。唇を青くしたみかんが、うめくように問うてくる。
「……父親は?」
「いない」
「本当に? 付き合ってる人とかは、いないの」
「いないよ」
わたしを見つめる黒い瞳と、濃紺のコート。すべて懐かしいものだった。ふらつきながら立ち上がって、海に向かって歩く。
「いないんですよー」
「……はぁー? わっけわからん。馬鹿やろう」
「ごめんなさーい! でも、そうね。わたしは昨日も今日も明日もひとりで、この腹を抱えている。わたしがひとりだから、この子はここにいる」
かかとを踏んで靴と靴下を脱ぐ。馬鹿みたいによろつきながらそれを拾い上げて、海の中に入る。
「いつから?」
「三年前」
「ずっと?」
「うん」
足首に海水があたって砕ける。指と指の間を海水と砂が行ったり来たりする感覚がひどく懐かしかった。
「……」
「……信じてよ」
「仕方ないだろ」
波に砂が奪われて、足元の砂が大きく崩れた。ぐらりとよろめいたら、背中がみかんにあたる。髪が風に暴れるのをぼんやり眺める。
嘘なんて、ひとつもない。三年前から、わたしの腹は膨れ続け、それをひとりで抱きしめるしかなかった。
「……カラ」
「なに」
「約束を果たしに来た」
カッ、とほほに熱が上がった。潮騒が響く。水を蹴立てて振り返った。海水が膝の裏を濡らす。
「嘘つき! できない癖にそんな風に言うな、馬鹿! 馬鹿は嫌い! みかんも嫌い!」
両手に握っていた靴を砂浜に投げつけた。
「裏切ったのはあなたからでしょ!」
「そうだよ」
肩を掴まれる。薄いセーター越しの手のひらを、わたしは跳ね除ける。首元に彼のやさしさを巻き付けたままで。
だって、裏切ったのは、あなたから!
「聞くけれども今までどこにいたの。卒業式にも来なかったよね、わたしは待ってた、待ってたんだけど、ここで! わたしはちゃんと約束を守って、ここに来て、待っていて、なのに、きみは、裏切った!」
「……うん」
「わたしも悪かったって知ってる。君がわたしを傷付けたと自覚してることも知ってる、君のお父さんが死んだことも、君のお母さんが、君と自殺しようってしたことも知ってる! だからなに! きみは、わたしに、肝心な時、なにも言わなかったんだ!」
ごう! 波の砕ける音がした。
「わたしも傷付けるって知ってて、
右腕を振り上げる。握りしめた拳で譲の胸を殴りつけた。顔を見たくなかった。砂浜と海の狭間に吐き捨てる。
「どうして今更さぁ! どうして今更なの! ねえ、もう、わたしは、ちゃんと忘れていたのに……!」
「本屋で、カラの本を見つけた。僕だけは、ペンネームの意味がわかった」
「……、」
「もう忘れられてると思ったのに」
殴った。譲が小さくうめく。
「だって、あんな未練たっぷりな名前見せ付けられたら、もう一度どうにか連絡しなきゃって思うだろ。僕のことなんて忘れたと思ってたんだよ」
「……一日だって、忘れるものか」
譲のコートを握りしめる。唇が渇いて、血がにじむ。ちいちゃな子供みたいに、矛盾したことを喚き散らす。指が凍ったようで力が入らない。足の感覚が消えていく。寒い、
「譲なんて嫌い。嫌いなの!」
「うん」
「嫌いなわけないじゃない。嫌いだったら、忘れてるに決まってるでしょ! この、馬鹿!!」
潮風に晒された頬が痛かった。殴りつけた手で、譲のコートにすがりつく。
「……どこにいたの」
「じいちゃんち。山形の」
「なにしてたの」
「大学には行かせてもらえたよ。今は会社勤め」
「……なにしに来たの?」
「約束」
わたしの手を、譲が握りしめる。もうすっかり凍えてしまって、あらゆる関節からぱきぱき音がしそうなくらいだ。ああ、寒さなんて、いつから感じていなかっただろう。初めて譲が約束を破った日から? 腹が膨れたときから? 長らくわたしと世界の距離は遠く、ぼんやりとした感覚しかなかった。わたしが寒がりなんて、きっと譲以外は誰も知らない。
譲がわたしの背中を強く抱きしめる。耳元で、掠れた声が、迷子の子どもみたいに震えていた。
「約束、してたと思って」
「うん……」
「……今更で、ごめん」
膝の裏に濡れたスカートの裾が張り付いた。体を離した譲が顔をしかめて、わたしの肩にコートを羽織らせる。
「どこか行こう。寒いって顔してる」
「海ね、わたし、本当は嫌いなんだよ」
「うん」
いじける子供をいなす頷き方を、譲がする。そんな仕草、しなかったのに。五年間の空白が横たわっている。
赤く腫れた足を引きずって、砂浜を歩く。飛び飛びの言葉ばかり口から出てきて、文章を書いてご飯を食べている身で、恥ずべきことだった。
「海なんて嫌いだ。遠くて冷たくて寂しいじゃない」
「うん」
「でも、わたしの思い出って、海なの。わたしの本は、読んだ?」
「うん」
「海ばかり」
海ばかり。潮騒と、潮風と、海鳥。ひからびたヒトデ。靴の下で割れる貝殻。波にさらわれて、足の下で崩れていく砂。そういうものばかり。わたしは。
「海を、無意識に出してしまって、まるでわたしの原風景みたい。でも、わたし、海は嫌いなの」
「うん」
「寂しかった」
「うん」
ごめん、と譲がちいさく言った。
*
文芸部には先輩はいなくて、もう廃部寸前なのだという話しを聞いて、わたしはその部活に入ることを決めたのだ。大勢の人に囲まれるのは、もううんざりでだったので。
図書室の奥の書庫が、文芸部の部室だった。小さな窓しかないほこりっぽい部屋で、黒い瞳が、ドアを開いたわたしを見上げた。
*
防波堤に登る階段の一番上に座り込む。ざらざらしたコンクリートが、肌に突き刺さってうんと痛かった。ほんの少しだけ、めまいがする。
「タオルかハンカチ、持ってる」
「うん」
「貸して。触るぞ」
かばんからハンドタオルを出して渡す。ひざをついた譲が、わたしの右足のかかとを支えて、砂を落とす。
彼、の、嘘みたいな優しさだ、と遠くを見ながら思う。
「変わらないな、譲は」
「そう?」
「優しすぎて、冗談か嘘みたいだって、思う」
そう? と譲はもう一度言った。無自覚なのも変わらない。大きな手がわたしの足を撫でる。砂が風に飛んでいく。
*
狭い部室の中で、ほとんど口を開かずに二人で放課後を過ごしながら、警戒心の強いひとだ、と思った。恐らくそれはお互い様であったのだけど。
六月の、珍しい晴れの日に、海に行こうと言われた。
勝手に不可侵条約でも交わした気持ちでいたので、わたしは驚いた拍子に頷いてしまった。夏服の白いシャツの後ろについて、電車に乗って、いつも通りなにも話さないで、海を眺めた。
*
譲の形のいい頭に手を伸ばして、真っ黒の髪に触る。潮風のせいか、ぱさついている。譲、と名前を呼ぶ。
「どうしてあの日、わたしを海に誘ったの」
「あの日?」
「譲のお父さんが亡くなった日」
「ああ……」
ハンドタオルがわたしの右足をぎゅっと包んで、指のあいだまで丁寧に拭って。丸い頭が手の下でちいさく動いている。表情は見えない。
「懐かしいな」
「うん」
「……この人なら、なにも言わないと思って」
靴下をきちんとふくらはぎの真ん中まで上げて、つま先から靴に足を入れて。丁寧に世話されると、ちょっとだけむずがゆい気持ちになる。
「わたしの名前も知らなかったでしょ、あの頃は」
「うん」
「ちょっとだけ、変な人って思ったな」
「うん……」
「どうして誘ったの」
ずっと、聞かなかったことだった。誰よりも対話を重ねたのに、その距離感になった第一歩はあの日だったのに、お互いにあの日の話しはしなかった。高校一年生の六月を、彼は休み続けて、わたしはその頃にようやく司書の先生から、譲のお父さんが病気で亡くなったことを聞いていたけど、決してなにも言わなかった。
なにを言うべきなのか、なにも言わないほうがいいのか、ずっと分からなかった。
「……ひとりだと、たぶん、飛び込んでた」
主語がないよ、と混ぜっ返すか迷って、やめた。気持ちはわかるよと簡単にうなずくことも出来なかった。過去も今も、わたしはなにを言うべきなのかわからないままだった。ちいさくため息をつく。わかるよって言っても、あなたもわたしも、ひとりが長すぎたから。
ひとりだと、死にそうな気持ち、は。
妊婦のような腹をそっと撫でる。ひとりだと死んでしまいそうな気持ちは、ここに詰まっている。
*
海でなら、なんでも話せた。
*
靴下の中で、砂がじゃりじゃりしている。真水で流さないとどうにも出来ないだろう。両手をこすりながら、譲が立ち上がる。
「はい、終わり」
「どうもありがとう。いい旦那さんになれるね」
「そう?」
肩を揺らして譲が笑う。立ち上がるのに手を借りて、大きな腹を揺らして歩き出す。靴下も靴も履かせてもらうなんて、もう本当は、子供じゃないんだよとしか言いようがない。
子供の頃は終わったよ……。
「……今はどうなの」
「なにが?」
「譲は、ひとりでも、死なない?」
「……」
手を強く握られる。風が吹いた。潮の匂い。母なる海は、わたしを受け入れてくれるのだろうか。
からっぽの腹を持つわたしでも。
「……
「……、うん」
「なにその間」
「名前呼ばれるのは、あまりないの。いつも
空蝉と、カラと、ゆずるを混ぜた、過去に対する呪詛のペンネームの方が、ずっと身に染みている。
*
「なんか文芸部らしいことしよう」
「なに突然」
「先生から言われた」
「ああ……」
夏だったと思う。冷房のせいで肌寒くて、カーディガンを着ていた覚えがある。しわひとつない譲の開襟シャツが、真っ白に輝いていたことも。
「文芸部っぽいことだろ」
「うん」
「部誌でも作る? 梶原さん、なんかたまに書いてるでしょ」
「え、やだ。見てたの。変態」
「中は見てないから!」
ふたりで声を殺して笑った。蝉の鳴き声が聞こえた。ただ、たのしそうだ、という気持ちだけが先行してた。
「じゃーいいよ、やってやろうじゃん。ペンネーム考えよ。志摩くんもなにか考えて作ってよね」
「げ、マジで」
ルーズリーフに名前の候補を挙げて、その日の部活は終わった。譲のユズの親戚だからミカンにすると彼は言い、蝉の声が聞こえてたから、わたしは
「なんかペンネームだけ見ると男女逆に見えるかも」
「たしかに。みかんをミカって呼んだら完璧女だな」
「みかちゃーんって? いいじゃない、わたし今度からみかって呼ぼうかな」
「空蝉さん? 空蝉……」
一枚のルーズリーフをふたりで見てたせいで、目線をあげた先の譲の顔が、おののくほど近かった。譲は目元だけで笑う。
「じゃあ、そっちはカラだな」
*
「さみしいね、譲」
寂しがりなのだ。わたしたち、揃いも揃って。
知ってたはずなのに。お互い。
「ひとりがあんまり寂しくて、仕方がない。毎日が嵐の海みたいだった。寂しさが毎晩毎晩わたしの中で暴れまわって、小さな子供が、暴れているみたいだった。……そしたら、腹が、膨れた」
PCとタブレットのブラウザのブックマークには、いくつもの想像妊娠についてのページが登録されていて、本棚のひとつは精神疾患に関しての書籍で埋められていて、もはや手に負えない。向精神薬と睡眠薬。何枚も撮ったエコー写真。繰り返されるストレスチェック。先生との対話。カウンセリング。診断書。なにもかも無駄。
暴れまわる感情が。子どもだと思いました。わたしはおんななので子どもは腹にいるべきです。なぜなら海のように大きなからだをもっていない。自分のものじゃない。もうわたしは大人になって、約束にすがらないで、ひとりで生きていかなければならない。
生理が止まって腹が膨れた最初のころは、パニックと恐慌の連続で、とんでもなく気の狂ったようなことを言い続けていたように思う。何人もの精神科医と産婦人科医に診察を受け続け、いくつもの薬と検査を受け、結局、わたしの気の持ちようですよね、と吐き捨てた。今の主治医となった先生は、曖昧な口調で、そうかもしれませんね、と言った。
「約束、果たしてよ」
譲が背中に手を回した。冷たい頬と頬を合わせる。
「芳乃」
はなの、と譲に呼ばれたことはほとんどない。卒業式の前の日、やけに堅苦しい顔で呼ばれた時くらいだ。譲もユズもみかんもミカも、ふざけてごたまぜに呼んでたわたしとは違ったので。
鼻をすするのが聞こえた。泣いているの? 子どもみたい。あなたもわたしも。
「芳乃に話しがある」
「うん」
「ひとりが、寂しいから、一緒に来て」
寂しい、という言葉は、譲の作品によく出てくる言葉だった、と思い出す。海辺の街と冬とネイビーが、彼の好きなモチーフ。決まって、寂しさを抱えたまま、エンディングを迎える物語たち。
読むたびに、わたしは彼になにを言えるのだろうと思った。父親は亡くなった。彼の言葉の端々に、過干渉な母親に対する疲労感がにじんでいた。夕暮れの海で、帰りたくないな、と小さくつぶやくだけの譲に。
「来てくれよ。そんな寂しいならさぁ、僕と来いよ」
「うん……」
譲の肩越しに海を眺める。防波堤とテトラポットと、砂浜の向こう。寂しい色の、遠くて、冷たい。
暴れまわる感情を、夜毎に持て余しているのはわたしだけではなかったのだろう。卒業式の日から一切の反応がなくなった、譲の連絡先をすべて消した夜を思い出す。
ひとりでなにもかもこらえることができたら、大人になれると思っていた。
「それがいいよ、わたしたち。それがいい。お互いぜんぶ忘れて、ふたりでいようよ。……一緒にいてよ」
ずっとこんな簡単なこと言いたかったのに揃いも揃って馬鹿で、寂しがりなので。目をつむる。ようやくわたしたち、互いをよすがに海を渡っていける。
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