第7話

──大西氏の場合はどうだったのでしょうか? 経歴や最近のご活躍を見る限り、彼はむしろ万能タイプと言いますか、何でも率なくこなすように見受けられます。


「ええ、彼が東京へ進学したのは全く別の理由からです。あまりにも優秀なため、彼がいずれ変革の父となることは誰の目にも明らかでした。活躍の場がサヌキなのか他地域なのか、またどの分野なのかまでは分かりませんでしたが。ですから、彼には若いうちに外の世界の様子を見て、新しいことをどんどん吸収してほしいと思ったのです。この孤島にいると、世間が狭くなってしまいますからね。それでも別に日常生活に支障はありませんが、人の上に立つ者は、高い位置から広い視野で世界を見なければなりません。だからこそ彼には、一旦外の世界、それも日本中のあらゆる物が集まる東京へ出ることを勧めたのです」


──保護者の反応はどうだったのでしょうか。サヌキはどちらかというと内に留まる安定志向の方が多いとの噂も聞きますので、反対されたのでしょうか?


「仰る通りです。外の世界は魅惑的で恐ろしいところという強いイメージを持たれている方々でして、東京の大学への進学を認めていただくのに大変な道のりがありました。むしろそのような考えの方を家族に持っているからこそ、大西君にはぜひとも外の世界を知ってほしいという気持ちがありました。……ああ、そうだ。ちょっとこれをお見せしましょう」


 黒川氏は鞄から通信機器を取り出した。東京の我々が使っているものと同様のものである。起動すると、一枚の画像を筆者に見せた。毛筆で記された格言のようなものが、額縁に収まっている。


──仏に逢うては仏を殺し、とありますね。これも貴校のスローガンでしょうか?


「そのようなものです。先ほどは『朝顔のようであれ』についてお話しましたね。あれとは別に、あくまで校内でのみ使用する標語のようなものです。私が特に気に入っている言葉です」


──不勉強で恐縮ですが、この言葉の意味と、貴校でどのように用いているかをお聞かせいただけますか?


「まず、これは全体の一部に過ぎません。全文は……仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん、です。臨済録の有名な一節です。


 実に様々な解釈があるようですが、私どもの方では、悟りを開く過程では、これまでに築いてきた枠……人間関係や、土地や、文化や……それらあらゆるものを捨ててしまう行程が必要だ、という意味に解釈しています。

 この日本一狭い県──もう県ではありませんが──この地は確かに、過ごしやすい土地であることは間違いありません。水不足は起こりますが、それ以外は讃岐山脈に守られて大きな災害もなく、温暖な気候です。ですがその快適な環境に浸っていては、成長にも自ずと限界がやってきます。それは別に本人が遊んでいる訳ではありません。ただ、世の中がいかに多様なもので溢れているかや、今までが自分が見たり考えたりしてきたものはその極一部に過ぎないという事実について、外の世界を見ないがために気が付けないまま人生を終えるために生じるのです。これはとても大きな損失です。本人にとってのみならず、周りの人、将来世代にとっても大いなる損失です。

 一方で、ある程度以上の世代では、この地域から出たことがなく、ここは楽園だと考える人が一定数います。無論本人が楽園だと信じて動かないのは個人の自由ですが、そういった人が生徒の親族の中にいて、そのせいで彼らの将来が狭められることは何とも惜しい。高校卒業という、半ば大人になる節目を以て、これまでの十数年間で築いてきた人間関係を──それは人によっては『縛られてきた』人間関係かもしれませんが──強い意志を持って一度断ち切っても良いのではないかと思います。無論早いに越したことはないのですが……。若いうちに、この狭い世界を一度飛び出してほしいという願いを込めて、この言葉を校内に飾っているんです。勿論飾るだけでなく、進路相談や普段の授業など、折に触れてこの話はしています」


──そのようなお考えがあったのですね。サヌキ特区から外部への進学・就職はほとんどなくなってしまったとばかり思っていました。


「ま、サヌキですからね……特区になって以降、良くも悪くも、そういった人の流れはほぼなくなりました」

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