第33話 潜入

 研究所の離れでは、今夜もサモワールの湯気が漂っている。そのなかで、静かに身を整えるジーンに向かって、ユーリが尋ねる。


「どうしても行くのか、ジーン」

「はい、ユーリ」

「お前さん、腹の傷もまだ痛むだろう」

「でも、もうここに来てから五日が経ちました。これ以上、娘とカナデ……それに、妻の安否を確かめないわけにはいきません」

「そうか」


 そう言うと、ユーリは別室へと姿を消し、戻ってきたときには、武具を手にしていた。


「このナイフを持っていくが良い。あと念のため、銃も」


 ジーンはユーリに頭を下げ、黙って、ナイフと銃を受け取った。その重量が、ずっしりと、病み上がりの両手に沈む。


 ――まったくもって、使わないに、こしたことはないのだがな。


 だが、単独で、しかも手負いの身で敵地に乗り込むからには、そうも言っていられないのが現実だ。


「この離れは研究所の本部に地下道で繋がっているから、そこを通っていけば比較的容易に、研究所内に入れるだろう。だが、その先は運だ、ジーン」


 ユーリとジーンは外に出ると、夜影に紛れるようにそっと移動を開始した。暗い草いきれから響く虫の音が騒がしい。

 ほどなくして、地下通路の入り口であるコンクリートの蓋が地表に穿たれているのが、ジーンの目に入った。


 すかさずユーリが、蓋の傍に設置されたロック装置に、管理人として知りうる限りのパス・コードを打ち込んでいく。すると、ほどなく、なにかの記号が符合したらしく、蓋が音もなく開き、地表に黒い空洞が現われた。

 ジーンは腹の痛みに歯を食いしばりつつも、その身を素早く空洞の奥に滑り込ませた。


「俺が協力できるのはここまでだ」

「ありがとうございます、ユーリ」

「……本当はな、ジーン。俺も、お前が憎い」


 暗闇の中でのユーリの突然の告白に、ジーンは虚を突かれて、身を固まらせた。

 そんなジーンの様子を見下ろしながら、ユーリは淡々と語る。


「俺だって、俺自身と、かわいいオルガを被験体にされた身だ。悔しくて堪らない。たとえ、お前がどんな立場であるからと言ったって、の人間であるお前を憎く感じないわけはない」


 一瞬のうちに乾ききった喉から、言葉を絞り出すこともできず、ジーンは、ユーリを見上げながらかろうじて、ちいさく呟いた。


「私は……」

「ジーン、謝るな。謝って済む問題ではないんだ。安易な謝罪は、俺にはいらん」


 その表情こそ分からぬが、ユーリの口調は重く沈んだものだった。ジーンは言葉を継げずに、空洞のなかでただ身を固くする。


「だが、いいんだ。お前がしたことはどうあれ、あのカナデとやらとお前の妻、そして娘にはなんの罪もない。それを助けるというのなら、ジーン、お前に力を貸すことを、俺は、厭わない」


 そう言ってユーリは夜空を見上げた。

 そこには、夏の星座が眩しく煌めいている。そして、細く欠けた月も浮かんでいる。


「だからジーン、必ず、彼女らを助けろ。お前の大切な人間を必ず、助けろ。それが、お前の責任であり、いま、できうる、最大限の俺への償いでもある」

「……ユーリ」

「じゃあな、ジーン……幸運を祈る」


 そう言うや、ユーリはジーンの頭上となった蓋を慎重に閉じた。


 すると、通路に自動式のランプが点灯する。ジーンはゆっくり、高さと幅が二メートルほどの細い通路にその身を降り立たたせる。そして、彼は銃を構えながら、静かにそのなかを歩き出した。

 やがて、百五十メートルほど歩いただろうか。不意に通路が途切れ、白い灯に点された階段がジーンの目に入った。どうやらそこが、研究所の入口らしい。


 ジーンは息を整えた。

 そして、階段を踏みしめるように昇り始める。腹部の傷がじんじんと痛むが、彼は息を乱さぬよう、慎重に、ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。


 そうするうちに、やがて階段も終わりを迎える。こうして遂にジーンは研究所の内部に到達した。深夜ということで、研究所の廊下に人影はない。


 そう思いきや、ジーンの耳に、コツコツ、と響く足音が研究所の奥の方向から聞こえてくる。彼は咄嗟に階段の影に身を隠して、足音の方向に視線を投げる。見れば、ひとりの研究所職員らしき男が、ひとり歩いてくる。


 ジーンに迷う暇はなかった。


 彼は人影が自分の前を横切るタイミングを狙って、物陰から身を躍らせ、渾身の力をもって、その男の頭部を銃身にて殴りつけた。


「うぉっ!」

「いいか、静かにしろ。カナデ・ハーンはどこにいる? 答えないと、殺す」

「カナデ・ハーン? ケセネス准佐が、先日連れてきた被験体のことか? それなら、三階のEエリアに……」


 ジーンはそこまで聞くと、男の頭を再び銃身で強打した。堪らず男は昏倒して、どさり、と廊下に転がる。

 それを見届けると、この状況下でも敵を殺すことの出来ない己の性分に、この逃避行が始まってから何度目かの溜息をつきつつ、彼は教えられたエリアを探しながら、再び慎重に歩き出した。


 一刻も早く目的地に辿り着かねばという、焦りが胸に広がる。心臓の動悸が激しくなる。同時に、腹部の傷も熱く疼く。それでも、ジーンは逸る心をなんとか押しとどめながら、息を殺し、夜の研究所内を進む。幸い、それからは研究員と遭遇することもなく、十数分後、ジーンは教えられたエリアの中に侵入していた。

 彼は、ドアにはめこまれた窓から、ゆっくり、一室一室のなかに目を配る。


 すると、一番奥の部屋に、見覚えのある人影が見えた。ドアにロックはかかっていない。ジーンは、扉を勢いよく押し開けた。


「……ジーン」


 そこには、カナデがベッドに横たわっており、その横にはアイリーンが子供用の椅子で眠っている。

 そして、部屋にはもう一つベッドがあった。そこに目を向ければ、虚ろな目をしたレベッカが、寝かされている。カナデとレベッカは、それぞれ点滴に繋がれ、身体はベッドに拘束されていた。


 ジーンは、すかさず、ナイフをポケットから取り出し、まずカナデの拘束具の紐を裁ちきる。そして、慎重に点滴の管を外す。やがて、ようやく動けるようになったカナデが、ちいさく呻きつつベッドから、ふらふらと起き上がる。

 だが、その姿を見て、ジーンは息を呑んだ。


「カナデ、髪が半分!」


 カナデの長く美しい金髪は、下半分のみ白く透き通っていた。ジーンはカナデのその姿に、時既に遅く、クオの手によって、彼女が何らかの再実験を成された後と知り、呆然とする。


 だが、そうとばかりはしていられない。彼は続いて、横のベッドに寝かされているレベッカに声を掛けた。


「レベッカ」


 懐かしいあの菫色の瞳が、ジーンの顔を見やる。その濁った瞳は相も変わらず、ジーンの姿をぼんやりと映すばかりで、彼女からはなんの反応もない。しかしながらジーンは、心中に満ちる、レベッカに再び襲われるかもしれぬ恐怖を押しとどめつつ、彼女の拘束具の紐をもナイフで断ち切った。


「レベッカ、俺だよ」


 だが、レベッカはまるでマネキンのように、身じろぎもしない。ジーンの表情に焦りの色が浮かぶ。


「なあ、お願いだ、レベッカ! 立ってくれ、そして、いっしょに行こう!」


 自分の必死の問いかけに、なんの挙動をも見せぬ彼女を前にして、ジーンは迷った。自分たちに残された時間は、僅かだ。ジーンは震える拳を握りしめる。

 もし、ここにレベッカを置いていったら、自分は、彼女を二度殺したことになってしまう。そう思えばこそである。そして、たとえここを脱出できたとしても、自分はそれを未来永劫、とてつもなく悔やむだろうとも。


 だからこそ、彼は懊悩した。


 しかし、結局のところ、彼は決断せざるを得なかった。ジーンは、心に湧き上がる数多の感情を堪えながら、レベッカにゆっくりと、背を向けた。

 そして、足元のおぼつかないカナデに手を貸しながら、もう一つの手でアイリーンを抱き上げると、ジーンは脱出を試みるべく、部屋を出た。


 だが、仄暗い廊下に出るや否や、その前に立ち塞がりながら、彼に侮蔑の声を投げつける者がいる。


「おいおい、優男にしちゃあ、冷たくないかあ?」

「クオ!」

「自分の娘と被験体は助けても、愛する妻は置いていくつもりか? うん?」

「……! カナデ、そして、レベッカに、なにをした?」


 レベッカへの想いに疼く胸中を、鋭く突かれたジーンは、思わず怒りに震えた声をクオに向かって吐き出す。すると、クオは長髪を揺らし、仄暗い笑みを浮かべたままの顔を、ぐっ、とジーンに近づけた。


「なにも、実験の続きをしただけだ。今回は、ふたりに真逆の薬を打ってみて、比較する実験だ」

「真逆?」

「そうだ、今度はカナデにはリ・ターンを、レベッカにはターンを打ってみた」

「なんだと?」

 

 ジーンは息を詰まらせた。

 同時に、彼の心中に憤怒の風が吹きすさぶ。その嵐に突き動かされるように、ジーンは、己の所業について、さも楽しげに語らずにはいられない様子のクオを詰問した。


「なぜだ、どうして、そんなことをしたんだ?」

「おおっと、まだ、俺の実験は終わったわけじゃないぜ、優男ちゃん。これがうまく行ったら、また真逆の薬を打つ。それを繰り返すことで、より強靱な身体の被験体ができるのではという目算だ」


 そのクオの、心底愉快だ、と言わんばかりの声音に、ジーンは思わず我を忘れた。堪えきれぬ激情を爆発させた、ジーンの怒鳴り声が深夜の廊下に響きわたった。


「命を弄ぶのもいい加減にしろ!」

「命?」

「そうだ、クオ、お前も人間だろう! なぜ、こんな非道なことができる!」


 途端に、クオの目に冷たい火が点った。そして、次の瞬間、クオはジーンの傷ついた腹部を狙って、鋭く蹴りを入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る