第9話 俺は一体何を
――透明な液体の入ったアンプルをドロシーから手渡されたのは、覚えている。
全身麻酔の処置をした彼女の、筋張ったか細い腕を、手に取ったのも。
アンプルから注射器に液体を注入し、慎重に、だがひと思いに、その腕に注射針を突き立てたことも。
そのあと、透明な液体が針を通じて、彼女の腕に吸い込まれて行く光景から目をそらせたくとも、それは許されぬことだと、必死の思いで凝視し続けたことも。
そして、彼女の腕が弛緩し、ぐったり、と垂れ下がり、自分の腕に触れたときの感触も。
全部、覚えている。
否、忘れようがない。忘れようがない。忘れようがない。
忘れようがない!
忘れられるわけがない――。
「よお、目が覚めたか、優男ちゃん。苦い初体験だったみたいだなぁ」
ジーンが重い瞼を開くと、肩までの長髪を揺らして笑うクオの顔が目に入った。
その声はどこまでも嘲笑に近い。そこでようやく、ジーンは自分が実験後、気分を悪くして床にへたり込み、同席していたドロシーとクオによってスタッフルームのソファーに運ばれたことを思い出す。
「こんなザマ見たら、可愛いお嬢ちゃんが泣くぜえ。なあ、子煩悩のジーンさんよ」
そう言いながらクオは紙コップをジーンに差し出してくる。なかには冷たい水が入っていた。半身を起こしたジーンは一気に水を飲み干すと、大きく息を吐き、クオに詫びた。
「面目ない。みっともないところをお見せしました」
「いやあ、初めてにしては上出来だったんじゃねえの? あの躊躇いを感じさせない、被験体への薬剤注入はなかなか、見事だったぜ」
クオの言葉にジーンは思わず、床に目を伏せる。その表情を見て、クオはなおも彼を皮肉る。
「おっと、また具合が悪くなっちゃ、俺らにまた手間がかかるってもんだ」
「そうよ、いい加減、しゃっきりなさいな、ジーン・カナハラ」
己の名を呼ばれ、ジーンは顔を上げた。
見ると、スタッフルームのドアが開いており、そこにはドロシーが赤い髪を揺らしながら直立している。
「おう、ドロシー、戻ったか。どうだ、被験体の様子は」
だが、ドロシーはそのクオの声を半ば無視して部屋を突っ切り、ソファーに座ったままのジーンに歩を進める。途端にクオが眉を顰める。
しかし、ドロシーはクオに構う様子は見せず、ジーンの足元に辿り着くと、彼の頭上に厳しい声を降らした。
「このくらいのことで、倒れないで欲しいわね。先が思いやられるわ」
「申し訳ありませんでした、ドロシー。以後、気をつけます」
「そうあって欲しいわね。ジーン。だけど、あなたの被験体は、いまのところ生存しているわ」
「……え?」
ジーンはダークグレーの髪を揺らしながら顔を上げ、ドロシーの顔を思わず二度見した。
「本当よ。こんなこと嘘付いたって、なんの益もありゃしない」
ドロシーが呆れたように、赤毛をかき上げながら言う。
カナデは死んだ、いや、己が殺した、とばかり思っていたジーンは、予想外の言葉にどんな表情をすれば分からず、宙に視線を泳がした。
かわりに、即座にその彼女の言に反応したのは、クオだった。
「じゃあ、ターンの実験は、成功したってことなのか?」
「それは、まだ、分からない。いまのところ被験体の体内、外見共に変化はないわ」
「なんだよ、ぬか喜びか」
クオがふて腐れたように言葉を放り、それに対してドロシーがまた語を継ぐ。
「とにかく、被験体から目を離さないように、よく観察しないと。例え被験体が最終的に死亡したとしても、身体になにかしらの変調はあるかもしれない」
「そういうこったな」
クオが頷く。自分と目を合わせようとしないドロシーの顔を、ぐっ、とさりげなく、睨みつけながら。
その時、ひとり会話から置いてきぼりになっていたジーンが、おずおずと、ふたりのやりとりを遮るように、声を上げた。
「あの……もう、私にも教えてもらっても、良いでしょうか」
途端に、ふたつの視線がジーンの顔に絡みつく。
だが、ジーンはそれに気圧されそうになりつつも、ふたりに問うた。ジーンにとってその質問は、あの実験の責任者として、そしてカナデに直に手を下した身としては、どうしても聞いておかねばいけないことであった。
たとえ、その返答に、耳を塞ぎたくなるとしても、だ。
「あの試薬には、なんの効能があるのですか? いったい、我々は、なにの実験を?」
暫しの間、沈黙の帳がスタッフルームに下りた。
その最中、クオは薄い笑いを浮かべてジーン、そしてドロシーの顔と、交互に視線を投げる。まるでこの状況下を、なにかのショウのハイライトの如く、愉しむかのように。
数十秒後、口を開いたのは、ドロシーだった。
「……“ターン”よ」
「ターン?」
「あれは、加齢によって衰えた細胞を、再活性化させる効能を持つ薬。簡潔に言うならば、私たちが行っているのは、若返りの実験よ」
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