第8話 その間際
その日の夜、ジーンはあの暴動の夜以来、保育所に預けっぱなしでいる、アイリーンのもとへ向かった。
ジーンは仕事場から保育所へ向かう道すがら、頭の中から明日に迫ったカナデ・ハーンへの人体実験のことを忘れようと、何度も頭を振ったり、深呼吸を試みたりと虚しい抵抗を試みた。
だが、そう、それは文字通り虚しく、無駄な抵抗に等しかった。自分がこれから直面しなければいけないことの恐ろしさに、なにかの塊が喉につかえたような吐き気が治まらない。
そして、知らず知らずのうちに彼は自問自答した。
――自分は、人間なのだろうか。ことに、人の親を名乗れるような。
しかしながら、彼の果てない問答は、保育所のエリアに一歩足を踏み入れた途端、宙に四散せざるを得なかった。
なぜなら室内から、ジーンの姿を認めたアイリーンが転がり出てきて、泣き叫びながら駆けてきたからだ。
「おとーさん、おとーさん!」
「アイリーン!」
「会いたかったよお! うわああーん!」
半べそ状態のアイリーンに、ジーンも駆け寄る。そして、アイリーンのちいさな身体を抱き上げる。その途端、幼い命の熱が、ジーンの全身に染み渡る。
「おとーさん、どーして、おうちに帰ってきてくれないの? アイちゃんのこと、きらいになったの?」
「そんなはずないじゃないか、アイリーン。大事なお仕事があるから、帰れなかっただけだよ」
「ほんとう?」
「本当だとも、アイリーン。お父さんはアイリーンが大好きだよ」
ジーンはぐずるアイリーンに、その場で思いつく限りの愛情を込めた言葉を投げた。同時にそのちいさな肩を、ぽんぽん、とリズミカルに叩き、少しでも彼女が安心できるように心を尽くす。
すると、ようやくアイリーンは泣き止んで、一転して、にこり、と眩しい笑顔で顔をくしゃくしゃにさせた。
「おとーさん、アイちゃんも、おとーさんだいすき!」
ひっし、とその声に笑顔に応えるように、ジーンはアイリーンを抱きしめる手に力を入れる。そして、ふと、己の心をさっきまで覆っていた暗雲が、綺麗に消え去っているのに気が付く。
いや、消え去ったわけではない。
暗雲は変わらずそこにある。
だが、ジーンの心のなかでその暗雲は、つかみどころのない透明な靄のように、色を変えていた。そして、その靄を突き抜けるように、先ほどとは打って変わった苛烈な心の声が、ジーンの頭に響き渡る。
――この子を守るためには、俺は、何にだって手を染めてやる!
その声を自覚したとき、彼は、自分が遂に悪魔に魂を売り渡したことを、知った。だが、もはや躊躇いはない。それを示すように、ジーンは
「おとーさん、いたい! いたいよー、アイちゃん、つぶれちゃうー!」
「あはは、ごめんな」
ジーンは笑いながら腕に込めた力を緩め、アイリーンを床の上に下ろした。そしてアイリーンの腕を取ると、やさしく声を掛ける。
「さあ、おうちに帰ろう。アイリーン」
その夜、ジーンは久しぶりに自分の宿舎で、アイリーンとゆっくりと夕餉のテーブルを囲んだ。久々に過ごす父との水入らずの時間に興奮したのか、アイリーンは食事を摂るのもそこそこに、ジーンに向かって喋り続けた。
いかに、この一週間、自分が「おりこう」に「おとーさん」の迎えを待っていたか、ということ。
その時間の中で、「せんせいたち」から「おとーさん」は「おくにのために」「とってもりっぱなおしごと」をしているかを何度も聞かされた、ということ。
そして、そのことを「おともだち」に「たくさんじまんした」こと。
そんな話をアイリーンは楽しげに、無邪気に、ジーンに語り続けた。
ジーンはその言葉ひとつひとつに、ひとことも聞き漏らすまいと真摯に向き合い、相槌を打った。そしてもちろん、アイリーンを褒めることも忘れなかった。彼は飽きることなく、アイリーンのくせ毛の頭を撫で続ける。
やがて、はしゃぎ疲れたアイリーンがテーブルに腰掛けたまま寝入ってしまうと、手早く寝床を用意し、彼女をそっと横たえさせた。そしてジーンとアイリーンは、寄り添って眠りについた。
ふたりは、夢を見ることも無い、どこまでも深い睡眠に身を委ね、その夜を共に越した。
翌朝、アイリーンを保育所に再び預けた後、ジーンは、勤務開始時刻よりだいぶん早く、職場に向かった。
診療所へと向かう彼の足どりは、ジーン自身も不思議に感じるほどしっかりとした、迷いのないものだった。職場に到着すると、彼は治療室のドアを開け、なかに入る。その中心のベッドには、彼がこの一週間、容態を見守り、治療に尽力し続けた患者、カナデ・ハーンが様々な器具に繋がれて眠っている。
あらゆるモニターを通してみる彼女の容態は安定していて、ジーンは自分の仕事に間違いがなかったことに満足の吐息を漏らした。
ジーンはそれからゆっくりと、ベッドの傍らに置かれていた椅子に腰を下ろして、改めて、眠リ続ける女性の顔に見入った。
彼女の名前は、カナデ・ハーン。
性別は、女性。
年齢は、五十一歳。
シベリア中央州出身の戦争難民。
ジーンは彼女のデータを改めて頭の中で反芻する。
運び込まれたときは血糊に汚れていた白く長い髪は、いまは綺麗に洗われて、艶やかに整えられている。その顔には年齢相応の深い皺が刻まれているが、表情は穏やかで気品に溢れており、こうしてベッドに横たわっていても、上品な老婦人、という言葉がぴったりの外見だ。
ジーンはしばらくの間、白いライトのひかりが照らす部屋のなかで、ただ、その顔を眺めていた。何を考えるわけでもなく。そして、もうすぐドロシーやクオが出勤してくる頃合いだと、その場を静かにと去ろうとしたときのことだ。
それまで固く閉じられていた、カナデの瞼が、ゆっくりと開いた。淡い琥珀色の瞳が姿を現す。そしてその瞳孔に焦点が合う。やがて、カナデの視線が、ジーンを捉える。
そして彼に向かって、声にならぬ声を出そうと、唇を必死に動かそうと試みる。
「こ、こは……どこ?」
突然のことに、椅子から腰を浮かしたまま 、動くこともままならぬジーンの耳に、カナデの掠れた声が届いた。
「あな、たは……どな、た?」
カナデの必死の問いかけに、ジーンはなにか答えねば、答えねば、と心を焦らせる。だが、喉がからからに渇いて、言葉が出てこない。
だが、なおも、カナデは話すことを止めようとしない。
「あなたが、わたしを……たすけて、くださった、の?」
その問いにもジーンは身を震わせながら、無言を貫いた。だが、カナデには、なにか分かったようだった。
しばらくの間を置いて、カナデはジーンに向かって、ゆっくりとまた唇を動かす。
微かに微笑んで。
「あり、がとう……ござい、ます……」
その言葉を耳にしたときが、ジーンの精神の限界だった。彼は、カナデから目を背けると、白衣を翻し、足音も荒く治療室から走り出た。
それでも、彼女の声と微笑は、ジーンの心の奥に強く深く、突き刺さることを止めなかった。
時計の針が、十一時を、回っても。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます