第7話 被験体
――遂にこのときが、来たか。
あの暴動の夜から一週間が経過していた。ジーンの目の前には、ドロシーが無表情で屹立している。
彼女は今し方、ジーンに初の人体実験への参加を命じたところであった。彼女の口調は淡々としていて、それはなにか、感情を麻痺させたような口ぶりでもあった。
ジーンの胸には、様々な感情が去来する。だが、彼は、それらを必死の思いで押し殺し、短く了承の意を答えるに留めた。
「了解です。で、実験内容は?」
「ある薬を試してみたいの。その薬の詳細は後で教えるわ」
「はい。それで、被験体はこれから選ぶのですか?」
「わざわざ、選ぶことは、ないわ。被験体はあなたの患者よ」
「……え?」
ジーンはドロシーの思わぬ言葉に、凍らせたはずの心が、ぐらり、と揺らぐのを感じた。自分が今、担当している患者といえば、思い当たるのはひとりしかいない。ジーンの顔色が変わった。それを見てドロシーが昏い笑いを顔に浮かべる。
「そうよ、カナデ・ハーン。彼女が今回の実験の被験体よ」
ジーンは絶句した。
あの暴動の夜、虫の息で運びこまれて以来、ジーンは担当医師として、彼女に必死の治療を続けていた。
ジーンの手であらゆる蘇生術を模索し、手術で腹部に穿たれた穴から弾丸を取り出し、縫合し、それからも昼夜に渡ってその容態を見守り続けている。その甲斐あってまだ意識さえ戻らないものの、峠は越したとジーンは彼女の回復に確かな手ごたえを感じていたところだ。
その彼女が、よりによって被験体だとは。
ドロシーの宣告は、医師として、必死にその命を救おうと、足掻いていたジーンの心を打ち砕くに十二分であった。ジーンは足元の地面が、がらがら、と崩れていく感覚に襲われ、思わず、ふらり、とよろめいた。
「どうしたの、怖じ気付いたの? ジーン。顔色が悪いわよ」
ドロシーはそんなジーンを見やって、皮肉めいた言葉を放る。その時、ジーンの心の中でなにかが、爆ぜた。結局のところ、彼はドロシーに向かって煮えたぎる感情を吐き出すことを止められなかったのだ。
「あんまりです! 自分はこの一週間、彼女の命を救おうと尽力してきました! だというのに!」
「それがどうしたというの」
ジーンの絶叫に対し、ドロシーの言葉はあまりにも静かで、淡泊だ。そしてそのぶん、容赦ない。
「ここに来たからには、こういうこともあると想像しておくべきだったでしょう、ジーン」
「ですが!」
「それともなにか? あなたはここに、それすらも覚悟せずに来たというの? そうとは、所長から聞いていないけど?」
「それは……」
ジーンは言葉を詰まらせた。
――ああ、そうだ、たしかに自分はなにもかも覚悟して、この月の裏側にやって来たのだった。だが、いざとなると、こんなに、動揺するものとは。
ジーンは自分の甘さに、今更ながら、羞恥心を覚えざるをえなかった。床に視線を落とし黙りこくったジーンを見て、ドロシーは覚悟がついたものと判断したのか、実験についてさらに語を継いだ。
「この実験の責任者はジーン、あなたよ。もちろん、私やクオもできる限りサポートはするけれど、あくまで実験の責任を負うのは、あなた。心しなさい。実験実行日時は、明日の十一時。それまでに被験体を実験に適した状態にしておくこと」
「明日、ですか……」
「あと、ついでに付け加えとくと、今後の実験で使う薬は、私やクオがそりゃあ苦労して、幾多の実験を乗越えて作りだしたものだから、結果はともかく投与に失敗したら、ただでは済まないものと思いなさい」
それだけ言うと、ドロシーは部屋を出ていった。項垂れて、床を見つめたままのジーンをひとり残して。
ドロシーが部屋を出ると、彼女に声を掛けてきた者がいた。
「よお。ドロシー。あの優男は、すんなり現実を受け入れたかい」
「……廊下で待ち伏せとは、趣味が悪いわね。クオ」
そう言いながらも、ドロシーはクオに構わず、研究所の廊下を足早に歩き去って行く。それをクオが追う。
「そう言うなよ。俺だって、あの優男ちゃんの初めての体験のサポートスタッフとして名を連ねている以上、様子を窺わずにはいられないのさ」
「クオ、声が大きい」
すると、クオはドロシーの前に、その長身を生かして大股で回り込み、彼女の進路を塞ぐ。そして、ドロシーの顔の高さまでかがみ込むとドロシーの顎に手を掛けた。クオの荒い息が彼女の頬を撫でる。
「なにするの、クオ。やめなさい」
「なんで、つれないんだよ。ドロシー、俺はこんなに君のことが好きなのに」
そう言いながら、クオは指先に力を込めると、ドロシーの顎を、くっ、と自分の顔に引き寄せ、その唇を奪う。そして彼女の口内に舌を深く差し込み、弄った。
「くっ……」
「ドロシー……好きだよ」
「やめて!」
十数秒後、ドロシーは渾身の力で、クオを突き飛ばした。そして次の瞬間、勢いよく床を蹴り、クオの傍らをすり抜けるとそのまま廊下を駆けて逃げるように去って行く。
「どうして、俺の気持ちに応えてくれないんだよ」
次第にちいさくなるドロシーの後ろ姿を睨みながらの、クオの呟きのその声量は、微かなものであった。
しかし、その声音には、当て所のない呪詛が滲み出ていた。
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