第10話 痛恨の夜、のち

 ジーンは、その夜、アイリーンを寝かしつけながら、重苦しいまでに長かった一日に思いを馳せた。


「ターン……若返り、か……」


 脳内に蘇るのは、その日、幾度となく耳の奥で反芻された、ターンについて説明するドロシーの声だ。


「ターンは、いわゆる不老不死のための薬では、ないの」


 ジーンに対し、ドロシーはまず、ターンについての長い解説を、そのような言葉で開始した。


「不老不死といえば、人類がその長い歴史において、常に欲してきた強大な願望のひとつだけどね。エジプトのファラオたちや秦の始皇帝……自らの肉体の永劫を追い求めた者は、枚挙に暇がない。でも、この薬にはそこまでの効力もないし、私たちもそんな目的で、実験を続けてきたわけではないわ」


 やがて、ジーンの意識に、アイリーンのすやすやという心地よい寝息が響く。

 だが、ドロシーの語りはまだ止むことなく、脳内を占拠し続けている。


「ジーン。あなたも知っての通り、今、世界は、各地で紛争状態が続き、多数の傷病人が地球上に溢れている。そして彼らの多くは難民として、比較的平穏な、私たちのユーラシア革命軍政府の支配地域に流入してきているのが、現状よね。この収容所を見れば分かるように」


 ジーンは、寝返りを打ちながら、仄暗い宿舎の天井に視線を投げる。


「私たちがターンの研究を始めたきっかけは、この国内に次々流入してくる傷病人を治療するにあたって、その疾患の種類にかかわらず、身体機能の根本に作用し、より短時間での治癒を可能とする薬の開発よ。だけど、その研究過程で、まったく意外な効能を持つ試薬が生まれたの」


 ドロシーのその解説を思い出しながらも、ジーンの意識は、疲労でぼんやりと白く靄がかかったように、呆けている。


「その試薬は、単に投与された人間の細胞を再活性化させるのみならず、加齢によって老化した全身の細胞を若返らす効能を有していた。つまり、この薬を投与された者は、大幅な体内年齢の逆行、という恩恵を享受できるの」


 しかしながら、こんなに疲れているというのに、不思議と眠気は訪れない。

 それだけまだ、気が昂ぶっているのだろうな、とジーンは意識の向こう側で他人事のように考えた。


「でもね、それは、まだマウスでしか実験は成功していなかった。それに、もともと寿命の短いマウスでは顕著な若返り効果は、はっきりと認められなくてね。だから、私たちは遅かれ早かれ、実験に適した被験体を見つけ出し、人体でその効能を確認する必要に迫られていたのよ」


 昂ぶっている気を静めるように、ジーンはまたも暗闇のなかで、寝返りを打つ。だが、脳裏に響くドロシーの声に、意識はますます煌々とするばかりだ。


「で、そこに、あなたの患者、カナデ・ハーンが現われた。それで、これ以上、実験に適切な被験体はないと、即座に所長命令で実験が遂行された、というわけ」



「……あんまりだ」


 ジーンはタオルケットを引き寄せながら、アイリーンを起こさぬほどの微かな声で呟いた。


 ――だが、それをやったのは、他でもない、俺なんだ。


 ジーンは目を固く瞑る。


 ――せめて、カナデが実験の直前に、意識を回復しなければ、俺の罪悪感も、薄らいだだろうか。……いや。


 今も耳に残る、カナデの掠れた声。

 同時に目に浮かぶ、淡い琥珀色の瞳を細めながらの、穏やかな微笑み。

 そして、他でもない自分に投げかけた言葉。


 それは「ありがとう」だった……。


 それを思い出し、ジーンはタオルケットの上を転がって、耳を塞いだ。


 ――あのとき、俺は、やめてくれ! と、叫びたかった。頼む! 俺に、そんな言葉を掛けないでくれ! 俺は、そんな言葉にふさわしい人間では、ないんだ! そうだ、そう言いたかったんだ。


 声の限りに。


 ――なぜなら、これから自分が殺してしまうかも知れぬ、被験体として扱う人間に、よりによって礼を言われるなど――。


「そんな、残酷で、皮肉なことって、あるかよ……」


 ジーンは耐えきれず、嗚咽を漏らした。そして、ちいさな呻き声を絞り出す。


「しかも、……」


 ジーンの意識に、さらなる過去の記憶が、鮮やかに蘇る。それをも思い出してしまえば、頬を伝う生ぬるい涙を、もう止めることができなくなる。

 制御の効かぬ負の感情の海に、ジーンは溺れた。その深い海溝に、ずぶずぶと沈みゆく己の意識を感じる。しかし、そのなかから浮上しようと、もがくことも、あがくことも、彼には出来なかった。


 ただただ、喉が詰まり、息が苦しい。苦しくてたまらない。


 こぼれ落ちた涙でタオルケットがじんわり湿る。それを肌が感じとっても、彼は、朝が訪れるまで、その涙を枯らすことができなかった。



 翌朝、ジーンは、俯き加減のまま、スタッフルームのドアを開けた。夜通し涙を流し続け、腫れ上がった目を隠すように気を遣ってのことだった。


 しかし、既に出勤していたドロシー、そしてクオの表情は色めき立っていて、ジーンの顔など、注視するに値しないといった様子である。ジーンはふたりへの挨拶もそこそこに、顔を隠す事も忘れ、声を掛けた。


「なにか、あったんですか?」

「ジーン、あなたの被験体が、ターンをしたのよ!」

「優男さんよ、初の実験にして、大手柄だな」


 いつも冷静沈着であるふたりの声は、興奮冷めやらぬといった様相で、ジーンはやっと、ことの重大さに気が付く。


 ターンを、した……? 

 カナデ・ハーンが?


「いらっしゃい、ジーン!」


 昂ぶる心にたまりかねたように、ドロシーが短い赤毛を飛び跳ねさせて、足音も軽やかに部屋を出て行く。クオがその後に続き、ジーンも慌ててその後を追う。


 ほどなくして、三人はカナデが収容されている部屋の前に辿り着いた。ドロシーとクオがドアのロックを開け放ち、室内に踏み込む。続けて部屋に身を滑り込ませたジーンの視界にも、ベッドに横たわったカナデの姿が目に入る。


 彼は目を疑った。


「……えっ」


 そこに眠っていたのは、もはや上品な老婦人、といった様相のカナデではなかった。


 白かったはずの髪は眩いばかりの金髪にとってかわられ、そして顔と腕の皺は綺麗に消え去り、張りのある頬は健康的なピンク色に染まっている。


 それはどこからどう見ても、十代後半の、うら若き女性の肢体であった。

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