少女と夏

惟風

少女

 顔を上げて僕の姿を認めると、立ち並ぶ木々の陰にいた彼女は、明らかに嬉しそうな表情をした。まるで花が開くように。そして、ゆっくりと姿勢良く立ち上がる。僕はぎくりとして立ち止まった。見つかってしまったという焦りは、彼女に伝わっただろうか。

 傾き始めた午後の日差しが、生いしげる葉の隙間からほんのりと差し込み、彼女を優しく照らしている。どちらにしろ、逃げるには遅すぎた。僕は彼女に釘付けになってしまった。

 白いワンピースから覗く首筋が、じっとりと汗ばんでいるのが見える。サンダルを履いた華奢きゃしゃな足で、彼女は僕に向かって歩き出した。長く綺麗にまとめられたポニーテールの先が、風にそよりと揺れる。たっぷりとした陽光が、からすの濡れ場色を際立たせている。近づいてくるその間も、彼女は慈愛じあいに満ちたおもちを崩さない。

 昨日で十四になったばかりの、大人とも子供とも言えない未成熟な魂がそこにあった。

 青の濃い空には入道雲が遠く静かに構え、耳をつんざくような夏の虫の鳴き声がそこかしこから降り注いでいる。ふと、風が止んだ。そのせいで、より一層、音が大きく聴こえる。


 嗚呼ああ

 少女というのは

 どうしてこんなにも

 無垢な残酷さをはらんで尚

 可憐かれんに微笑むことができるのか

 それは彼女だけの特権であるのか

 思春期特有のいびつさであるのか


 さも潔白で、誠実で、やましいところなど何ひとつ無いかのようにきりり堂々と僕を見つめ、形の良い唇をふわと開いて軽々しく僕の名を呼ぶ。澄んで心地良い、まさに鈴を転がすような声で。だが悲しいかな、その手はとっくに汚れきっているのだ。そしてそのことを、彼女自身よく知っている。気づかぬフリをするには、繰り返し過ぎた。もう、何度も。そう、幾度も。そして今日またこの時も。


 寄るな。

 こっちに、来るな。


 拒絶の言葉は口に出してみると情けないほどにか細く、震えているのが自分でもわかる。知らぬうちに、僕は後退あとじさりをしていた。僕よりもずっと年下の彼女を、疑いようなく恐れているのだ。湿った空気がねっとりと絡みついてきて、噴き出した汗が顎を伝ってぽとりぽとりと落ちていく。

 しかし軽やかに、確実に、彼女は僕のそばまでやってきてしまった。

 意に介さない表情で、彼女は悠然ゆうぜんと両手を僕に差し出す。その手に包まれているものが何か、僕は知っている。知っているのだ。嫌と言うほど。ただただ忌まわしい。恐ろしい。何というものを、僕に!

 怒りさえこみ上げてくるのに、それなのに、僕は彼女の細く、形の良い指から目が離せなくなる。それどころか、じっと注視している。


 僕は弱々しくかぶりを振る。

 嫌だ、止めてくれと懇願する。


 だが彼女は、僕を見て無邪気に笑っているだけだ。首を動かして却下の意志さえ示す。長い睫毛まつげふち取られた瞳に映る僕の姿の、何と意気地のないこと! まるで、その中に閉じ込められているように、動けない。

 逃げたとて無駄であることを、僕は既に知っている。だがこのままでは。強すぎる陽光がじくじくと僕の肌を焼いている。


 僕の悲痛な願いを無視して、少女はおもむろに両手を開いてついにその“罪”を見せつけた。

 果たして、黒い塊がうごめいていた。

















 ミ゛ーーーン゛ミ゛ミ゛ッ゛ミ゛ミ゛ン゛ミ゛ン゛ミ゛ン゛ミ゛ッ




「おまっ、おまえええええ! マジやめろって言ってんだろうが!」

 死にかけた蝉から逃げ惑いながら叫ぶ僕の声が、公園中に響き渡った。

隆兄たかにい、相変わらず虫に弱いね、別に毒とかないから大丈夫だよ?」

 彼女はそんな僕をニコニコしながら見つめている。

 夏休みに祖父の家に泊まりに来るといつも、五歳下の従妹にこうやってイタズラされるのだ。

 蝉どころか蜘蛛もムカデも蛇も平気な彼女にからかわれ続ける夏は、まだ始まったばかりだ。


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少女と夏 惟風 @ifuw

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