第60話

 近づいてくる篤樹あつきから逃げるように、ながれはズリズリと後ろに下がるけれどすぐに背中が壁についてしまう。それでも、どうにか逃げようと忙しなく目を動かす流を、篤樹は蔑むように見下ろしたあと笑んだ。

「さぁ、こっちにおいで」

 優しく誘う声に流は首を振る。けれど、力ない拒否はあっけなく却下されて、グイッと腕を捕まれ半ば引きずられるようにして非常階段から広い場所へとひっぱり出された。

 広い。

 連れ出されたところは、思ったよりも広い空間だった。古いビルだと聞いていたが、元はホテルか何かだったのかもしれない。絨毯張りの床に、ソファとローテーブルが置かれたエントランスのような場所。ガラス張りの入り口に向かう正面には、フロントカウンターのようなものも見える。

 逃げなきゃ……

 腕が痛い。篤樹の力は強く、振り払おうとしてもがっちりと掴まれていてびくともしない。

 半獣化してるのに、何で……

 呆然として流が篤樹を見上げると、その表情から何か感じたのか、ニヤリと笑みを浮かべて言う。

「私が、なぜ半獣化したお前を捕まえていられるのかが不思議なんだろう?」

 一般的に、獣化できない獣人は、半獣化した者よりも獣人としての力が劣るとされている。けれど、篤樹が流の腕を握る力は、半獣化している流が逃げ出そうとする力よりも明らかに強い。

「私は、獣化こそできないが、獣人としての力は獣化できる者たちと同等なのだよ」

「……そんなこと……」

 あるわけない。初めて聞いた。

「なぜかは私にもわからん。ただ、私が選ばれた、ということなのだろう。お前も、わたしと同じように、扉として選ばれたのだ。そのことを光栄には思わないのか? 扉として、新世界を開くことができることを許されたのだ。何よりも名誉なことだろう?」

 そう言って流を見る篤樹の瞳は、どこか恍惚とした光を帯びていた。その瞳を見ているうちに、流の中にふつふつと感情が湧いてくる。

 選ばれた……

 ふざけるな。好きで扉になったわけじゃない。選ばれたって嬉しくも何ともない。扉として生きたいわけではない。大体、仮に流が扉であったとしても、今回の虎族のように新世界の扉を開こうと思う一族がいなければ、流は流として、学院で平穏な高校生活を送ることができていたはずだ。寮の仲間たちを疑うこともなく、楽しく穏やかに暮らす。そんな日が続いていくと思っていた。そんな日を過ごしていきたかった。それを壊したのが、目の前にいる男だ。

「オレは……そんなこと望んじゃいない」

 流が真っ直ぐに篤樹を見て言う。一瞬驚いたように見開かれた篤樹の瞳に、薄いブルーの瞳で彼を睨む自分がいる。

「ほう……望んでいないとな。では、お前の望みはなんだ。新世界の扉が開いた暁には、わたしがお前の望みを叶えてやろう」

 望みなんてない。

 ただ、あるのは、自分を思ってくれる大切な人たちを、悲しませたくないという思い。心優しい人たちの心を乱すようなことを、したくはないという願い。

 何も言わずに睨む自分を見て、篤樹が何を思ったのか流にはわからない。けれど篤樹は、小さく唇の端を上げて笑んだ。

「……なるほど……。こちらの言うことを受け入れる気はないのだな」

 掴まれていた腕を乱暴に離されて、流は勢いのまま床に転がる。

「穏便に済ませたかったのだけれど、話を聞いてもらえないのであれば仕方ない」

 刹那。

 !?!?

「ゴホッ!!」

 流は腹部に強烈な衝撃を感じて大きくむせる。

 篤樹の重い拳の一撃が放たれたようだと、流が認識するまでにそう時間は掛からなかった。少し離れたところから、流を案ずるような声が聞こえた気がする。燈弥とうやだろうか。

 背中がピッタリと床についているせいで、その衝撃を逃がすことができなった。二発目を警戒して、思わず背中を丸めて身を守ろうとするけれど、両手首を強い力で掴まれて頭の上へと持ち上げられてそれは叶わない。足もがっちりと固定されていて、動きそうもない。

 怒りを感じて顔を上げると、痛みと衝撃で反射的に溢れた涙で潤んだ瞳の自分が、淡い茶色の瞳に映っていた。

 嫌だ。負けたくない。

 流のその動きをどう感じたのだろうか。篤樹は、柔らかい笑みを浮かべている。

「さぁ、新世界の扉を開こう」

 目線を少しずらすと、流を抑えている手とは反対の方に鍵を握っているのが見える。

 アレは、ダメだ……!!

 知らないけれど、わかる。わからないけれど、感じる。

 篤樹の持つ鍵は、流にとってよくないものだ。アレが自分の中に入ってしまったら、きっと流は自分ではないものになってしまう。馬乗りになる篤樹から、どうにかして逃れようと必死に身を捩るけれど、篤樹の力は強く抜け出せそうにない。

 それでも、流は必死に手足を動かす。

「動くな」

 パンッと高い音を立てて、篤樹の手が流の頬を叩く。

 口の中が切れて血の味がする。叩かれた頬には、痛みよりも熱を感じる。

 嫌だ。

 スローモーションのようにゆっくりと近づいてくる鍵に、流がギュッと強く目を閉じた。

 その時だった。

「オレのダチに何してくれてんだ、このクソ親父ーー!!」

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月に吠えるは狼か 七海月紀 @foohsen

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