第59話

「ぐっ……!!」

「燈弥くん!?」

 流の見えないところで鈍い音がして、続いて燈弥の呻くような声と僅かに血の匂いが流れてくる。音と気配から、黄色い影……朔月に殴られたのであろうことは窺えるけれど、どんな状態なのかはわからない。それが流の気持ちを余計に焦らせる。

「狐の長はともかく、守護者は聞き分けが悪いな。……なぁ、朔月」

 どこかのんびりと言う篤樹の斜め後方に控えた朔月は短く答える。

「……はっ」

 軽く握られたその拳には、血がついているようだった。

「それで?なぜ、扉がこんなところにいるんだ?」

 流をじっと見つめて篤樹は言う。けれど、その言葉は流に向けられたものではない。

「部屋から抜け出したようです」

「……ほう?朔月、私はお前に何と命じた?」

 頭を少し下げて、篤樹の後ろに立つ朔月の肩が一瞬ピクリと動き、辺りをピンとした空気が包む。

「逃がすな……と」

「そうだな」

 感情の読めない声が響いた後に、くるりと流に背を向けた……次の瞬間。一閃。鞭のようにしなる脚が、朔月の横っ腹にめり込んだ。

「っっ!!」

 朔月は一瞬衝撃と痛みに目を見開くが、何事もなかったように表情を消してそのまま片膝を立てて跪いた。

「……申し訳ありません」

 篤樹は目を眇めてそれを見やるけれど、すぐに興味を失ったかのように流の方へと視線を向ける。

「まぁ……逃げ出してしまったものは仕方ない。また捕まえればいいことだ。それに……」

 にっこりという言葉がぴったりな笑顔を浮かべて、篤樹は言う。その瞳の奥にある光は暗い。流の方を向いているのに、その瞳には流は映っていないようなにすら感じる。チャリンと小さい音を立てて篤樹が手を返すと、そこには小さな鍵があった。真鍮製なのだろうか、少しくすんだ金色で時代を感じさせるシンプルな鍵だ。

 ドクン……

 心臓が大きく跳ねる。それを始まりに、鼓動が早く大きく響く。少し息苦しさを感じて、流はハクハクと小さく口を動かしてどうにか酸素を吸おうと試みる。けれど、それはあまり上手くいかず、へたりと地面にしゃがみ込んで胸を押さえる。

 それは……その鍵は……もしかして……

 苦しい。思考がまとまらない。胸と喉の奥が詰まったようで、呼吸が苦しい。

「おや、わかるのか?」

 驚いたように眉を跳ね上げて篤樹は言う。

 わかるか、わからないか……でいうのであれば、わからない。けれど、感じてしまう。

 あの鍵は、流にとって良くない。

「これは、かつて虎族にいた鍵から得たものだ」

 どう……いう……?

 ゴホッと大きく咳き込むと、ほんの少し呼吸が楽になる。ヒューヒューと嫌な音のする胸を押さえながら見上げた篤樹は、どこか遠い目をしていた。

「かつて我が一族は、扉を開くことができるはずだった。扉を見つけ、手に入れ、鍵も具現化でき扉を開けようとした。けれど、鍵を開ける直前で、その扉が死んでしまった」

 誰に聞かせるでもなく、流れる水のごとく篤樹は言葉を続ける。

「扉を失った一族は、新しい扉を探した。そしてようやく見つけた扉は、狼族にあった」

 狼紀に書かれていたことだろうか。昔狼族に現れた扉は、二人目だったという。

「二つ目の扉は、その扉を開けることを拒んだ。それにより、我らは扉を開けて新世界の覇者となることを諦めざるを得なかったのだよ。だが、そのときに残った鍵は、こうして一族の機密事項として代々受け継がれてきたわけだ。再度、使うことができる日のために……」

 そうだ。今の虎族の鍵は、圭斗だ。流たちの近くにいる。圭斗自身はそのことをまだ理解していないし、彼の母である奈子も扉を開けるつもりはない。だから、虎族が鍵を手にすることはないはずだった。

 でも、かつての扉のために具現化した鍵で、オレの扉が開くはずがない。

 扉を開けるためには、扉の同意が必要なはずだ。もし、昔の虎族が当時の扉の同意を得て鍵を具現化したのであれば、きっと流の扉を開けることはできない。

 ……はず。なのに、どうしてこんなに不安なのだろうか。

 胸の奥が苦しくて、体が震える。

「開くわけないと思っているのだろう?」

 ニッと唇の端をあげて篤樹が笑う。けれど、その目は変わらずに遠くを見ていて、流を映すことはない。

「けれど、やってみなければわからない……」

 ゆっくりと瞬きをし、開いた瞳はしっかりと流を映していた。

 いやだ。怖い。

 近づいてくる篤樹の茶色い瞳の中に映る自分が見える。瞳孔の開いた目をさらに見開き、体を震わせる姿は、捕食者に狙われる草食動物のようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る