第58話

 ながれは少し距離をおいて燈弥とうやの後をついていく。グルグルと回転するように回りながら非常階段を降りる。

「このビルは獅子族ししぞくの所有物らしくってね。五階建てで、例の部屋は最上階にあるんだ。外から見ると廃ビルに見えるような古いビルだけど、設備は手を入れてるから電気もガスも水も通ってるし、エレベータも使えるよ」

 控えめな音量で、呟くように燈弥は言う。もしも、途中でどこかの階の非常扉が開けられても、独り言と言い張れば受け入れられるだろう。……流の姿さえ見られなければ。

「だから、この階段を使う人は本来ならいないはずなんだよね」

 本来なら。その言葉が指すのは先程の男のことだろうか。察するに、さっきの貂族てんぞくはこの非常階段に隠れて煙草を吹かしていたのだろう。

 そんなふうに思っていると燈弥の足が止まった。どうやら一階に着いたらしい。

「僕が先に出る。大丈夫だったら扉を一回ノックするから、出てきてくれる?」

「わかった」

 隣に並んだ流が頷くのを見て、燈弥は微笑む。

「もう少しで、翼くんのところに帰れるよ」

 そう言って、燈弥は細く扉を開けてするりと外へ滑り出た。

 燈弥は合図をくれると言っていた。とは言え、気になる。

 流は片方の耳をピッタリと扉にくっつけて、外の音に耳を澄ます。重い金属製の扉は冷たく、触れる耳や頬の熱がどんどん奪われていく。

 ……聞こえない。

 しばらくじっとしたまま待ってみる。けれど、何の合図も音も聞こえない。

 と、突然ガンッと激しい音と衝撃が扉に襲いかかり、頭を押し付けていた流はしたたかに扉に頭を打ちつけた。

 ったぁ〜……

 ぶつけた頭を触ってみると、わずかに熱を持っている。

 たんこぶできた……

 なかなかの衝撃だ。

 流は、頭をさすりながら反対側の耳を扉につけて外の様子を伺う。すると、やっぱり話し声は聞こえないけれど、わずかに騒がしい気配が感じられた。

 ちょっとだけ……

 ドアノブを捻って扉を開けようとすると、前にある何かに引っかかる。流が少し力を入れて押すと、グッと押し返されてほとんど扉は閉められてしまう。けれど、完全には閉まっておらず、わずかな隙間から声が聞こえた。

「出迎えが遅いぞ、狐」

 どこか鼻につく、尊大な話し方。その声を流はきっと忘れない。

 獅子族……!!

 狐とは燈弥のことだろうか。

 燈弥くんが見つかった……。

 由稀ゆき亜輝あきの父親で、虎族であり獅子族の長であるという男。流をここに連れ去った主犯。奴にだけは、流が逃げようとしていることがバレてはいけない。それは流自身だけでなく、流に手を貸してくれた燈弥の身をも危険に晒すことになる。

「……申し訳……ありません……」

 流が耳をそばだてる扉のすぐ近くで、燈弥の声がする。どうやら流が開けようとした扉を押し返したのは、燈弥のようだ。その声が少しだけくぐもって聞こえる。

 殴られてる……?

 さっきの衝撃は、殴られた燈弥が扉にぶつかったせいだったのだろうか。

 でも、半獣化した燈弥くんを殴ることができるなんて……

 このビルには、今は小型の獣人しかいないはずだ。唯一の例外は、虎族の長と朔月さつきだ。けれど……

 虎族の生き残りは、獣化できないはず……。

 長とともに朔月も戻ってきたのだろうか。でも、気配は感じない。

「ふん……。まあ、いい。それで、扉は?」

「……まだ眠っているようです」

「ほぉ……?」

 一段下がった声音に、流の背中を冷や汗が伝う。頭の上の獣耳と尻尾の毛がブワッと逆立ち、扉越しでも伝わってくる気配が、流の身に危険が迫っていることを伝えてくる。

 やばい……

 思ったときにはもう遅かった。

「では、お前の後ろにいるのは何だ?」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。それに合わせるように、流も後ろへと飛んで下がる。

 逃げなきゃ……。どこに?上……?

 今降りてきた階段を見上げる。半獣化して駆け上がれば、扉が開かれる前にこの場を去ることができるかもしれない。でも、だけど。

 違う。そうじゃない。

 流は小さく頭を振って、ふーっと大きく息を吐く。

 逃げるにしても、上じゃない。前だ。

 大きく深呼吸をした流が扉に目をやるのと同時に、ガッと鈍い音がした。扉が僅かに動いたのは、扉の前にあったモノが動いたからだろうか。

 外開きの扉がゆっくりと開いていく。

 完全に開かれた扉の向こうに、腕を組んで立つ獅子族の長……篤樹あつきの姿があった。その瞳は、流の姿を映すとスッと鋭く細められる。

「部屋で眠っているはずの扉が、なぜここにいるんだ?なぁ……狐?」

 その声はひどく冷たく、冷めた目線が流からは見えない扉の外に向けられている。視線の先にいるのは燈弥だろうか。

 カツンと乾いた音を立てて、篤樹が流の方に一歩近づく。真っ直ぐに自分を見る瞳は、獰猛な肉食獣のようで背中を冷や汗が滝のように伝っていて気持ち悪い。いっそ、ここから逃げ出せたのならどんなに楽だろうか。でも……

 逃げるわけにはいかない。流がここから逃げると、燈弥はどうなる。逃げたからと言って、無事に家族の……たすくのもとに帰れるとも限らない。流は顔を上げて、自分を映す獣の瞳を真っ直ぐに睨み返した。

 あぁ……少し似ているかもしれない。

 目の形や口元、鼻の感じも言われてみれば似ている。けれど、言われなければわからない。瞳に帯びる光の強さは、流の知るそれとは違う。

 ……こいつは、確かに由稀の父親だ。でも、由稀とは違う。

 由稀の瞳には、いつも光が溢れていて、その奥には優しさが湛えられている。こんな、闇に堕ちたような、暗い瞳はしていない。

「君には、息子たちも世話になっているようだな」

 また一歩、流と篤樹の距離が縮まる。

「御前!!」

 流に見えないところから、燈弥の声がする。篤樹がフッと軽く右手を上げると、彼の背後から黄色い影が飛び出した。

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