第0話 3/3
重ねられた現実が過去になり、『今』という存在しない時間のカタチを創る。
切り倒された樹木が切り株になってもなお新芽を宿すように、傷ついた人の心もまた時を経ることで、新たな想いを抱き、育む。
少年に二度の絶望を与えた、万能薬ソーマ。
皮肉にも、少年が心を取り戻すきっかけになったのもこの薬だった。
アースの姉シーラが死んでから2年が経とうとしていた。
季節が巡り、少年の背が姉のそれを追い抜いてしまっても、街並みはほぼ変わることがなかった。しかし、人の心は年を負うごとに変わっていく。
神。
或いは、己。見えない何か。
人々は各々が信じる絶対的な存在に願う。
不幸が終わるように。今の幸せが壊れないように、と。
年月はアースから胸の痛みを取り去ったが、その傷跡を消すには至らなかった。夢の中。ふと見上げた青空の中。温かいシチューを飲んでいる時でさえ、時折アースの脳裏に姉の姿が浮かんでは消えた。そんな時、あらためて傷の存在に気づく。
そして、思い出す。
自分には大好きな姉がいて、死んでしまったことを。
どんな時も自分のことを考えてくれていた、優しい姉。
その姉に対して、何もできなかった自分。
偽物の薬。
薬があれば救えたのに。
アースは、過ぎてしまった過去を悔やみ、現実を恨んだ。なにをどうしたらいいのか分からず、ただ生きているだけの毎日が続いた。
そんなアースが、記憶の中でもう一つの大事な存在が薄れていっていることに、気づくはずもなかった。
「俺と仕事をやらないか?」
ガットと名乗る男から誘いがあったのは、ある風の強い日。
「仕事ならしている」
窓を拭く手を休めずに、アースは答える。街の外れにある教会の掃除がアースの仕事だった。これは元々シーラがしていた仕事のひとつだ。
「教会の掃除なんてのは、男がやる仕事じゃねえ。女に任せときゃいい」
「それでも俺の仕事だ」
先ほどよりやや強い口調でそう言い、黙々と掃除を続ける。
「ソーマって知ってるか?」
手を止め、振り返るアース。
怒りを露わにガットを睨みつけた。表情にはそれとは他に、なぜ知っているんだという、男に対して逆に問いただすような感情が含まれていた。
「天使の翼から作る万能薬のことだ。お前が知ってるかは知らんが、べらぼうな値段で俺らのような人間が買えるもんじゃねえんだ。だがな、」
「……エルムのことか?」
最近、ソーマを今までの1割ほどの価格で市場にさばいてる組織があらわれた。その組織の名がエルムというのをアースは知っていた。
「知ってるなら話が早い。その組織で、天使を狩る仕事をやるヤツを集めているんだ」
「それで?」
「いい金になる仕事だ。それに、天使の翼っていう高価なものを扱う仕事だからな。それなりの信頼関係をお互いに築かにゃいけねえ」
ガットは一呼吸おいて、
「家族を病気で亡くした人間ってのが、エルムの提示した仕事に就くための資格だ。お前は、その条件を満たしている」
僅かにアースの肩が震えた。
「考えたことないか? お前の姉ちゃんと同じ病気で、同じように苦しんで、死を待つだけの人たちがいるってことを」
「……そいつらで罪滅ぼしでもしろっていうのか?」
「どんな気持ちで仕事をしようがお前の勝手だ。まあ、それがエルムの意図するところだと思うがな」
姉と同じように、苦しんでいる人がいる。
やせ細った身体で。
折れそうなほどに細くなってしまった腕で。
嘔吐を繰り返し、眠れない夜を送っている人たちがいる。
その当たり前の事実は、アースの表情を一変させた。
呆然としているアースを無視するように、ガットの言葉は続く。
「自分だけが不幸で、自分だけが惨めな思いをしてると勘違いしてねえか?」
「……」
言い返すことの出来ないアースの口から出たのは、
「どうして姉さんのことを知っている?」
という疑問だけだった。
「会ったことがあるからさ、この教会で。葬式にも参加した」
「……そうか」
済まない、と付け加えた。
「いや、お前の姉ちゃんには何かと世話になったからな。それより、今の話を考えておいてくれないか?」
「……」
「天使狩りってのは、家畜を殺したりすることの比じゃねえくらい汚ねえ仕事だ。人間とそっくりな奴等を捕まえて、翼を引きちぎるんだからな」
強い風が教会の壁を叩く。
どこからか入ってきた風が、二人の髪を揺らした。
「だが、それで人間がひとり救える」
「なんで、」
アースは震える声で、
「あの時じゃなくて、今なんだよ……」
瞳に哀しみを湛えながら、胸の内のすべてを絞り出すように呟いた。
ガットは床に落ちた雑巾をアースに手渡し、考えておいてくれともう一度言い、背
中を向けた。
「丘にある家、早く買い戻してやれよ」
ガットは最後にそう言い残して、街へと帰っていった。
数日後、アースは天使狩りの仕事に就くことになる。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
消えていく、ひとりの少女との記憶。
忘却の果てにあるもの。
それは、いずれやってくる回帰を予期させるものだった。
月光を受けた腕飾りは、神秘的な光を放っていた。
シーラはベッドに寝たままの状態で、天井に腕をかざしている。腕を回転させると、光の残像が浮かびあがり、それが綺麗で何度も繰り返していた。
「……あ」
どくん、と心臓が大きく鳴った。その自分の鼓動に驚いて、シーラは声をあげる。
アースは何事かと見やった。
「……なに……これ」
弱々しい口調でシーラが呟く。
少しでも動いたら、頭に飛び込んできた映像が壊れてしまいそうだった。
「女の子……が……」
「一体、どうしたんだ?」
心配したアースが手を取ると、不思議とシーラの頭に浮かんでいる映像が鮮明になった。
温もりが腕を通して、身体を伝い、胸に届く。
「わからない、わからないけど……」
話の内容を訊くアースに、シーラは目をつむって語り始めた。
音のない、瞼に映るイメージをそのままに。
見えたのは、ひとりの少女
もう一度、大好きな少年の笑顔が見たくて
何かをしてあげたくて
でも待つことしか出来なくて
少年の願いは、少女には叶えられない願いで
何もできない自分の無力さを恨んで
冷たい雨に打たれながら
祈りさえすれば、願いは必ず叶う
そう、信じて
命が尽きるまで祈り続けた少女がいた
そんな少女の、悲しい物語──
シーラは、少女の見たもの、感じたものの全てを言葉にした。
話している途中から堪えきれなくなり、シーラの頬を涙が伝った。視界を覆う映像と少女の想いが、胸を締めつけた。
「悲しい話だな」
無言だったアースが口を開いた。
「……うん」
「もしかしたら、その女の子はお前なんじゃないのか? 記憶が戻ったとか?」
「でも、翼が生えてなかったし……」
「そうか。……男の子の姉さんはどんな人だった?」
「それがね、彼女の顔だけがはっきりと見えないの。男の子は、アースに少し雰囲気が似てるかな」
「……」
「ねえ、アースにはお姉さんがいなかった?」
冗談半分で言ったシーラの質問に、答えは返ってこなかった。
黙っているアースに、そっと唇が重ねられる。しばらくの沈黙の後、
「『今』は嫌い?」
優しい笑みを浮かべ、天使の少女が問う。
「……いや」
「だったらいいじゃない」
再び、シーラが子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。
「それより明日、街に行かない?」
「いいけど、買い出しに行ったばかりだろ」
腕輪を見せるシーラ。
それをアースが手にとってみると、一番大きな黒い石が欠けていた。
はぁ……と、ため息をつくアース。
「いつかやると思ってたけどな」
「……ごめんなさい」
「いいよ。それって、最後にタダで貰った石だろ?」
「うん。魔法の石……」
「そういえば、そんなこと言ってたな。魔法どころか、買ってすぐに割れるくらいだからやっぱりニセモノだったな」
と、アースは笑った。
「まあいいか。とりあえず、明日あの店に行こうな」
シーラは、元気よく頷いた。
「……あ」
再び、シーラが声をあげる。
「今度はなんだ?」
シーラは、店の主人との会話を思い出した。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
『すみません、魔法が込められていると言ったのは嘘です』
『やっぱり。本で読んだことがあるけど、魔法の石ってすごく高価なんでしょう?』
『はい。ですが、その石は実際のものと同じです。ただ、魔法が込められていなければ高いものじゃありませんので』
『……そうなんだ』
『はい。それをするのは、あなたですから』
『えっ?』
『知っていますでしょうか? 魔法は、誰にでも使える可能性があるのです。もしかしたら、あなたにもその資質があるかもしれません』
『ほんとに?』
『ええ、本当です。ですから、たまにその石に祈りを込めて下さい。あなたの願いが神へ届くかもしれません』
『なんだか夢のある話ね』
『そうでしょう? 叶わない祈りを捧げるよりはずっと……』
『わかったわ。やってみる』
『石が割れることを願っていますよ』
『……?』
『願いが叶ったとき、その石は割れてしまうんです』
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
今夜も世界中の祈りが天へと昇る
それらの殆どは風に流され 闇夜に溶けてしまう
僅かな願いだけが残り 星の下で待つことができる
気まぐれな天使に集められ 神のもとへ運ばれるのを
祈りの言葉は 天からの
素晴らしい旋律が
風を求め
それはまるで 天使たちを導く風を 誘うかのように
風誘う詩(かぜさそううた) 白河マナ @n_tana
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