第0話 2/3


 信じられないことが起こった。

 わたしはまばたきを繰り返した後、嬉しさのあまりお父さんに飛びついた。


「なんだ、ずいぶん嬉しそうだな。そんなにこの街が気に入ってたのか?」


「本当なの!? 本当にいいの!?」


「……俺はお前に反対されると思ってたんだが。何年も俺の勝手でお前のことを連れまわした挙げ句、急にここに住もうなんて言われたらな」


「……お父さん」


「特にここ一年はたくさんの街を巡ったから、お前には申し訳なかったと思ってる」


 お父さんがわたしに謝るなんて初めてのことだった。こんな表情をしたお父さんの記憶はない。お父さんはいつも無口で、必要なこと以外はしゃべらなくて、感情を表に出すことも少なかった。


「ようやく終わる。俺も好きでこんな暮らしをしてた訳じゃない。お前は小さかったから殆ど覚えてないと思うが、俺と母さんの夢だったんだ」


「夢?」


「自分たちの店を持つことが、俺とお前の母さんの昔からの夢だった」


 お父さんは微笑みながら思い出を語る。これも見たことのない顔だった。

 ホントにわたしのお父さん?

 知らなかった。わたしのお父さんは、こんなに温かかったんだ。


「ということは、この街でお父さんはお店を開くの?」


「ああ……って、最初に言わなかったか? しばらくしたら、この宿から少し歩いたところにある店に住むことになるから荷物をまとめておけって」


「うん。言った気がする」


 ……けど、驚きと嬉しさですっかり忘れていた。


「最後にもう一度確認するが……」


 お父さんは、いつものお父さんに戻っていた。


「この街でいいんだな? お前が嫌なら別の街を探すことにする。俺だけが気に入った場所に住んでも意味がないからな。ずっとこの場所で暮らすことになるんだ」


 わたしは再びお父さんに飛びついて答えを示した。

 ずっとこの街で──

 アースがいるこの街で──わたしは暮らすことができる。



 高鳴る胸の鼓動は、朝起きてもまだ収まらずにいた。

 完全に諦めていたこと。

 アースと友達になること。

 別れることに怯えながら遊ばなくてもいいんだ。そう思うと、嬉しくて仕方がなかった。わたしは急いで朝食を食べて外に出た。

 さっそくアースに会いに行こう。

 今日は、一緒にたくさん笑って、くたくたになるまで遊ぼう。

 わたしの身体を満たしていたのは使命感にも似た感情だった。まるで生まれる前から交わされていた神様との約束のようだった。

 死んでしまったシーラお姉ちゃんの願いは、次第にわたしの願いへとカタチを変えていた。お姉ちゃんの為だけじゃなく、わたしがわたしとしてしたいことに。


「おはよう、アース」


 座り、うつむいている少年。

 これ以上ないくらいの笑みを浮かべる、わたし。


 このときのわたしは、幼すぎたのかもしれない。

 だから気がつかなかった。

 わたしが過ごしたアースとの日々は、わたしだけのものだったのだ。


 幸福の頂にいた、わたしを待っていたのは、

 拒絶、だった。




       ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇




 少女が見える。幼い、私だ


 わたしと私


 目に映るわたしは私なのに、わたしは私ではなかった


 わたしは死んでしまったから


 これは、終わってしまった過去


 その先は無い


 わたしはもう居ない


 この世界のどこにも


 だけど、心は消えなかった


 だから、私はここに居る


 光の中に


 想いの世界の中に




「……シーラお姉ちゃん」


 墓石に当たった雨粒が弾け、散って、わたしの足下を濡らしていた。


「どうして死んじゃったのよ。次の日も会おうって言ったのに」


 わたしがどんなに頑張ってもアースの悲しみを消すことはできなかった。両親のいない少年にとって、たった一人の肉親であるお姉ちゃんを失ったことは、それだけの意味にとどまらないことを実感した。

 お父さんもお母さんもいないアースには、お姉ちゃんがすべてだったんだ。お母さんや兄弟のいない、わたしにとってのお父さんのように。

 そのことが分かっていたから、お姉ちゃんは、わたしに──


「……あの時、お姉ちゃんが言いかけたのは、わたしにアースと友達になってほしいってことだよね。わたし頑張ったよ。でも、アースにはお姉ちゃんが必要なんだよ。どんなにアースのことが好きでも、わたしはお姉ちゃんに勝てそうにないよ。アースに必要なのは……」


 わたしじゃない──


 降りしきる雨に打たれながら泣くことしか出来なかった。もう頑張れない。この先、永遠にアースは振り向いてはくれないという気持ちが膨らんでいった。

 とても自分が惨めで情けなかった。

 叶わない願いなのは分かっていた。けれど、お姉ちゃんに戻ってきて欲しかった。願いは叶う。努力と祈りによって。お母さんが死の間際にわたしに残した言葉だ。

 それを信じてわたしは祈り続けた。

 絶えることなく聞こえていた雨音が消え、わたしは朝の光を感じた。

 露を含んだ緑の香りが鼻をくすぐる。わたしは目を開けようとしたが、なぜか出来なかった。身体の感覚がなくなっていて、指を動かしても動かせた気がしない。

 自分が立っているのかさえ分からなかった。そして、


「そんなところで寝てると風邪引くぞ」


 声が聞こえた。


「おい、どうした?」


 待ち望んでいた、わたしの大好きな子の声だったはずなのに、言葉を返すことができなかった。

 わたしを心配してくれる声は、意識と共に少しずつ薄れていった。




       ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇




 今回も思い出を繰り返すはずだった。

 目を覚ましたわたしは、観ていたものが夢だったことに安心する。

 それすらも夢だと気づかずに。

 その夢の中でも同じ夢を観て、わたしは死んで夢から覚める。

 いつまで続くの?

 そんな問いは、長い時間の中で思い尽くしてしまった。

 終わらない。

 終わらないんだ、これは。

 わたしの記憶の終点は、始点と繋がっているのだ。指輪のように。


 そう思っていた。でも、違っていたらしい。

 この続きは私の記憶にはない。

 私の知らないわたしが、ベッドで眠っていた。



 目が覚めたのは、その日の夕方だった。


「バカだろお前。雨が降ってるのにあんなところで寝てるなんて。死んだらどうするつもりだったんだ?」


 アースの呆れ顔が目の前にあった。


「……うん」


「俺がたまたま通りかかったから助かったんだ。感謝しろ」


「うん。ありがとう」


「苦しくないか?」


 わたしは大丈夫と答えた。


「ここはどこなの?」


「ライザ婆ちゃんの家だ」


 お姉ちゃんが死んでから、アースはお葬式のときに見かけたお婆ちゃんの所で暮らしていた。誰が運んでくれたのか分からないけど、わたしは街に戻ってきたんだ。


「お前、医者には助からないって言われたんだぞ」


「……でも、生きてるよ」


「俺が持ってたソーマっていう魔法の薬を飲ませたからな」


「魔法の薬?」


「ああ。ソーマは天使の翼からつくる万能薬なんだ。でも、すごく高価で、俺はこれを手に入れるために家まで売ったんだ」


 わたしの為に?

 いや、違う。たぶん──


「……姉さんに飲ます薬だった」


 アースは目を伏せて言った。


「今さら持ってても仕方がないからな……って、どこか痛いのか!」


「う、嬉しいからだよ。涙って嬉しいときにも流れるんだね」


 笑って答えるわたし。

 わたしはアースと話ができることが嬉しかった。

 アースはごめんなと言った。


「俺は認めたくなかったんだ。姉さんが死んじゃったってこと」


「……うん」


「俺、姉さんに生きていて欲しくて頑張ったんだ。だけど、どうにもならなかった。薬も間に合わなかった。そして、姉さんは……」


 両手をぐっと握りしめながら、アースは悲しみに流されるのを耐えていた。わたしの涙は冷たいものに変わっていた。


「今度は間に合った……んだ。よかっ……た」


 窓越しに射す夕焼けが、部屋内を赤く染めていた。

 部屋には二人。

 一人は、必死に姉の死を受け止めようとする少年。

 もう一人は、幸せそうにベッドで眠る少女。


 幸せの始まりのはずだった。

 雨期の合間の美しい夕暮れは、悲劇の終わりを告げているように思えた。

 しかし、翌日からはまた雨が降りはじめた。

 雨期が終わらないのと同じように、悲しみも終わらなかった。


 眠ったきり少女が起きることはなかった。

 その事実は、少年の開きかけた心の扉を粉々に叩き潰した。

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