第0話 1/3
お父さんがいた。
お母さんはいなかった。
わたしとお父さんは、街から街へと移動する生活をしていた。
お父さんはギョウショウという仕事をしていた。
どうしてお家に住まないの?
何度もお父さんに訊いたけど、教えてはくれなかった。
友達ができても、すぐに遊べなくなる。
仲がよくなればなるほど、別れるのが辛かった。
「また遊ぼうね」って約束したのに。
「うんっ」って笑って答えてくれたのに。
いつだって、わたしは約束の場所には行けなかった。
お父さんに引きずられ、街を出るしかなかった。
胸の中でごめんねを繰り返しながら、わたしは次の街へと歩く。
その繰り返し。
いつしかわたしは、どうせ別れるなら友達なんていらない、
そう考えるようになっていた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
シーラお姉ちゃんとアースという男の子にはじめて会ったのは、わたしが九回目の誕生日を迎えて間もないころだった。
昨日着いたばかりの新しい街。
お父さんが仕事をしている間、わたしは自由に遊べた。どこに行っても、日が暮れるまでに宿に帰っていくれば、お父さんが怒ることはなかった。
わたしは花売りのお姉さんが教えてくれた教会に向かっていた。朝靄の中、かつかつと革の靴が音を立てる。教会は街の外れにあるのだ。宿から出て、曲がりくねった下り坂を進み、広場に出て、知らないおじさんと話をしているお父さんにおはようと言って、大きな通りを南に向かって歩いた。
静かな朝だった。この街の朝はあんまり早くないらしい。前の街には港と大きな市場があったから、お日様が頭も出していない時間からたくさんの人が忙しそうに動き回っていた。
教会に着いたわたしは扉を叩いた。待っていると扉が開いて、中から女の人が出てきた。すごくキレイな人だったけど、とても痩せていた。
「どうしたの?」
よく通る優しい声だった。じわっと言葉が胸に染みてきて、声を聞いただけで心が温かくなった。わたしがかすかに覚えているお母さんの声に似ている気がした。
「朝のお祈りをしに来たの」
「この教会は誰でも自由に入ってお祈りをしてもいいのよ。私もあなたと同じで、朝のお祈りに来てるの。だから、次に来るときはノックの必要はないわ」
そう言って、わたしの頭に手をのせる。上目がちに細い腕を見上げてみると、それがわたしの腕と変わらないくらい細いことが判った。痛々しい。この人は病気なのだろうかという疑問が浮かんだ。
わたしは「お姉ちゃんは病気なの?」と、遠慮がちに訊いた。
「……わかる?」
「だれだってわかるよ。お姉ちゃん顔色良くないし、痩せすぎだよ。腕なんてわたしと変わらないくらいに細いし」
わたしは自分の腕をお姉ちゃんの腕に重ねる。
「……」
女の人は真剣な面もちで二本の腕を見比べていた。やがて視線をわたしに移動させ、
「あら、本当ね」と言った。
わたしは、変な人だと思った。
お姉ちゃんはそれがどうでも良いことのように微笑んでいた。触れただけで壊れてしまうという、北の妖精が造る硝子細工のように儚げで、それでいて瞳には力強さが宿っている。確かにこの女の人はわたしの目の前にいるのに、まばたきをしたら次の瞬間には居なくなってしまうのではと不安な気持ちになってしまう。不思議な感じがした。それがわたしの受けた印象だった。
この人は、苦しくないの?
この人は、辛くないの?
この人は、どうして笑っていられるの?
「そういえば、名前を訊いてなかったわ。私はシーラ」
また、優しい笑み。どうしてか分からないけど、このシーラという人は、わたしに会えたのを喜んでるみたいだった。
続いて、わたしが名前を名乗った。
「きれいな名前ね。あなたにすごく似合ってる」
と、あまりにも真剣な顔で言うので、わたしは恥ずかしくなってしまい、思わず目をそらしてしまう。お姉ちゃんは、そんなわたしを困った様子で見ていた。
「……私、なにかおかしいこと言った?」
「ううん。ただ、名前を褒められたのって初めてだから。わたしはお姉ちゃんの名前のほうがキレイでお姉ちゃんにぴったり合ってると思うけど」
「ふふ、ありがとう。……そういえば、私も名前を褒められるのって初めてだわ」
わたしは、やっぱり変な人だと思った。
「ねえ、お姉ちゃん?」
「なに?」
「中に入らない? わたし、まだお祈り済ませてないから……」
わたしはシーラお姉ちゃんと一緒に教会の中へ入って朝のお祈りをした。
建物の中にはわたしたちの他に誰もいなかった。お姉ちゃんに訊いてみると、朝から街の外にあるこの教会まで来る人は殆どいないとのことだった。
「……お願いがあるの」
お姉ちゃんが言った。
あまりに唐突すぎて、はじめその言葉がわたしに向けられているということが分からなかった。お姉ちゃんは神様に祈りを捧げている時と同じ表情だった。
わたしは言葉を待った。お姉ちゃんは迷っているようだった。
「……ごめんなさい。やっぱりいいわ」
わたしは黙って頷いた。
何を言いたかったのだろう──
今日、会ったばかりのわたしに──
「さてと、そろそろ家に戻って朝食を作らないと」
シーラお姉ちゃんが立ち上がり、わたしも街に戻ろうかと思ったとき、扉の開く音がした。わたしたちは同時に振り向いた。
「姉さん!」
わたしと同じくらいか少し年上の男の子だった。彼はこの教会まで走ってきたみたいで息を切らせていた。
「そんなに慌ててどうしたの、アース」
お姉ちゃんの弟?
でも、お姉ちゃんとは対照的に活発そうな子だった。
「いいから、早く家に帰ってきてよ! 早く、早く!」
アースという男の子は、じれったそうに近寄ってきて、お姉ちゃんの腕を引く。けれど慌てている口調とは裏腹に、割れ物を扱うように優しく。
「ご、ごめんなさい。また、明日会いましょうね」
わたしのほうを振り返りながら、お姉ちゃんが言った。申し訳なさそうな顔をしつつも、幸せそうに。
「うんっ。わたし、明日もお祈り……」
音もなく扉が閉まる。
言い終わる前に二人は行ってしまった。少年とは話もしなかった。わたしが居ることに気づいてるかさえ疑問だった。
「……」
お姉ちゃんは、わたしに何を頼みたかったのだろう?
そのことが気になったけど、明日ここで会ったときに訊けばいいと思った。さっきの男の子のことも知りたかった。このことも明日の朝、訊いてみよう。
わたしは、街に帰った。
それだけだった。
ほんとうに、それだけ。アースとは言葉も交わしていない。
わたしが再びシーラお姉ちゃんに会ったのは、翌日。
大きな箱の中で、たくさんの美しい花々に包まれて、お姉ちゃんは眠っていた。
とても穏やかな寝顔だったことを覚えている。
少年は、泣いていた。
昨日はあんなに元気で、嬉しそうにお姉ちゃんを呼びに来たのに。今日は別人のようだった。わたしはアースに何度も声をかけようと思ったけれど出来なかった。
不思議と悲しくなかった。
シーラお姉ちゃんが死んでしまった事実を突きつけられているというのに、まったくそんな気がしなかった。今すぐにでも目を開けて、お姉ちゃんはわたしに笑いかけてくれそうだった。だから泣けなかった。
わたしの隣には、お父さんが居てくれた。
お葬式のあいだ中、アースは力無く地面を見つめていた。見かけた時から流れ続けていた涙は止まっていたが、神様への言葉と共に深い穴の中に棺が置かれ、それに土が重ねられ始めると、彼は狂ったように叫びだして棺を掘り起こそうとした。
大人たちが、必死でそれを止めようとする。
押さえられてからもアースは暴れていたが、人混みの中からおばあちゃんが出てきて泥だらけの少年になにかを言うと、少年は暴れるのをやめた。そして、おばあちゃんにすがりついて大声で泣いた。
その時、初めてわたしの瞳からも涙が落ちた。
あっと言う間に涙で視界がぼやけていく。胸が痛くて、呼吸ができなくなるほどの悲しみだった。わたしは力一杯お父さんの袖を掴んでいた。
お姉ちゃんは本当に死んでしまったんだ、と思った。
浅い霧に包まれている墓地には、姉を想う少年の泣き声だけが響いていた。
わたしには声をかける資格がない。
そのことが悲しかった。
たぶん、わたしの言葉は、無責任な慰めにしかならない。
アースのこともお姉ちゃんのことも、わたしは知らないから……。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
お姉ちゃんが亡くなってからは、雨の日が続いていた。わたしは、この地方には雨期というものがあるということを知った。
ひとりぼっちの少年。
わたしは毎日アースを見に行った。会うのではなくて、ただ眺めていた。遠くの木陰から気づかれないように。
アースと友達になってはダメだから。
もう友達をつくらないと決めたこととは関係なかった。わたしはアースと話がしたかった。もう一度、あの元気なアースに戻って欲しかった。
わたしは声をかけたいのをずっと我慢しながらアースを見ていた。
どんな食べ物が好きなのかなとか、どんな遊びが得意なのかなとかを考えているだけでわたしは楽しかった。だけどアースの悲しみは、どんどん深くなっていった。
話したい。話せない。
じきに、わたしはこの街から去ることになってしまう。
そのわたしがアースと友達になるということは、再び別れを、悲しみを負わせてしまうことになるのだ。アースにとって、すごく残酷なことなのだ。
わたしは、駆け寄りたい衝動をぐっと押さえつけていた。
『…お願いがあるの』
シーラお姉ちゃんの、わたしへの願い。わたしは確信めいたものを感じていた。
きっと、お姉ちゃんの願いは──
あの時のシーラお姉ちゃんは、もう死を待つだけというところまで病気が進んでいて、いちばん辛くて苦しい時期のはずだった。
生きるということ。
今、自分が生きているということ。
お姉ちゃんは、掛け替えのない終わりゆく時間の中で、わたしという奇跡に近い出会いがあったことを心の底から喜んでいたんだと思う。
残していく存在に対しての大きな罪悪感。死の予感。苦しみ、悲しみ、寂しさ。それらを胸の内に隠しながら、お姉ちゃんは微笑んでいた。
わたしは希望だったのだ。きっと。
弟を託すこと。弟よりも年下のわたしに。託すというのは、決して大げさじゃない。お姉ちゃんは、自分の死が近いことを知っていたと思うから。
なのに、お姉ちゃんは思いとどまった。
言って欲しかった。と、今は思う。
一日、一日が緩やかに流れ、現実は思い出に変わっていく。
それでも少年の傷は癒えなかった。
わたしのアースに対する想いは、日毎に増していった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
またこの夢
もう見たくない
こんな現実はいらない
助けて
だれか、助けてよ
シーラお姉ちゃん
アース
ごめんなさい……お父さん
わたし、悪い子だよね
ごめんなさい
わたし
頑張ったのに
突きつけられた現実が悲しすぎて
どうすることもできなくて
だから、祈り続けて
一生懸命、祈り続けて
一晩中、祈り続けて
願いは絶対に叶うって信じて
途中からなにも聞こえなくなって
目も見えなくなって
たぶん……死んでしまった──
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