犬の王

@snowgray

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 犬の王は、大きさこそ狼の王より一回り小さかったのですが、狼王の毛皮が月の色をしているのにくらべ、犬王の毛皮は太陽の色をしていました。

 そのため、金色の王、この世でもっとも美しく気高き王とも呼ばれていました。その姿をひとめ見ようと、その高らかに響き渡る声を聞こうと、海からも山からもそれぞれの種族の王がやってくるほどでした。


 かれらはみな犬の王の美しさをほめそやし、しかもその魂が気高いことを知ると、感嘆の声を上げ、かれこそが王のなかの王であるとたたえました。


 そのころ人の王は森を追われ、灰色のぼろを着て砂ばかりの大地をさまよっていました。かれは少しばかりの食べ物を得るために嘘をついたのです。そのことにより王権こそ奪われなかったものの、醜く卑しい種族としてあざ笑われる日々が続いていました。

 牙も持たず、強い力も持たない人の王は、口に入れるものを求めてさまよい、やがて草の一本も生えていない荒れ地で力尽き座り込んでしまいました。

 毛皮のかわりに巻いた布も、二本しかない脚の足しにと握った棒も、ぼろぼろです。人の種族は何も持たぬのだから、生きるためには嘘くらい仕方がないではないか、とそう思いました。なぜ神は恵まれた種と恵まれぬ種を作られたのか。不公平ではないか。

 神様に聞かれたら今度こそ罰を受けるようなことを心の中でつぶやくのでした。


 そこへ太陽の輝きを身にまとった犬の王が通りかかりました。かれは臣下をひざまずかせ玉座に座っているより、大地をおのれの脚で駆けめぐることを好んでいました。そしてあまりに力強く俊足であるため、森ではなく荒れ地を独り跳び駆けることも多かったのです。

「そこにいるのは、人の王か?」

 人の王はうなだれていた顔をあげ、金色に輝く相手を見つけました。いままで、遠くから眺めることしか許されていなかった気高き王が、手の届くほど近くに座っているのです。

 しかしいまの人の王にとって、なにより問題だったのは喉の渇きと空腹のことでした。とにかく気を引かねばならぬと声をあげます。


「犬の王よ、我が歌を聞いてはくれぬか?」

「歌だと? 人の王が歌うとは知らなかった」

 犬の王が怪訝な顔で聞き返したので、人の王はあわてました。かれら犬の種族はその高らかな美声で歌の道でも有名だったのです。

 遠く山を越えるほど力強く、それでいてどこか物悲しい歌声に、人の王も何度か涙を誘われたものです。

 だから、また嘘をつきました。

「歌とは、我が種族に伝わるまじないだ。効くかもしれぬし、効かぬかもしれぬが」

「それは面白い」

 金色の尾をひとふりして、王は美しく尖った耳をそばだてました。

 この機会を逃してはなりません。

「その前に一杯の水をくれ。喉が渇いて声が出ない」

「わかった」

 犬の王は一つうなずくと宙を駆けるような勢いで飛び出し、ほんのまたたき三回ほどの時間で水の満たされた木筒と、みずみずしい桃を一つ運んできました。

 人の王は水で乾いた喉をうるおし、桃にかじりつくと種までしゃぶりぬきました。すると今度は桃の甘さが腹にしみて、三日まともに食べていないことを思い出してしまいました。

「いや、やはり腹が減って歌にならない。なにか食べるものがないだろうか」

「わかった」

 犬の王はもう一度うなずくと、今度は藤のツルで作ったカゴに栗とブドウとアケビを山盛りに運んできました。

 人の王は木片をこすって火をおこし、驚く犬の王に笑いかけると栗を炭の上において焼き、その間に他の果物をすべて平らげました。

 そのあいだ、犬の王はずっと揺れる炎を眺めていました。

「人とは、火を使うのか」

「こうすると、栗は柔らかく甘くなります」

 人の王は栗を一つ取り上げ、殻を割ってから実を吹き、さましてから犬の王に差し出しました。

 犬の王は鼻面を近寄せ、もはや熱くはないことを知ると、静かにそれを口に含み、はじめて笑顔を見せました。

「ほんとうだ、とてもおいしい」

 炎はゆらゆらと大きくなり、小さくなり、金色の毛皮をさらにまぶしく飾り立てます。犬の王はその様子を眺めながらつぶやきました。

「私は、火とは悪いばかりのものだと思っていた」

 その様子があまりにも純粋な心持ちをあらわしているので、人の王もまた静かに微笑みました。

「私は、これを美しいと思います。触ることもできないのに、確かにここにある。ゆらめき、形を変え、熱い。まるで私たちの心のようではないですか」

 犬の王が黒い瞳を炎に向けたまま黙っているので、人の王は歌い始めました。すべて作り話でしたが、勇敢な王子と優しい王女の物語を歌いました。知恵深い老人が戦いをいさめる物語を歌いました。無邪気な子供が両親を救う物語を歌いました。

 犬の王は黙って聞いていました。そして三つの物語が終わると深くうなずいて「なんとすばらしいことか」と涙を流しました。

「あなたは明日もここにいるだろうか」

 人の王はうなずきました。どこにも行くあてはなく、かれを受け入れてくれる土地もない身でした。

「ではまた明日も来る」


 そうして次の日も、そのまた次の日も、犬の王は荒れ地にやってきては人の王と歌い、笑い、雨の日には岩陰にかくれて二人で眠りました。

 人の王はおそるおそる手を伸ばして犬の王の毛並みに触れてみましたが、かれは嫌がらずに目を閉じて、その手を受け入れました。


 犬の王が人の王に食べ物を運び、まるで幼い仔のように頭を撫でられている、という噂が王たちの間に広まるまで、さほどの時間はかかりませんでした。荒れ地にくる物好きなどいないので油断していたのですが、空を飛ぶ王のうちでもおしゃべりながちょうの王が、たまたま通りがかったようなのです。


 そしてある日、たくさんの種族の王が荒れ地に集まり、人と犬の王を取り囲みました。

 地上の種族の代表がほとんど集まってしまったのではないかというほどの数です。荒れ地はもはや生き物たちの議場となり、人の王はまた自分が弾劾されるのではないかと顔を隠して岩陰に潜り込もうとしました。

 そのような場にあっても、金色の王はうつくしく輝く四本の脚ですっくと大地に立っておりました。


「犬の王よ」

 中から狼の王が歩み出て声をかけました。ふだん他の種族に関わろうとしない銀色の力強き王が金色の誉れ高き王に話しかける様子を、他の種族たちは耳をすませてうかがっていました。

「我ら狼と犬とは兄弟種族だ。それゆえ貴公の行いは我らの体面にも関わるものとして言わせてもらおう。人という種族は嘘をつく。己の力弱さを克服することなく、もっとも恥ずべき行いをする。醜く、卑しい種族だ。これ以上かかわるのはよせ」

「みな、そう言うが」

 犬の王はわずかのためらいも見せずに応じました。

「力弱き種族ならば私が助けても良いではないか。かれの話は嘘かもしれないが、嘘のなかであっても良い行いは良いものではないか。私は心から感動したのだ」

 人の王は何も言わず、ただ顔を隠して震えるだけでした。その姿の無様さに、猪の王は唾を吐き、猿の王は歯を剥いてあざ笑います。

 しかし犬の王はひるみません。

「それに人は工夫を知る。火を使って木の実を柔らかくするなど、他のどの種族にできようか」

「犬の王よ」

 狼の王はいらだちで鼻面にしわを寄せながら唸りました。

「それが醜いというのだ。やつらはなぜ他の力を借りることをよしとするのだ? 己の脚、己の翼、己の爪牙を鍛え、痛みをもって己の実力を養わぬのなら、そのうつろな力は限度を知ることができない。いつか必ず他の種族をも巻き込んで自滅の道をたどるだろう」

 己の持って生まれた身体とさだめに誇りを抱く王たちは、狼の王の言葉にまったくだとうなずきます。

 しかし犬の王だけは、真珠のように白い牙を見せて吠えました。

「それこそ、虚実のわからぬ未来の話ではないか」


「愚かなり」

 銀色の王、凍てついた夜を司る獣の王はそう断じると、もはやふりむくことさえなく立ち去りました。

 王たちがひとり、またひとりと荒れ地をはなれ、やがて人と犬の王はもとどおり二人だけになりました。


「約束しよう」

 大地にふたたび静けさが戻ると、犬の王はぽつり、とつぶやきを落としました。

「我ら犬の一族は、その最後の一頭が息をしなくなるそのときまで、人の一族に親愛の情を抱き続ける。どれほど人の一族が疎まれようと、犬の一族だけはそばにいる」

「そんな約束は、おやめなさい」

 人の王はかぶりを振りました。

「人は欲深い。わずかな執着からいさかいを起こし、手に入れられなければ破壊したほうがましだとさえ考えます。しかしそうやって手に入れても、決して満足しない。何かを手に入れると、また次の何かが欲しくなる。己に充分な食べ物があっても他の者がより多くもっていればそれをねたみ、かといって他の者の苦しみからは目をそらす。そのように、神様は人を作りました」

 その頬を悲しみの涙が流れます。人の種族の戦いは残虐で果てしなく、それゆえに他の種族から疎まれてきたのです。

「それはあなたがたの業だ」

 犬の王は静かに答えました。

「どの種族もそれぞれに業を持ち、生きている」

 金色の毛皮は夕日に輝き、この世のなによりも美しい光を放ちます。

「我ら犬族の牙は鋭く、足は地の果てまでも走れる強さを持つ。我々の声は森を越え、山を越え、十の目を一つにして世界を見渡すことができる。我々は百の仲間と連携し、大地を支配することもできる。犬の一族が本気になれば、この地上では、虎や熊でさえもかなうまい」


「だが、我々の喜びは強さにはなく、知恵にもない。これが我々の業だ」

 そうして、人の王をまっすぐ見つめます。

「この世でいちばん大きいものを見にいこう。いちばん美しいものを見に行こう。それが欲だというのなら、我々はその欲にしたがおう。人がうれしいときに一緒に跳ね回り、一緒に驚き、一緒に怒り、悲しいときには傍で静かに丸くなる。ともに歌をうたい、眠り、旅をし、どちらかが死ぬときには別れを悲しみ思い出に泣こう。それが約束だ」

 人の王はただ呆然とたずねます。

「なぜ、そんな、益のない約束をするのですか」

 犬の王は苦笑しました。

「それを説明されなければわからないというのならば、きっと、説明してもわからないだろう。人とは、かわいそうな生き物なのだな」

 その体は小さく縮み、あのすばらしく輝いていた金色の毛皮は茶色く濁り、土のようにつやをなくしてしまいました。

「私は、あなたと一緒にいられるだけで、こんなにも嬉しいのに」

 彼は、二度と喋ることがありませんでした。あまりに軽率な、王にふさわしくない約束を結んだことで、神様に言葉と王権を奪われたに違いありません。




 しかしその黒く丸い大きな目は、変わらずに人を見つめているのです。

 昔も、今も。

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