賢者

 世界は三つの層で構成されると考えられている。


 人の生きるイシュ、魂の住処であるアゴラ、神や魔などが存在する別次元のキリクである。

 この三層は全く同一に重なって存在し、それがゆえに魂の剥離である死は唐突に訪れたように見えても、実際は隣家に足を運ぶがごとく魂がアゴラにその存在の場を移すだけのことに過ぎず、聖職者や呪者、魔術師と言った人間はそれらの行き来を感じ取ることができると言われる。


 肉体を離れた魂はアゴラへ移動する際にマゴスと呼ばれる不可視体となって、しばらくの間はイシュに留まっている。

 故に葬送儀礼とはイシュに留まる死者の魂をアゴラに移すための儀式であり、イシュやそこに在る肉体に想いを残すことなく移行できるよう喜びの中で送り出すことが良いとされ、葬儀は祭りと同義である。


 この魂の移行に目をつけた人間がいた。

 魔術師の祖と呼ばれるマゴイである。


 元はメチルバード地方の一部族でしかなかった彼らの中で、巫術者や占術者と呼ばれる職の者たちが、離れる魂はイシュと重なりつつも別の層に存在することでイシュを俯瞰できるであろうと考えた。そしてイシュで起こった、あるいは行われる事柄を巫術や占術または預言として引き出すことを生業としたのである。

 引き出すだけであった彼らの術を、イシュへの積極的な介入として能動的行動にまで落とし込んだのがザイド・アル・ワルディシャートであり、現在の魔術は部族の口伝でしかなかったマゴイたちの術を彼が体系化したことが起こりとされている。

 マゴイが活用したマゴスを、ワルディシャートによる体系術化によってイシュへ行使する人間が魔術師であり、当然のことながら彼らはイシュの生命を構成するマゴスを認識することに長けている。




 純粋な戦闘力だけであれば人外の勇者一人で済むところに賢者が同行したのは、そのマゴス認識を以て魔王たる存在の完全な消滅を確認する役割を求められたからだ。






 倒れ伏した魔王の体から離れる勇者と入れ替わるように、ゆっくりと歩みを進めた彼は魔王の遺骸を前に目を閉じると、漂うマゴスを認識しその存在の消滅を確認した。

 そうして振り返った彼の目に映ったのは、魔王と同じように磨き上げられた大理石の床に倒れ臥す勇者と聖女の姿であった。


 予想はしていた。

 聖女はその慈愛から、勇者はその臆病な愛情から、お互いへの罪悪感を抱えたまま旅を続けてきた。

 イシュを俯瞰するマゴスを扱う彼だからこそ、勇者と聖女の歪な関係を離れた場所から観察してきたのだ。彼らの抱える想いにも気がついてはいた。


 勇者は自己が希薄であるために他者を守護している。

 聖女は他者への憐憫のために自己を犠牲にしている。


 そうなってしまった、そうしてしまった人間たちを非難するつもりはない。そうでなければイシュを守ることができなかったであろうし、誰も喜んでそんな勇者と聖女を生み出そうとしたわけではなかったこともわかっているからだ。

 ただただ、間が悪かった。

 そんな彼らが生まれてしまったのが、ちょうどこんな情勢であった。

 故に聖女は自己を犠牲にしても他者への哀れみに祈りを捧げ、勇者は自己を他者に優先して確立することをせず、世界を救った。


 もしも彼と彼女が出会わなければ、こうしてアゴラへ旅立つことなくそれぞれが問題を抱えつつも救世の英雄と人類守護の聖女として魔王討伐後の世界にも名を成しただろう。人と同じ幸福を感じることはなかったかも知れない、自らを削るような人生だったかも知れない、けれどそれでも彼らなりの幸福な余生を過ごせたのではないだろうか。

 だから賢者が本当に成すべきだったのは、賢者の名を真に冠するのであるのならば、きっと二人を巡り合わせないことだった。

 もちろん、そんなことは出来やしないのだが。


 アゴラへの影響行使を主とする彼が、あくまでもイシュの存在たる彼と彼女に何かしらの関与ができるはずもなく、魔王討滅のサポートとして見守ることしかできなかった。

 こんな最期を予知していたからと言って、彼に何ができようはずもない。人の心は、イシュに存在している限り魔術を極め賢者と呼ばれるようになった彼にも、どうこうすることなどできようはずもないのだから。


 だからと言って何も感じない訳ではない。

 十年という長きに渡って寝食も苦難も共にしてきたのだ、彼らの間の紐帯には敵わないまでもそれなりの愛着も感じていた。

 願わくは、彼と彼女に幸いが訪れるように。

 そう思わない時はなく、毎夜のように祈りを続けてきた。

 それが叶えられなかったとは思わない。


 なぜならこれは、彼と彼女にとっての「幸い」なのだろうから。

 勇者ユーリは聖女アリスのために。

 聖女アリスは勇者ユーリのために。

 自らのためではなくお互いのために救いを求め、祈り、誓約した結果がもたらした彼らなりの「救い」に違いない。




 人がどう感じようと、勇者には勇者にとっての、聖女には聖女にとっての幸いというものがある。人という存在からかけ離れた彼らにとって、いやそんな彼らだからこそイシュに縛られる人には理解できない価値観があるのかも知れない。

 それはほら、彼らの幸福に満ちた微笑みに現れているではないか。

 旅の間ついぞ見ることのできなかった、他のために己を費やした彼らが初めて見せる、心からの幸福だ。

 それを汚すことも咎めることも、賢者は絶対に許容できない。愛おしく美しい、そして世界の何よりも哀しい二つの魂を、賢者は何よりも愛する。


 だからきっと、彼に出来ることはアゴラから二人を呼び戻すことではない。勇者と聖女が望み選んだ幸いを、祝福することなのだろう。

 寂しい思いはもちろんあるが、彼の寂寥感など多くのイシュに存在する人命と世界を救った彼らの思いに優先するようなものではない。

 聖女は勇者の解放を願った。

 勇者は聖女の救済を願った。

 その願いを賢者は、彼らの祈りの中でしっかりと聞き届けていたのだ。それが心からの願いであり、それが叶えられたことに幸福を感じていることに間違いないことも、彼は正しく理解している。


 故に彼のなすべきことはたった一つだ。

 聖女と勇者が辿り着いた幸福を、誰にも奪わせないこと。

 人はもちろん、神にすら。

 二人の魂を、幸福でいさせること。

 彼の望みはただそれだけだった。






 フードを取り天を見上げる。

 世界の真実を知る賢者が、初めて捧げる祈り。

 偶像の神に対して捧げるものでなく、真実の存在に捧げるもの。

 それは聖女の代わりではなく、司祭としてのものでなく、この世界の本当の姿と成り立ちを知る彼が彼として捧げる本物の祈りだ。


「主よ」


 世界は二つの層で構成されている。

 人や獣、魔や魂の存在するイシュルメタルと、それらを超越する創造主の在るメフルターシュである。


「我が父たる主よ」


 あらゆる存在を無から有にした創造主は、かと言って自ら作り上げたイシュルメタルに何らの力を行使する訳ではない。

 超常の存在としてただあるべきものをあるべきように見守り続けるだけだ。

 その存在から、


「我が母たる主よ」


 その滅亡まで、あらゆる事象はあるべき姿とあるべき形に集束されるというのが創造主の意思であり、魔王が勇者に倒されたとしても、魔王が人類を滅亡せしめたとしても、それはそうとしてそうなるべきだったのだという認識に収まる。

 聖女が受けた神託も、予めそう決められていたものに過ぎず、それはその実創造主の意思などではない。

 けれども広範な世界を認識する一助として創造主は、


「あなたの子たる、あなたの僕たる使者、ミハィエラが請い願います」


 作り上げた無数の世界に一人ずつ僕を遣わす。

 人の、世界の認識に介在しながらイシュルメタルのうちの一つ、アースと呼ばれる天球に遣わされた使者ミハイは、45億年の間はメフルターシュから眺めるだけであった。

 どこにもいない彼はその全てを見、全てを聞き、全てを知った。

 そんな在り様を変えたのは人が生まれ育まれ始めた1億年前。

 知性を理性に昇華させたのを見て創造主の意思を感じた彼が初めてイシュルメタルに降り立ち、人と共に在りながら創造主の端末として過ごそうと決めた時だ。

 数えきれない魂の流れをただ見てきた彼にとって、勇者と聖女の魂も大海の一滴でしかないし、一緒に過ごした十年も一億分の十の時間に過ぎない。

 けれどこの二人の魂にはそんなミハイですら惹かれる美しさがあり、それゆえに願わずにはいられなかった。


「僕たる私の、ただ一度の請願を行使致します」


 数という概念すら不要である創造主の世界と僕だが、超常たる存在がどれ一つとして聞き逃すことはない。

 だから彼は、僕に許されたたった一度の請願行使を実行する。


「穢れなき二つの魂に、イシュルメタルでの祝福を与え給え」


 ローブがふわりと揺れ、背中から真っ白な光の翼が生える。

 光の奔流が彼らを包み込み、広がり、天に昇る。

 しばしの後、ミハイの翼から光が収まり一枚の羽がゆらりと落ちると、勇者と聖女の遺体と共に消え失せた。


 それを見届けた彼は穏やかな笑みを浮かべると、ひとつの言葉を残してその場から消える。


「感謝いたします」











 王国には勇者と聖女の伝説がある。


 二百年前、大陸の南部で発生した魔物の騒乱を指導した魔王という存在があり、王国は聖女によって聖別された勇者を育成して討伐に向かわせた。

 人外の戦闘力を示す勇者に、預言と祝福を以て貢献する聖女、魔術で支える賢者の三人は各地で十年もの間魔族を討滅し、様々な苦労を経た後魔王城での激闘の末に魔王を滅ぼして世界を救った。


 だが勇者はその戦いで力尽き、聖女もまたそんな勇者に殉じた。


 ひとり、賢者はその二人を後世に伝えるため王国へ報告をした後、いづことも知れず姿を消した。

 かくして三人の生はこの世界を救ったのだった。


 そんなありきたりな御伽話である。


 けれど、単純で明快な物語なだけにこんな田舎でも子供たちに愛され、静かの日に教会で行われる説法ではせがまれた神父が毎週、少年たちにせがまれては勇者の活躍を、少女たちに望まれては聖女の献身を、いつでも同じ話を繰り返す。

 説法のひとつだから血湧き肉踊るような話ではもちろんないのだが、それでも娯楽の少ない辺境の村では数少ない子らの楽しみなのだ。




 その年の冬を乗り越えこれから忙しくなりそうな春の週末、王国の辺境にある村でも、いつものように神父の物語が終わって笑いさざめきながら少年少女たちが教会を出る。

 いつもなら畑仕事を手伝う時間帯だが、今日は静かの日、この後はそれぞれが好きなように過ごせる一週間に一度の楽しみの時間だ。

 まだ中天に差しかからない太陽はこの先楽しむ時間がたっぷりとあることを示し、そのことに胸を躍らせながら教会から走り出す子供たちを木々を揺らした緑の匂いが包み込む。


「やっぱり楽しいな、勇者の物語は」

 子供達の最後に出てきた少年が、誰にともなく呟くように言う。いつもは穏やかな瞳には、たった今聞いたばかりの勇者の活躍をその目で見てきたかのように映し出している。

「いっつも聞いてるじゃないの」

 出口で手を上げる神父に振り返り、ちょこん、と頭を下げた少女が呆れたような口調で返す。

 だが、彼女は彼女で聖女の話をせがんでいたことは自身の記憶からすっぽり抜けているらしい。

「まったく、子供なんだから」

「アリスだって子供じゃないか」

 不満げというほどでもないが、子供扱いに反論すると、

「私は成長してるもん」

「……成長?どこが」

 その声に、バカにしたような響きを感じ取った少女は立ち止まると腰に手を当てて胸を逸らす。

 そうしてむふふん、と笑う。


 少女より大きな少年を見下ろすように見るためにはそうせざるを得ないというだけであったのだが、隣同士で兄妹もしくは姉弟のように育った幼馴染には効果覿面であった。

 むっとしたような顔で、見下ろしてきた報復を実行する。

「なんだよ。いつも通りぺったんこじゃないか」

 揉めるほどない胸を、さわさわと撫でながら呆れた口調で言う少年の頭に衝撃が落ちる。

「痛ッ!何すんだよアリス!」

 視界に星が飛んだ少年が憤慨して言えば、真っ赤な顔をした少女も負けじと返す。

「バカッ!ユーリのえっち!変態!」

「は、はあっ?!変態とはなんだよ!」

「えっち大王!すけべ魔王!」

「だ、大王?魔王?」

 なんだその悪口は、と妙な罵詈雑言に困惑するユーリには当然のことながらアリスについ先日初潮が訪れたことなど知りようもない。

 だからその困惑も当たり前といえば当たり前なのだが、少年に先んじて一歩だけ大人に近づいたけれどもそれが体のことだけでしかない少女には、そんな少年の困惑を察してやるのはまだまだ難しいようだ。


 ぎゃあぎゃあと喧嘩しながら歩いて行く二人を、教会の扉から神父が苦笑して見送る。

 彼らが作る風に、教会の花壇に植えられたヒヤシンスが白い花を揺らす。


 この先あの二人がどうなるかわからないけれど、神の祝福があることだけは確かだ。

 だからきっと、どんな苦労も二人で乗り越えて成長して行くのだろう。

 それは人の営みとしてはとても長いが、イシュの流れの中ではほんのひとさしでしかない。

 それでも、とても美しく好ましいせせらぎだ。


 口元に微笑を浮かべた神父は、扉を開け放ったまま踵を返す。

 今日は静かの日だし、とても穏やかな気候だ。

 訪れる人間には常に扉は開かれる。

 そんな教会の信条を、こんな穏やかな日には体現しておくことにしよう。


 講堂を進んで祭壇の前に立った彼は、奥の大きなステンドグラスを見上げる。

 魔王討滅後の創造主たる神の降臨伝説を基に描かれた抽象画をモチーフにしたそれが、実のところ創造主でないことを彼は知っているし、それゆえに見上げる度に面映ゆい。


 だって、降臨しているのは自分自身なのだから。


 司祭たる自分とはまるで似ていないから、誰からも指摘されないことが少しだけ不満なのか安堵なのか。


 そんな気持ちにも、思わず笑いが出てしまう。

 気恥ずかしさを誤魔化すように、元賢者は呟いた。




「我が主にして父にして母よ。子らに幸いあれ」

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聖女が死んだ 皆川 純 @inu_dog

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