勇者
勇者が死んだ。
辺境の寒村で生まれた彼が勇者として見出されたのは少年の頃であり、貧しい村で食うにも困る生活の中で両親は喜んで彼を王宮からの遣いに差し出した。それは神託の勇者であるという慶びよりも、口減らしをしつつ褒賞を手にすることができた現実的な喜びの方が強いものであり、それ自体は彼にとってもこんな暮らしの中では当然のものであろうと納得できるものだった。
この先の生に希望も期待もなく、ただ開墾に明け暮れては僅かな食料を口にするだけの人生が、たった七歳の少年を年に似合わない醒めた観相にさせる。
それゆえに自分を差し出した親兄弟に何ら思いを残すことはなく、実際に王都での訓練を経て魔王軍討伐の旅に出る頃にはその相貌すら曖昧になっていた。
自分が情の薄いことは何となく理解していた。兄弟たちが楽しそうにしたり辛そうにしたりするのを見ても、何ら共感できなかったからだ。
そんな自分を異質だと思うほど比較対象があった訳ではないが、兄弟という身近な存在と比べてみただけでも、ただ血を分けただけであってその在り方が同じだと表現することができないことくらいは理解していた。
だが、彼は聡明であったがゆえに、異質な自分を異質なまま集団に置くことに問題があることもわかっていた。
だからできる限り自分というものを持たず、兄弟が笑えば笑い、兄弟が泣けば泣き、兄弟が夢を語れば同じ夢をなぞった。
他に何もなかったから。
なぜ嬉しいのか、なぜ辛いのかもわからないまま周囲の人間を模倣する彼は、きっと後で一党となった賢者から見ればそれこそ異質なものと判別されたかも知れないけれど、幸か不幸か田舎の寒村にそんな洞察力を持った人間はいなかった。
故に彼は彼でないままだった。
それが不幸だと思うことすらなく、貧しい生活に何を感じることもなく、ただ生きてきた少年は七歳で王都に召された。
初めて聖女を見たのは、王城ではなく大聖堂だった。
王城での出来事は正直なところ何も覚えていない。いや、記憶くらいはしているがそれに何ら意味も価値も見出せていないから、覚えていないのと同じというだけだ。
国王はじめ、王族や貴族、果ては連合軍を組むのだという自分の出身国である帝国の使節やその他大勢の国使たち、そんな大人に囲まれて様々な声を掛けられた。
ある者からは期待を。
ある者からは賛辞を。
ある者からは祝福を。
ある者からは憐憫を。
その一言一言だって記憶はしているけれども、きっと二度と思い出すことはない。その必要もない。彼の王都での記憶の始まりはそこではなく、顔合わせとして連れて行かれた教会の大本山、大聖堂での聖女との出会いから始まるからだ。
彼は異能の力など持っていない。
ただ神託で選ばれただけだ。
それがなければただの田舎の成長不良な少年に過ぎず、だから人から向けられる好意や害意を聖女をはじめとした聖職者たちのように神の御業を借りて感じ取っているわけではない。異能ではないまでも類い稀とは言っても良い観察力と、人の感情と共に漏れ出す匂いや雰囲気を感じ取って推測しているだけ。
自分というものがないからこそ出来ることなのかも知れないが、今までそれが役に立ったと思うことはなかった。
のけぞり倒れてしまいそうな大きな建物の中は、外観からのイメージと違わずとても天井が遠い。
高さだけではない。
こんな巨大な人などいないだろう、と間の抜けた感想を抱いてしまうような扉が開かれ、講堂の奥にある祭壇前に立つ人すらやけに遠い。
先導の騎士に導かれながら足を踏み入れる。静かな講堂に騎士の鎧ががちゃがちゃと響くのが似つかわしくなく残念だと思った。
装飾の施された長椅子が連なる間を抜け、半分ほど来たところに立っていた聖職者が騎士に替わってその先を案内する。黙って立っていた聖職者に、同じように黙ったまま脇によけて立った騎士を見るに定められた作法なのだろうか。
普通ならば荘厳な雰囲気と静謐な空気に気圧されてしまうのだろうけれども、彼が感じたのは靴音も静かで良いなという程度でしかなかった。聖職者は柔らかそうな法衣で足元も皮の靴だったし、少年もまた田舎を出た時に支給された木靴のままだったから敷かれた織物はすべての音を吸収してくれた。
残り半分の通路の半ば、そこまで差し掛かったところで初めて少年は祭壇に注意を向けた。
学のない彼には何が示されているのかわからないけれど、複雑で美しいステンドグラスが天井近くまで伸び、その前に少女が立っている。
白い法衣は同じだが、案内している聖職者よりも華麗な装飾が施されているし、被っている帽子も前を歩く彼のぺたりと頭に沿うようなものではなく彼が見たこともない冠のような高いものだ。
少女の華奢な体躯には重そうなその服飾は、見る人が見れば教皇と同列のミトラであると気づき跪いたのだろうが、生憎と彼はまだそういった知識を授けられていなかった。
だから目に入ったのは少女そのものだ。
より正確に言えば、受けたことのない少女の感情だろうか。
一人の人間に向ける思いは、その場においては大凡ひとつの感情となる。
けれど壇上から降りてきた少女は、彼にすら判別つかないほど混在した複雑な感情を持って歩んで来た。
常に一対一の感情に沿って自分を動かして来た少年は困惑する。同時に、渾然とした感情を纏う彼女の前でだけは自分という何かが浮きだされるような気もした。
黙ったままの彼に、聖女であると紹介された彼女はアリスと名乗ると七歳である彼より少しだけ上だった目線を同じ位置まで下げ、躊躇いがちに手を取り一言二言声を掛ける。
その言葉は記すまでもない、初めて会った人にかけるありふれたいくつかの定型句でしかなかったが、少年にはきっと永遠に残る言葉であろうと感じられた。
それは彼が、勇者になった瞬間であったのだから。
大聖堂を擁するが故に連合軍の本拠とされた王都で、勇者になるための訓練が始められた。途中、賢者として召喚された青年とも合流して連携の訓練なども行なったが、聖女であるアリスとはさほど会う機会はなかった。それもそうだろう、勇者と聖女では求められる役割も違えば積み上げて来たものも、これから積み上げるべきものも異なる。
勇者の一日は午前中の座学による語学、数学、歴史や作法など。そして午後は戦闘訓練とほぼ変わりない日々を繰り返す。
対して聖女は、早朝の大陸全土に向けた祈りに始まり病院での癒しやその他の聖務だけでなく、王侯貴族との会合などその日その日で様々な予定が組まれている。
居住しているのも大聖堂で聖職者に囲まれて過ごす聖女と、連合軍司令部となっている王国軍務省の一隅では出会う機会が少ないのも当然だった。
常に周囲を映し出してきた彼は、充てがわれた指導兵が良かったのであろう、僅か数ヶ月で人間の訓練相手に困るほどの強さとなり剣、槍、弓、戦斧、鉄槌などあらゆる武具を使いこなした。
相手がどのような武具を持ち自分の得物が何であろうと臨機応変に戦法を変えることもすぐに体得し、その強さは連合軍随一の武勇を誇る将軍をして「棒切れを持った勇者に国定武具を以てしても敵わない」と言わしめるまでそうかからなかった。
宮廷も軍も驚嘆した彼の武技はけれど、彼にしてみれば勇者として当然と思われたからそうしたというだけでしかない。
人々が勇者ならそうできる、と思ったから出来ただけだ。
それの何が難しいことなのか、何故そんなことが賛美されるのか勇者にはまるで理解できず困惑を深めたが、その困惑すらそういうものであろうと考えることですぐに霧散した。
そんな日々を過ごす中、一度だけ聖女を見かけたことがある。
勇者の成長を報告するために帝国の軍官に連れられて王宮へ足を運んだ時だ。
右手に草花が咲き誇る中庭を眺めながら広大な王宮の明るい外廊下を歩いていると、向かいから数名の聖職者と王国騎士に守られた聖女が進んで来た。顔合わせはしているし、勇者と賢者の訓練が完了次第同じ一党を組んで旅に出るとは言え、数ヶ月前に一度会ったきりだ。大勢に守られていることや、引き連れた聖職者たちと異なる法衣にミトラを見ずともそれが聖女であることはすぐにわかったが、ちらと軍官を見れば脇に避けて軽く頭を下げているだけなので彼もそれを真似て黙って見過ごそうとした。
が、それは軍官の立場だからそうしたのであって、聖女と同列の勇者が同じようにする必要はなかった。それが証拠に聖女が足を止めると同時に彼女を取り巻いていた聖職者と騎士も、軍官と同じように廊下の端に寄って頭を下げる。
一斉に止まった足音に、頭を下げていた勇者はどうしたのかと思ったが、頭上からかけられた柔らかい声に目をあげる。
初めて会った時と同じ、様々な感情を含んだ眼差しで見つめてくる聖女と目が会った。
視線の高さも変わらない。
ただ場所を変えただけで、さほど多くない会話も。
そして何より、軽い挨拶程度でしかないが勇者がその内容を忘れないであろうことも。
ただひとつ違うと言えば、その日の聖女からは微かに花の香りがしたことだろう。
顔を上げた途端、ふわりと鼻先をかすめた香りに中庭のものだろうかと思ったがすぐにそれがヒヤシンスであり、見て来た限りでは中庭に咲いていなかったことを思い出した。田舎にいた頃から野の草花については知っていたが、王都に来てから食用にならない花の知識も座学で受けた甲斐があったと思う。
そのまま数語を交わしただけで聖女は廊下の向こうへ消えたが、勇者は軍官に促されるまで残り香を感じるかのように立ち止まっていた。
ヒヤシンスの花言葉が「あなたのために祈る」であることなど後から作法の担当教官から聞いて初めて知ったが、その時彼が思ったのは聖女のためには誰が祈ってくれるのだろうということだった。
市井の民が信仰として聖女に捧げるものでなく、人として、アリスという少女として彼女は誰に祈ってもらえるのだろうか、と。
そう思った時、彼は初めて自分の内から発する感情を得た気がした。
誰からも祈られない聖女アリスは、人のために祈りを捧げる。
それは何て歪で、何て哀しい在り方なのだろうか、と。
すぐに消失してしまうような微かな痛みではあったけれども、その思いは確かに勇者が感じた彼だけの思いだった。
訓練期間を終えた後、勇者と賢者は聖女と合流して式典に参加、そのまま王都を旅立った。
賢者は勇者よりも遥かに年上で、彼にとってはまさしく大人であり共に訓練に参加する内ある程度打ち解けるようになったから、未だよく分かっていない聖女を加えての旅にもさほど心配や不安はなかった。
人類の希望として魔王を打ち倒すべく召命された勇者には、それまでにも様々な人が接して来た。向こうが一方的に話してくる分には何も問題はなかったが、中には勇者のことを聞いてくる質問もあってそれには参ってしまった。
答えたくないわけではなく、彼には答えれらないのだ。
何が好きなのか。
どんな思いで受命したのか。
辛いことはないか。
楽しいことは何か。
わからない。そんなことわからないのだ。
質問をされるたび、近くに賢者がいる時はそれとなく話題を逸らしたり自らが渦中に入ったりして助けてくれていることには気づいていた。明確に感謝の言葉を口にしたこともあるが、賢者は何のことやらと曖昧に笑って済ませるだけだったので、そのうちに彼の好意に甘えることが普通になった。
そんな賢者だから、自分を表現できない勇者から何かを引き出すことも上手い。
だから聖女のことについても、勇者が感じていることをかなり正確に把握してくれていると思われる。
苦手という訳ではない。
賢者ほどではないが聖女もまた彼にとっては大人だ。年齢だけでなく、その立ち居振る舞いを含めた存在の在り方が。
風のように他者としての存在を散らせる賢者と違い、水面のように彼を映し出す聖女は彼女の感情で、彼に聖女をどう受け止めれば良いのか苦慮させてしまうのだ。
誰かに合わせて自分を成立させることが、これほど難しいと感じさせられる相手に彼は未だ出会ったことがない。
彼女に映る自分がよくわからない。
それなのに、彼女と向き合っていると自分が浮かび上がってくるような気がする。
もちろん、それはそんな気がするだけで勇者が勇者のことを知ることになど繋がらないのだが、だからこそ不安になってしまう。
彼女が彼を勇者にする。
神託でも期待でも希望でもなく、受け止めきれない聖女の思いの複雑さや深さが彼を否応なく勇者にしてしまうのだ。自分が何であるのか、どう振る舞えば良いのかを不明にさせ、だから勇者にならざるを得ないと言った方がより正確かも知れない。
しかもそれは誰かの望む勇者の姿ではなく、彼自身が思い考え望み応える必要があるということが、今までそういったことをしてこなかった少年をより困惑させる。
なのに聖女は勇者に勇者を求めて来ない。
ただ、複雑な色を浮かべた翡翠のような瞳で彼を見つめてくるだけなのだから、勇者にとってこれほどタチの悪いことはないのだ。
だから彼は聖女と目をあわせられない。
何を話せば良いのかわからない。
賢者が間に入ってくれなければ、一般的な人付き合いをしない勇者と聖女では不自然なものになってしまっただろう。
勇者は賢者のそんな立ち回りに多いに感謝しており、どうやら聖女もまた同じであるようだ。
お互いがお互いをガラス細工に触れるかのような、慎重というより臆病な距離を取りながら彼らの旅は始まった。
旅立ってからしばらくは人間の領域を回っていたから聖女の聖女たる姿を見る機会は日に一度の祈りの場面しかなかったが、いよいよ魔王国の領土に足を踏み入れ、飲み込まれた国々の解放に手をつけてからは戦闘が増えたことに伴って、聖女が聖女らしい役割を果たす場面を目にする機会も増した。
軍の拠点としている貴族の館や奪還した国の施設で行うこともあったが、野営地や仮設拠点などで祈りや癒しを行うことが多い。
初めて聖女に会った王都の大聖堂のような尊厳な場所ではないことに連合軍の司令官や癒しを受ける兵たちは恐縮しきりだったが、聖女はそんなことに一切構わなかったしそれを見ていた勇者もまた、粗末な仮組みの小屋や野ざらしのキャンプ地で聖務を行う姿が、なぜかより彼女らしいと感じた。
とは言え、聖女の勤めは戦いの前後が多く、勇者や賢者は戦いそのものが勤めである。戦闘前の祈りはともかく戦傷者への癒しや戦没者への祈りは彼自身が最前線で疲れ果てていることもあって、あまり目にする機会はなかった。
だが、少ない機会ながらも見かける度に王城の廊下ですれ違った時に感じたことを思い出していた。
だから何だという訳ではないのだが、聖女が誰かのために祈りを捧げる姿を見ることが彼は好きではなかった。
むろん、それが聖女の大切な役目であることは理解しているし、彼女の癒しがなければ苦しむ兵が救われないこともわかっている。
それでも、なぜ彼女が、とそう思ってしまうのだ。
元来表情が豊かな訳ではないし顔に出してしまうようなヘマをした覚えはないが、さすがに賢者には見咎められ苦笑を浮かべて肩を叩かれることもあった。
その都度はっとして普段通りの態度に戻したが、そうやって溜めてしまったのは不味かったのかも知れない。
その日の戦闘は激しかった。
大公国の奪還が見えてきたことは、魔王国からすれば劣勢を認識せざるを得ない状況だ。故に押し出して来た軍勢は大軍かつ精強であり、ここまでかすり傷一つ負わなかった勇者も敵本隊への斬り込みに先陣を切ったことで手傷を負ってしまっていた。
明け方すぐに始まり陽が落ちてようやく止んだ激戦は、突出した勇者を救わんと死物狂いで突き進んできた連合軍のあまりの有様に傷を深くすることを厭った魔王軍が、するすると後退したことで結着した。
両軍ともに兵を減らし、退いたとは言え元の陣に戻っただけの魔王軍も、疲弊しきった軍で前進もままならなかった連合軍も、暫く動ける状態でないことは明らかでどちらが勝ったと言えるものでもなかった。
勇者の傷を見た賢者はすぐに衛生兵を呼び、自らは兵に癒しを施す聖女の様子を見に行く。その後姿を見ながら、開戦時に大規模攻勢魔術を撃ち込み、その後ほぼ半日の間ずっと勇者や軍勢に組み込んだ防御術式維持を行っていたというのになぜ動けるのか、とやや呆れつつ手当を受けていた。
後に残るような傷ではなかったが、ほぼ怪我などしない勇者の手当ができることに緊張しているらしい兵の興奮したような言葉を聞き流しながら、ふと視線を感じて顔を上げる。
少し離れた場所で、篝火に照らし出された聖女と賢者が言葉を交わしたかと思うと、普段よりも引き締めた表情で聖女がこちらに向かってくる。
テントに入り切らない軽傷者があちこちに横たわっているから、相当な癒しを行使したのだろう。
彼女も疲れているだろうから、と普段と違う聖女の表情に納得しながらぼんやり眺めていると、眼の前にやってきた聖女は手当をしていた衛生兵に言葉を掛け勇者の傷に手を翳す。
まさか自分に治癒を、とやや顔色の悪い聖女に術を用いるまでもないと断ろうとした勇者だったが、彼女の引き結ばれた口元に何かの決意を感じて口をつぐむ。
そうだった。
他人のために動ける彼女だから、彼は勇者になったのだ。
存在の薄い自分が勇者になったのは、他人しか映さないその瞳のせいだ。
およそ十歳の思考とは思えないが、大人の思考を反映させてきた勇者は冷静に自分と周りを認識していた。だからこの思いも自分のものではないかも知れない、そんな危惧に彼は微かに震える。
いつだってそうだ。
彼が彼自身に疑いを持つとき、必ず彼女がいる。
いや、存在を反映させてくれない彼女こそが、彼の自らへの猜疑心の原因だ。
似た存在なら賢者もいるが、彼は勇者の心をざわつかせない。それは大人の経験などではないことに勇者は気づいていたが、戻れなくなりそうな賢者の深淵を覗くことに躊躇いがあったし、そこまでさせようという気持ちを抱かせないことこそが、賢者が賢者あたる所以なのかも知れない。
彼女のつかみきれない感情だけが、彼を不安にさせるのだ。
理由はわからない、だから解決法もわからない。
けれど出会った瞬間はもちろん、旅立った頃に比べてもその不安が嫌なものでなくただの存在への不安でしかないことは、きっと駄目なことではないのだろうとも思う。
賢者だってそう言っていた。
自分を他人でただ埋めているのではなく。勇者たろうとするだけでなく。聖女にとっての勇者でもなく、アリスとユーリという存在の距離と有様から自己を確立しようとする心の成長なのだ、と。
彼の言葉はいつも今ひとつ意味のわからないことを含んではいるが、決して間違ったことは言わない。それくらいには賢者のことを信じている勇者だ。だから今もこうして手当を受けながら賢者の助言を思い返す。
勇者という自分を消したとき、残った思いで聖女に接すれば良い。
きっと聖女もまた、勇者ではなくあなたに接する思いでいるのだから。
患部を包んでいた柔らかな光が弱くなる。
見れば、裂傷はかさぶたのような盛り上がりになって、痛みもすっかり消え失せていた。真剣な表情の聖女アリスはじっと患部を見つめ、ふと視線に気づいたように顔をあげた。
そこには聖女としての顔ではなく、アリスとしての思いが浮かんでいるように思えて勇者は思わずお礼を口にする。
おかしなことだ、今の今でも治癒という聖女にしか扱えない奇跡の力を受けていたと言うのに、なぜかその表情は聖女ではなくアリスにしか見えなかったのだから。
やはり賢者の言うことは正しいのだろう。
そう思った彼は紡いだ言葉のままに表情を緩める。
聖女は驚いたような顔を一瞬だけ見せた後、見たことのない感情を纏わせて微笑んだ。
いよいよ大公国の復興が成り、連合軍との合同会議で決まった戦術に基づいて魔王国への侵透作戦が始まる。
戦いの激しさは変わらないが、それでも大軍を擁して亀の歩みのように慎重に安全を確保しながら橋頭堡を築くのだから、勇者一党にとっては今までより格段に楽であるはずだった。
けれど実際は、人に囲まれれば囲まれるほど精神をすり減らしてしまうような状況であったのだ。聖女や賢者がそのことについて頭を悩ませていることは知っている。
だが実のところ、勇者は以前よりよほど気楽に思えていた。
自分は自分を勇者として作り上げていれば良いのだから。
誰かが彼を勇者たらしめるのであれば、自分は勇者であろう。その誰かに聖女も含まれているのなら、それこそ悩む必要などない。
相変わらず聖女の思いは複雑で彼にははっきりとそれとわかることはなかったけれど、少しずつ霧が晴れるように聖女のことがわかるようにはなってきた。それは彼の中で変わって来た何かの象徴でもあったが、彼自身が自覚している具体的なものではない。
勇者になるまでの七年間に比べれば、自分のことを話せるくらいに彼を構成する色々なものが積み重なってきたし、それに伴って聖女や賢者に自分から口を開くことも増えてきた。
彼自身が自覚できる何かとは、その程度だ。が、何もなかった今までに比べればまるで別の存在になったかのような心の軽さを感じていた。それが彼の口を軽くさせ、自分のことだけでなく聖女や賢者の話を聞こうとさせる。
彼ら勇者一党の間には今までのような重苦しい空気はなかった。
そうか、こんな簡単なことだったのか。
そう思う勇者だったが、聖女や賢者はそれだけで心まで浮きたたないようだ。
周囲を囲む兵や従軍関係者から漏れ出す負の感情には、もちろん勇者も気づいている。彼にとっては彼を構成してくれていた彼らに感謝はするが、聖女と賢者さえ居れば自分を固定できる今となっては用済みでしかない。
だから何も気にならない。
今までよりも気楽な状況に楽しみすら覚え余裕ができたように感じている勇者を置いて、けれども二人はそれが納得できなかったようだ。
それとなく勇者を軍から遠ざける。
それはすでに用もない彼にとってあまり意味のあることと思えなかったが、今の勇者には二人のその行動がどんな感情から来ているのかがわかる。
それは素直に嬉しいと思えるものだった。
敢えて謝絶する必要もない、そう考えていたが同時に彼らが何を危惧しているのかということも理解はしていた。
そう、もはや人間社会に彼らの居場所はないのだ、ということを。
より正確に言えば、魔王国を討滅し得た後、彼らの居場所はなくなる。勇者として、聖女として、賢者としての特異な力も失ってしまうのならば紛れ込むこともできるだろう。けれどそれは、権力者にとっては何の魅力も残らないということに他ならない。
逆に異質な存在として在り続けた場合、国や貴族にとって用を成すことができるけれども、民衆にとっては何の益もない力だけが残ることになる。権力者とていつまでも理解できない力を使うことに不安を感じないとは思えない。
だからどう転んでも、この世界にはもう彼らだけなのだ。
彼を彼としてくれるのは、聖女と賢者しかいないのだ。
勇者はそれで良いと思っている。
元々何かの意思や思いがある訳ではない。もっと言えば、自己をはっきりと持ったこともない。
だから他人に映る勇者の姿を模していただけだ。そんな世界に彼が何かしらの思いを残すこともなければ、望みを抱くことも恨みに悩ませることもない。
世界がいらないというのであれば、こちらも捨てれば良い。
そんな彼でもひとつだけ、座視できないことがある。
聖女のことだ。
勇者はそれで良い、今までだってそうしてきた。
自分は何者でもない。
ただこの存在を、誰かが用いるのなら用いればよく不要なら捨てれば良い。きっとそのために生まれたのだろうし、聖女の言う「魂の漸減」にも恐怖はない。そのことに何の感情もない。
賢者はその尊称を伊達に受けている訳ではない。
彼はどんな世界であっても魂を損なうことなく在り続けるだろうし、他者や世界との狭間でどう存在するのかを確立している。
賢者とは、世界でどう存立するのかを持ち得た者の尊称だ。
だが、聖女はどうだろうか。
複雑な感情故に勇者を惑わせ、同時に勇者の自己を確立させた彼女は、魔王国領域への進軍を始めた頃から感情の霧が晴れたように勇者には見えていた。いやもしかしたら彼こそが変わったからこそ、聖女を見ることができるようになったのかも知れない。
いずれにしても魔王城が目前となった今、勇者にとって聖女は靄を払拭した清浄な存在として見えている。
だからこそはっきりとわかる。
彼女はこの先の世界でも、きっと誰かのために自分を使い続ける。彼にとっては何でもない「魂の漸減」に苦しみながら、それでも止まろうとはしない。
そんな彼女を異質なものとして排除しようとする人間世界なのに、そんな世界のために彼女は使い潰されてしまうのだ。
許容できない。
そんな未来は容認できない。
はっきりとわかってしまう未来が、彼にとって最大の苦痛であり懊悩だ。
十七歳になろうかという年齢で、初めて抱くことの出来た自分だけの感情。
人間に対する憤り、聖女に対する憧憬。
それを抱えたまま消えることに躊躇いはない。自分の生が惜しいとも思わない。
けれども、人のために祈る聖女が誰からも祈られないことは許せない。
彼らが斬り拓いた野営地で、なのに軍勢から離れた位置でキャンプを張る勇者一党は、風に乗ってくる兵たちの言葉を爆ぜる枯れ木の音に紛れさせた。
聖女のために祈らない人間などは要らない。
それは勇者という自分を象るに必要なものではない。
すっかり旅慣れた様子で焚き火の傍で横になる聖女アリスを眺める。彼女を挟んで向こうには、賢者が杖を抱えたままうつらうつらと船を漕いでいる。
いつもの三人は、もう数日後に控えているであろう魔王城での決戦に何を気負うことなく普段通りの夜を過ごす。
たった一つ違うのは、勇者が決意したことくらいだ。
そうだ。
自分は彼女のためにある。
聖女の祈りのために、聖女の願いを叶えるために、そのためだけに存在する暴力装置。
神を知らない自分は、聖女のために祈ることはできない。
であるならば、聖女を守護する暴力で良い。
ただそれだけの存在で良い。
最後の一言を呟いた瞬間、ぱきりと焚き木が小さな音を立てた。
魔王の領域と言え、何かが変わるものでもない。
人っ子ひとりいない城下町を歩きながら、勇者は威容を誇る魔王城を見上げた。
魔王軍も血戦となることを理解していたのだろう。魔王都の手前からは軍勢の姿もなく、都に入れば住民の姿も見えない。少し前まで誰かが住んでいた感覚はあるから、決戦を前に避難させたと見える。
国は民あってのもの。
人間の領域に侵攻したとは言え、魔王は魔王ながらに民のことを考え慮り国を経営してきたことが感じられる。
風に煽られた木札が軒から落ちて乾いた音を立てた。その音を聞きながら目線を上げれば、大通りから真っ直ぐ城が見える。
人の気配が落ちたこの都でも、そこに魔王の存在があることが勇者にははっきりと見えている。
自らの出身地である田舎の寒村と訓練期間を過ごした王都、復興の手助けをして拠点として用いていた大公国の公都くらいしか勇者は知らない。それでも魔王国の王都はそれらに比べて遜色なく、建物や通りを見ても文化レベルはむしろ高いと感じた。
もしかしたら、人間は魔王に統治された方がマシなのかも知れない。
ふとそんな思いが過ぎるが、だからと言って歩みは止めない。
魔王を討伐することを止めるつもりもない。
もう勇者の思いは定まっている。
この程度のことで揺らぐようなら、そもそも勇者になどなっていない。
魔王は倒す。
聖女を救う。
勇者ユーリの成すべきことはそれだけだ。
そのためだけに、彼は勇者になったのだ。
どうせすり減って消えるだけのこの生も魂も、もう要らない。
───聖女アリスの魂の安寧のため、勇者ユーリの全てを捧げることを誓約する。
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