第38話 それは突然やってくるもの(5)
「此方の喫茶店で暖を取ることに致しましょう」
ヴェルザがハルジを軽々と引き摺ってやって来たのは、第五公営霊園近くの喫茶店。以前から、墓参りに訪れると此方に立ち寄ることが多いのだと彼女は言い、慣れた様子で店の扉を開けた。
(……温かいなあ)
コーヒーの香りが漂う喫茶店の中は暖房が効いている。足を踏み入れた途端に体が溶けていくような感覚に襲われて、ハルジは思っていたよりも自分の体が冷えていたことを知った。
「此方の席に致しましょうか」「はい」
空いている席にどうぞ、と、整えられた髭が印象的な白髪の店主に促され、ヴェルザはざっと店内を見渡す。ゆったりとした時間を求めてやって来た客は疎らに席に座っており、幾つかの空席を直ぐに見つけられた。彼女は冷気が伝わってくる壁側に座り、暖房の熱が届きやすい通路側にハルジを座らせる。
「先程はくしゃみをして、流されるままに此方へとやって来て、有耶無耶にしてしまうところでしたが……ステルキ准尉にお尋ねします。どうかされましたか?」
「どうかしていると仰られますと?」
「ステルキ家の墓所で、貴女の様子がおかしかったので尋ねました。若しかして体調が優れないのではないかと」
「う~ん、私はいたって健康そのものですし、体調が優れないのはカウピさんの方ではないかと思うのですが……御心配頂きまして、有難う御座います?」
おかしい、話が噛み合わない。兎にも角にも落ち着いて、頭の中を整理しよう。
丁度良い間で注文していたコーヒーが席に届いたので、ハルジは迷うことなく角砂糖を多量にコーヒーにぶち込むと、一口飲んで、満足気に頷いた。とんでもないものを見てしまった、とばかりに瞠目していたヴェルザも砂糖は入れずに、コーヒーの香りと味を愉しむ。
「カウピさんは私の様子がおかしかったと仰っていましたが、どのような時に思われたのですか?」
「ステルキ家の墓石を凝視して、表情を強張らせていたので、ステルキ准尉は何かを我慢しているのかと考えました」
「ああ、成程……」
最後の最後までどうしようかと悩んでいた瞬間をハルジに見られていたのだと知り、彼女は困ったように笑う。
「このまま心のうちに留めておこうかと決めていたのですが……あの時、決意が揺らいでしまっておりました」
あの場所では憚ったことを、今この場で吐き出してしまっても良いか。弱さを見せてくることがないヴェルザが弱さを見せてきた。ハルジは「貴方の心の負担が軽くなるのであれば、僕は耳を傾けます」と告げて、目を伏せた。
「初めに申し上げておきます。判断材料が少なく、且つ、私があれこれとこじつけて決めつけてしまっている可能性がありますので、断定はできません。……私は、若しかするとトゥーリッキの実母と思しき女性に出会いました」
コーヒーの良さを殺した、甘い甘い何かを口にしていたハルジは噴き出しそうになる――が、寸でのところで踏みとどまるものの、盛大に噎せた。介抱しようとするヴェルザを手で制し、ハルジは何とか呼吸を整える。
「それは、一体、いつの、ことですか?」
「トゥーリッキが亡くなる一週間ほど前のことでした」
その日、ヴェルザの職場であるグロンホルム駐在所にて、迷子の少女が保護された、年の頃は七、八歳くらい、身につけている物から比較的裕福な家庭の子供であると見受けられる、可愛らしい少女だった。泣きべそをかいていた少女が落ち着くのを見計らってヴェルザが名前を尋ねてみれば、少女は「トゥーリッキっていうの」と返してきて、ヴェルザは驚く。そして丁寧に質問をしていった結果、小さなトゥーリッキは両親に伴われて商店街にやって来たこと、気が付くと両親を逸れてしまったこと、不安に駆られて両親を捜すうちに迷いに迷って座り込んで泣いていたところを、巡回していた隊員が発見し、保護されたことが判明した。
グロンホルム駐在所から近い商店街といえば、スヴァンヒルド通り商店街が該当する。先ずは其処を中心に隊員たちに聞き込みをしてもらうこと小一時間。運が良いことに少女の両親が見つけられた。隊員に連れられて駐在所にやって来た少女の両親を目にして、ヴェルザは酷く動揺したのだ。
「迷子の少女のお母様が、あまりにも私が知っているトゥーリッキに似ていたのです。これから年齢を重ねていけば、あの娘もこのような婦人になるのではと想像してしまうほどに」
この女性はトゥーリッキの血縁者か、はたまた他人の空似か。その時のヴェルザは、その疑問を口に出すことはしなかった。
――幼い子供から決して目を離さないように。今回は大事に至らなかったが、ほんの少しの油断が不幸を招くこともあるのだから。
望まない永遠の別れは突然やって来るのだと知っているヴェルザは厳しい口調と声音で、少女の両親に注意をした。
『命を落とすような危険な目に遭わなくて本当に良かった。警邏隊の方が見つけてくださったのも幸運だったが、若しかしたら亡くなったお姉さんがトゥーリッキを守ってくれたのかもしれないね』
失わずに済んだ我が子を抱き上げる父親に、ヴェルザは我知らず「お子さんを亡くされているのですか?」と尋ねていた。
『わたしのなまえ、おねえちゃんとおなじなの』
小さなトゥーリッキがヴェルザの問いに答え、父親が補足する。
父親と出会う以前、妻は未婚の母親で幼い娘を育てていたのだが、病気で亡くしてしまう。その後、出会った二人は結婚をし、二人の間に授かった新しい命に亡くした娘と同じ名前をつけて、その娘の分まで幸せにしてやろうと誓ったのだと。娘に甘えられている父親の隣で、母親が微笑みながら相槌を打っているものの、目が泳いでているのをヴェルザは見逃さなかった。この母親は夫に嘘を吐いているのではないかと直感したが――
「容姿がトゥーリッキに似ていること、未婚の母親で幼い娘を病気で亡くしたと配偶者に言っていること、新しい命にトゥーリッキと名付けていること……それだけで、その女性がトゥーリッキの実母ではないかと決めつけるのはどうかと、自分でも思いました。ただの偶然である可能性もありますから……」
トゥーリッキは以前に言っていた、両親の名前は知らないと。その女性に名前を尋ねたところで無意味なのだと分かっているヴェルザはどうしようもない違和感を抱えたまま、その親子を見送ることしかできなかった。
「貴女のお母さんかもしれない女性を見つけました。会ってみたいと思われますか、と、トゥーリッキに尋ねるべきか、私の勘違いだとして何も見なかったことにするのかと迷っているうちに、彼女は亡くなってしまいました。やはり告げるべきだったのかと後悔していて、心のうちに留めておくことが難しくなってきてしまいまして、カウピさんに打ち明けました」
「僕に打ち明けてみて、心は軽くなりましたか?」
ハルジに問われたヴェルザは苦笑しながら、ゆるゆると首を横に振った。知りたくもない事実を彼女に知らせなくて良かったのだと思う反面、本当は実の親に再会したいと彼女が願っていたのだとしたら、ヴェルザが余計な真似をしてしまったのではないか。どうするのが正解だったのかが分からなくて、そんな自分が情けなくて、ヴェルザは卓上に置いた拳をぎりっと握りしめる。
「――僕の憶測でしかないのですが」
前置きをしたハルジが、ヴェルザの震える拳をそっと両手で包み込む。
「トゥーリッキがこの話を耳にしたとしても、彼女は実母と思しき女性に対して何の感情も抱かなかったかもしれません。彼女の言動から、実の両親に対する思い入れが僕には伝わってこなかったものですから。それよりも、自分にとってはどうということでもないことで、ステルキ准尉が思い悩んでいることを知って、彼女は悲しくなったかもしれません。僕が知っているトゥーリッキはそのような女性です。案外ステルキ准尉が吐き出してくれたことに安堵するかもしれません」
――ヴェルザ姉さんが気に病むことなんてないよ!でも、あたしのこと心配してくれて有難う!
あっけらかんと笑い飛ばすトゥーリッキの姿が脳裏に浮かんだ途端に、ヴェルザの目頭が急激に熱くなり、涙がボロボロと零れ落ちていく。
彼女の拳を包んでいた両手を離し、涙を拭くものを、と、考えて、ハルジは気が付いた。
「ステルキ准尉、手巾は所持していますか?貴女に差し出したいところですが、僕のものは鼻をかむのに使用してしまいましたので……」
そんなことは言わなくても良いのになあ、と、ヴェルザは泣きながらも噴き出してしまい、小刻みに体を震わせる。懐から手巾を取り出して、涙を拭いていくヴェルザを眺めながら、ハルジは言葉を続けた。
「例の女性がトゥーリッキの実母であるという確証はありません。それなのに私は嫌なことばかりを想像してしまって、自分勝手にも彼女に腹を立ててしまっていました」
あの直感が真実を報せるものだったのなら、ヴェルザは怒りに我を忘れて何をしでかしていたか分からないと吐露した。
「僕らはトゥーリッキが懸命に生きていたことを知っていますから、更なる理不尽な事実が彼女を襲うことを許せないのではないですか?僕ですら、それは許せないですよ」
「……そう、ですね。そうなのかもしれません」
ハルジの言葉が腑に落ちたのか、昂っていた気持ちも落ち着きを取り戻し、自ずと涙も止まる。ヴェルザは残っていたコーヒーを一気に呷って空にすると、長く息を吐いて、対面のハルジを真っ直ぐに見つめた。
「あの御家族はグロンホルム地区にお住まいではないそうですので、余程の偶然が発生しない限りは、もうお会いすることもないでしょう。後味の悪い白昼夢を見てしまったのだということにしまして、この後はお酒を楽しんで綺麗サッパリと忘れることにします」
「それで宜しいのではないかと、僕は思います。僕も何も聞かなかったことにして、此方のコーヒーが美味しいのだということだけを覚えておくことにします」
貴方が飲んでいるのは、嘗てコーヒーと呼ばれしナニカです。と、口を突いて出そうになったが、ヴェルザは耐えた。
「……カウピさんは相談事がし易い御方ですね。御蔭様で心が随分と軽くなりました」
「…………………………はい?」
生まれて初めての評価を頂き、ハルジの頭が混乱する。そして徐々に赤面していって、つい、そっぽを向いてしまった。
「そ、れは間違った評価、では、ないですかっ?ステルキ准尉はおかしな人ですねっ」
「あらら、そうですか?」
褒められたのだから素直に喜べばよいのに、喜び方の分からないハルジはつい憎まれ口を叩いてしまう。ヴェルザは大して気にしていないようで、目尻を下げて、挙動不審なハルジを見つめてくる。
「私は頼られることには慣れておりますが、誰かに頼ることには慣れておりません。ですから、自然と頼れてしまうカウピさんのような御方がいらっしゃってくださることが嬉しいのです」
頬はおろか、耳も首も真っ赤にしたハルジの脳内がぐるぐると回り、目もぐるぐる回っているような錯覚に陥るのは何故か。真正面から好意を向けられた経験が悲しいほどに乏しくて、ハルジはどう対処したら良いのか皆目見当がつかず――
「なあぁぁ~……」
奇声を発することしかできなかった。
――どうしたのかな、あの眼鏡くん。イイ年して思春期をこじらせてるのかな?
ヴェルザとハルジのやりとりを盗み見ていた周囲の人々は例えよう尚ない気持ちになり、コーヒーの良い香り漂う喫茶店は生ぬるい空気に包まれた。
愛しけやし吾がつま かなえ ひでお @k_h_workshop
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