第9話

電車に揺られながら柚希は考えていた。普段の自分は本当の自分なのだろうか。杏子の言うように、人の顔色ばかり気にしているのだろうか。自分では、そんな感覚はないのだが。でも、周りから見たほうが、客観的で真実に近いこともある。思い返せば、昨日空にも同じようなことを言われていた。『おまえは他人優先に生きすぎ』そんなに自分は他人中心に生きているように見えるのか。他人中心というのは、協調性があって良いように思われるが、一方で自分の意志を持たない、自主性のない人間とも捉えられる。

「私だって思いっきり遊びたいし、自分の好きなことに時間を使いたいよ。」

本当にか細い声でそう呟いていた。柚希とて一人の人間だ。欲がない訳ではない。ましてや、自由を求める高校一年生。一般の高校生なら、友達と思う存分遊びたい年頃だろう。 でも、柚希にとっては、それと同じくらい家族のことも大切だった。かわいい妹達や大好きな母親を悲しませてまで、自分の欲を追求しようとは思わない。むしろ、家族のために頑張ることが柚希の生きる原動力になっているのだ。結局はそれが、周りから見ると他人本位な生き方に見えるのだろうが、本人は気が付いていない。

「生きるって難しいな。」

普段、そんな哲学的なことを考えることも、考える暇もない柚希だが、今はそんな感情が心に広がっていた。先程の杏子とのこともそうだが、今日偶然再会した椿とも何だかぎくしゃくした関係のまま別れてしまった。今まで、誰とでも仲良くやってきた柚希にとって、こんなに人との関わり方が難しいと感じたのは初めてだ。

「はぁ、どうすればいいのかな。」

電車から降り、幼稚園までの道を歩きながら柚希は呟いていた。しかし、考えてもすぐに答えは見つからない。しばらくして、幼稚園に到着した柚希は現実に引き戻された。


翌朝、少し憂鬱な気持ちで登校し、教室に入る。杏子はまだ来ておらず、なぜだかホッとしている自分が柚希は嫌いだった。いい顔をして、他人に気に入られようとしている、そんな自分を心のどこかで自覚していたのかもしれない。人に嫌われることは怖いし、誰からも好かれる人間でありたい。だからこそ、杏子に嫌われたままなのは嫌だ。そう思うのに、相手と向き合うのを恐れている自分がいる。葛藤に苛まれながら、モヤモヤした頭で学校が始まった。

気付けば、三限目も終わりを告げ、次の体育の授業に向けてみんな移動を開始していた。杏子も教室にはいるものの、それまで一度も話すことはなかった。

今日の体育は新年度ならではの体力テストだ。男女別々に先生が付き、指示通りに動いていく。準備運動が終わったところで、先生が口を開いた。

「よし、じゃあまずは百メートル走だ。出席番号順で二人ずつ測る。朝日と出雲、準備しろ。」

名前を呼ばれた柚希は、スタート位置につく。横のレーンには、教室で前の席の女の子、こないだ数学の勉強を教えた子がいた。

「出雲さん、足速いんでしょ。絶対負けるわ。」

「いやいや。これ勝負じゃないから。」

苦笑いで返す柚希だったが、先生の笛の音でスタート姿勢をとる。

ピッ、という音とともに地面を蹴り、前に出る二人。その差はどんどん開いていく。

「わぁ、出雲さんめっちゃ速い。」

「すごいね。出雲さん、勉強も出来るし、運動も出来るなんて完璧じゃん。」

「マジそれな、授業で当てられても全部合ってるし、こないだ勉強教えてもらった時もめっちゃ分かりやすかったもん。」

「えー、いいな。私も教わりたい。」

「絶対に友達にほしいタイプだよ。顔もかわいいし。男子にもモテそう。」

順番を待つ女子たちは、柚希の話で盛り上がっていた。 後ろのほうで待っていた杏子は、何もしゃべらずただ黙って聞いている。

柚希のことを嫌いと言う自分と、彼女を好いているクラスメイト。自分はこのクラスメイトたちと馴染めないかもな、と思う杏子だった。他人を評価する人間。人に媚びを売って安泰に生きようとする人間、友人さえも自分への利益で選択する人間。 そんな人間が杏子は嫌いだ。

「バカバカしい…。」

そう呟いたのがいけなかった。ひとり言のつもりだったのに、不幸にも、その声は女子たちに届いていた。ひそひそと話す声が聞こえてくる。

「なにあれ、感じわるっ。」

「嫉妬してんじゃない? 知井宮さん足遅いし。」

「何? 知ってるの?」

「うん、同じ中学だった。中学でも、なんか浮いてる感じだったよ。」

「ふーん。」

小さなささやき声で、詳しい内容までは聞こえなかったが、自分の悪口だろうということだけは杏子にも分かった。でも杏子もそれにいちいち反応しない。彼女は慣れすぎているのだ。もう自分は他人に嫌われる運命なのだと受け入れている。

先生の合図とともに次々に走っていく女子たち。おしゃべりをしていた女子たちも、走り終えて、ゴール付近で待機している。きっと、また他人の評価でもして盛り上がっているのだろう。走り終わったから、おしゃべりにも拍車がかかっているに違いない。

「次、知井宮、中野。」

名前を呼ばれた杏子はスタート位置につく。

一方、ゴール地点で待機していた女子たちは、柚希に詰め寄っていた。

「出雲さん、めっちゃ足速いね。中学は何部だったの?」

「美術部だよ。」

「えっ、美術?じゃ、運動もできて、勉強もできて、絵もうまいの⁉人間の模範じゃん。」

「いや、そんなことないよ。」

顔の前で手をヒラヒラさせる柚希に、女子たちはさらにヒートアップする。

「それに、性格も良いし、美人だし。これは嫌いな人はいないわ。」

その言葉を聞いて、柚希の頭には一人の人物が思い浮かんだ。実はいるんだよなぁ、私のこと嫌いな人。今まさにスタート地点で走ろうとしている人物のことを想う。

そのとき、先生の笛の音が響いた。女子たちも自然とレーンのほうに視線を向ける。

「あ、知井宮さんじゃん。」

「うわ、遅くね?私でもあそこまで遅くないよ。」

杏子と横を走る女子は、どんどん離れていく。

「足遅くて、性格悪いとか。関わりたくないわ。」

「実際、中学ではいつも一人だったけどね。」

「あっ、そっか、同中なんだっけ。」

女子たちが杏子についての悪口を言っている。その声は、近くにいた柚希にも聞こえていた。まだよく知らないとはいえ、同じクラスメイトの悪口を聞いても気持ちの良いものではない。せめて、杏子の耳には入らないでほしい、と願う柚希だった。

「そうそう、知井宮さんって、トランスジェンダーらしいよ。」

「それって、心は男ってこと?ありえんわ。」

「ちょっと気持ち悪くない?女子の中に男子が交じってるようなもんでしょ。」

「どんな目で見てるか分かんないし、怖いよね。」

その時、タイミング悪く杏子がゴールに走ってきた。女子たちは一瞬静かになるが、杏子を見て少し距離をとっていく。柚希はそんな女子たちの行動が理解できなかった。相手を傷つけると分かっていながら、どうしてそんなことをするのか。頼むから、杏子を傷つけるような言葉を口に出さないでくれ。誰かが傷つく様子など見たくない、そう願う柚希だったが、その想いは無残に散ることとなる。

女子たちから離れて、後ろのほうに歩いて行く杏子を見ながら、一人の女子が言った。

「女子に囲まれて、さぞかし幸せでしょうね。」

心ないその言葉は、きっと杏子の耳にも届いていただろう。その時、柚希の堪忍袋の緒が切れた。普段、寛容な柚希も我慢の限界だったのだ。

「もう少し、人の気持ちを考えて発言しようよ。」

柚希の言葉に、その場の全員が口をつぐんだ。杏子も足を止めている。顔は俯いていて見えないが、手は強く握られていて震えていた。あの小さな背中に、いったいどれだけの心ない言葉をかけられたのだろう。言葉は時に最も鋭い凶器となる。その傷を治すのはそう容易くはない。自分が未然に防ぐことができなかったことに悔しさを感じながら、柚希は女子たちに向き合う。

「クラスメイトなんだから、個性を受け入れていこうよ。」

 女子たちはバツが悪そうに俯いている。

「うん、そうだね。ごめん。」

一人の女子がそう言った。謝罪の言葉は、私ではなく知井宮さんに言ってほしい、そう思う柚希だったが、先生の指示で遮られた。どうやら、もう全員の測定が終わったようだ。

「よし、次は二人一組になって、立ち幅飛びと長座体前屈を測るぞ。誰でもいい、ペアになれ。」

先生の指示に従って、皆二人組を作っていく。柚希は迷うことなく、杏子のもとに向かった。杏子もそれに気づいて顔を上げる。

「言えたじゃん、自分の本音。」

「うん、そう言う知井宮さんこそ、自分の本音隠してるんじゃない?」

柚希は、先程の杏子の小さな後ろ姿を思い出して言う。本当は苦しくて辛いはずなのに、それに耐えて、何ともないように振る舞っている。

「オレは慣れてるから。それより大丈夫なの?あんなこと言って。」

「まあ、自分らしく行動した結果だからね。後悔はないよ。」

そう言いながら笑う柚希を見て、杏子もつられて口角をあげる。

「ほら、本音隠さずに言ったほうが良かったでしょ。」

「ほんとだね。ありがとね、教えてくれて。」

純粋な感謝を受けて、恥ずかしくなった杏子は顔を背ける。

「普通、嫌いって言われた相手にそんな笑顔見せないでしょ。」

「それ本音?」

柚希の問いに口をつぐむ杏子。そんな杏子を正面から見つめて柚希は言った。

「杏子、私の前では本音で話してほしいな。」

「杏子?」

「だって、知井宮さんじゃ長いじゃん。」

そう言う柚希に杏子はぼそっと呟いた。

「じゃあ杏にして。杏子は女みたいだから。」

「うん、分かった。杏。さ、早く測定しに行こ。」

杏子の手をつかみ歩き出す柚希。自分より背の高い柚希を目で追いながら、杏子は少し心が温まるのを感じた。

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