第8話

柚希は昇降口にいた。思わず逃げてきてしまったけれど、このままではいけないと頭では感じていた。椿の友達でいたいのに、椿を傷つけるようなことをしてしまった気がした。でも自分と一緒にいたら椿は…。そう思うと、どうしていいか分からない。柚希が下駄箱の前で悩んでいると、うしろから声がした。

「そこ邪魔。」

「あっ、ごめん。」

声からして男の子だと思ったが、顔を見て驚いた。同じクラスの女の子だ。たしか名前は、知井宮杏子。小柄で手足も細い反面、ショートカットヘアで声も低めでボーイッシュな子だ。杏子は、手早く脱いだ上履きを下駄箱にしまい、黒いスニーカーを出した。この学校は靴やカバンに特に指定がなく、比較的自由だが、女子はたいていローファーを履いている。杏子は、女子では珍しくスニーカーだった。

そんなことに気をとられていたら、 あっという間に杏子は昇降口の外に出て行った。このまま考えていても仕方がない、とりあえず、もう今日は帰ろうと思い、柚希も上履を脱いだ。上履を取ろうと下を見ると、何か折りたたまれた紙のようなものを見つけた。拾い上げて広げてみると、それは見覚えのあるものだった。

「これ、画材屋さんの広告じゃん。」

昨日の朝、新聞とともにポストに入っていた広告だった。でも、どうしてこんな所に。そもそも、さっきまでこんな紙は落ちていなかった。だとしたら、さっき杏子が落としていった可能性が高い。しかし、そうとわかっても、杏子はもう帰ってしまって、今から追いかけても追いつかないだろう。

「この画材屋さんにいるかな。」

今追いかけなくても、明日学校で会った時に渡せばいいのだか、なぜだかその時柚希は その画材屋さんに行こうと思った。もしかしたら、杏子を探すのは口実であって、本当は 画材屋さんに興味があっただけなのかもしれない。その真理は柚希自身にも分からなかった。柚希は広告を手に歩き出した。

その広告には、店までの地図が載っている。駅の近くに位置しているため、すぐに分かった。大通りに面して、ひっそりと立つ店。両側にはお茶屋さんと学校制服の専門店が並んでいた。

重くずっしりとした扉を両手で開け、中に入る。すると、絵の具や鉛筆などの少し鼻につく香りがした。木でできた棚の中に、所狭しと絵の具が入っており、色とりどりの鉛筆やインク、カラーぺンなどがある。筆や刷毛も細さや大きさが多種多様で見ていて全然飽きなかった。

入って左手に油絵具コーナーがあった。確かセール中だったと柚希は思い出し、近寄ってみた。整然と並べられた絵具たちの前に、油絵一式セットというポップが掲げられた商品が置いてある。木の箱の中に十二色セットの油絵具、油壺、ペンティングオイル、クリーナー、筆大中小、ナイフ、木のパレットが入っている。説明書きには、柚希が知らない名称が たくさん出てきた。

「うわ、けっこうするな。セールでこれか…。」

それは、お小遣いのない柚希にとっては手の出ない値段だった。貯金を切り崩せば買えないこともないが、学校で使うノートやその他生活用品を買う必要も考えると、そこまでして買おうという気にもなれない。しかし、やはり憧れは捨てられない。買えないことを分かっていても、初めて見る画材に見入ってしまう。同じ青でもコバルト、セルリアン、ウルトラマリン、マンガニーズ、コンポーズなど彩度や明度の違いでいくつも種類が分かれている。

「あっ、この色好きかも。」

柚希はテールベルトと書かれた、緑系の絵の具を手に取った。鮮やかさは あまりないが、落ち着いた緑でより自然に近い色だった。子どもの頃から 風景や自然物を描くことが多かった柚希は、自然と緑が好きになったのだ。

絵の具を見ながら商品棚の間を進んでいくと、オイルコーナーでしゃがんで商品を見ている人を見つけた。その人は、柚希が探していた人物だった。

「あっ、知井宮さん。」

柚希の声に少女は顔を上げる。

「あなた誰だっけ。」

「私、同じクラスの出雲柚希。よろしくね。」

「どうも。」

軽くそう返して、杏子は棚から一本のビンをつかんだ。

「じゃ、これで。」

そう言って、レジの方に歩いて行こうとする。

「あっ、ちょっと待って。」

柚希の声に、杏子は足を止めて振り返る。

「知井宮さん、油絵描くんだ。すごいね。」

「別に、描こうと思えば誰でも描けるし。」

そっけなく返す杏子に、柚希は何とか会話をつなげようと尋ねる。

「私、あんまり油絵のこと詳しくなくて。どうやって描くのか教えてほしいな。」

「そんなの店員に聞けばいいじゃん。」

そう言って、杏子はレジに向かって歩き出した。レジには七十代くらいの白髪頭のおじいちゃんがいた。

「ハンさん。この子が油絵の描き方知りたいんだって。」

ハンさんと呼ばれた店主は、柚希を見て笑顔になった。

「こりゃあ珍しい、杏子の友達かね。ワシなんかより、杏子が教えてやればええに。」

「いやだよ。人に絵の描き方なんて教えたことないもん。」

「簡単なことさ。描いてる所見てもらえ。 そうすりゃ、勝手に学んでくれよるけん。」

未だ納得いかない顔をしている杏子をよそに、店主は柚希のほうを見た。

「嬢ちゃん。こんななまいき言っとるけど、杏子は絵の腕は確かじゃけん。一回アトリエ見に行ってみるだわ。」

「アトリエですか?」

「ちょっと、ハンさん。」

「ええがの。案内してやれ。今回は特別に、オイルタダにしちゃるけん。」

ハンさんの口から出たタダという言葉に、さすがの杏子も逆らえないようで、小さくため息を吐いて言った。

「好きにすれば。」

その言葉を聞いて、ハンさんは柚希にウインクした。店を出ていく杏子を追って、柚希も追いかける。会釈をすると、ハンさんは軽く手をあげて応えてくれた。

「知井宮さん、あそこの常連さんなんだね。」

前を歩く杏子に柚希は問いかけた。

「家から近いだけだよ。」

その言葉通り、歩いてまだ一分も経っていない場所で杏子は足を止めた。一見すると普通の一軒家だが、小さな庭があり、植木もきちんと手入れがゆき届いている。玄関の横を通り過ぎて、脇道に入る杏子。あとを追った柚希が目にしたのは小さなログハウスだった。 丸太でできた、かわいらしい建物だ。

「ここがアトリエ?」

「うん。」

うなずきながら、杏子は木でできた扉を開けた。

「おじゃまします。」

柚希が足を踏み入れた瞬間、世界が一変した。正確に言えば、そこには油絵で描かれた様々な大きさのキャンバスがあり、画材が所狭しと並んでいたのだ。絵を描くためだけの場所、ここで様々な絵が生み出されるのだろうと柚希は感じた。

入口近くに置いてある、一番大きな絵。それになぜか柚希は強く引きつけられた。水彩でも色鉛筆でも出すことができない、鮮やかで力強い色彩。赤や青など原色に近い色を多様し、色の濃淡をつけている。デザイン画っぽさもありつつ、しっかりものの形もとらえられたネコの絵だった。毛なみ一本一本まで、丁寧に描写されている。絵に厚みがあり、画面の上のネコがいまにも動き出しそうだ。きっと、この絵は杏子にしか描けない。

「これ、全部知井宮さんが描いたの?」

柚希が尋ねながら振り返ると、杏子は奥にある椅子に座っていた。いつの間にか制服から作業着のようなものに着替えている。背丈くらいあるキャンバスの前に立ち、準備をしていた。店で見た木のパレットに絵の具を絞り出し、右上に油壺を取りつける。そこに、透明に近いビンに入った油をそそいでいく。その後、今日買った黄色っぽい油をつぎ足した。杏子の作業する様子を後ろから見ていた柚希は、気になったことを聞いてみる。

「油って、一種類じゃないんだね。」

「これは、テレピン。」

そう言って無色透明な油のビンを前に掲げた。

「揮発性で乾きが早いから、下塗りから中盤まで使う。終わりの方は、このペンティングオイルで絵の具を画面に固定させてツヤを出す。」

「へぇー、ちゃんと役割があるんだね。」

杏子はキャンバスに向き直り、筆を持った。もうすでに画面上の絵は一通り色塗りが済んでおり、ほぼ形になっているように思えた。

「そろそろ完成?」

「んなわけないでしょ。まだまだこれから。半分もできてない。」

筆を動かしながら返す杏子に、柚希は驚いた。でも、さっき見た絵やこの部屋の至る所にある絵を見て納得する。杏子の描く絵は、どれも重厚感があり、魅力的だ。きっと、何日もかけて塗り重ね、自分の納得のいくまで作品と向き合い続けた末に出来たものなのだろう。それだけの価値を感じる。だから、ここに来たとき違う世界に来たと感じたのだろう。キャンバスに向かう杏子の表情は、とても真剣で、絵を描くことが本当に好きだと見てとれる。柚希は自分でも分からない疑問を投げかけた。

「知井宮さんは、どうして絵を描くの?」

杏子は、相変わらずキャンバスに向かったまま筆を動かしている。しばらく沈黙が続き、気まずくなった柚希が口を開こうとした、その時だった。

「自分が自分らしくいるため。絵を描いてるときだけ、本当の自分でいられるから。」

「なんか、それ分かるな。」

杏子の返答に共感を示す柚希。自分も絵を描いている時は、自分らしくあれる。他人の目を気にすることなく、気の向くまま、心のままにキャンバスに向かっていたように思う。

「あなた、生きづらそう。人の顔色ばかり見て、愛想よくしてる。オレ、他人中心に生きてる人嫌いなんだよね。」

「あはは、嫌われちゃった。」

「ほら、そういうトコ。本当は嫌われるのが怖いのに、本音を笑ってごまかしてる。」

杏子の指摘に、柚希は何も返せなかった。確かに、自分は思ったことを言うより先に、他人の気持ちやその場の空気を考えてしまっている。誰にでも優しく、明るく振る舞っていれば、人に嫌われることはないと思っていた。でも今、目の前で自分を拒絶され、何とも言えない喪失感に襲われる。恐れていたものに出会ったかのようだ。

「自分の本音、隠さずに言いなよ。結局苦しむのは自分なんだから。」

杏子は筆を動かしながら呟く。最後のほうは声が小さくなって、柚希にはほとんど聞こえなかった。ただそこには、何かを抱えた背中があるだけだった。

「知井宮さんは自分らしく生きれてるの?」

柚希の問いかけに杏子は口をつぐんだ。手も止まっている。

「……あなたよりはね。さあ、もういいでしょ、帰ってよ。」

語気を強めて言う杏子に、柚希もさすがに長居しすぎたかと思い至る。

「無理に押しかけてごめんね。じゃあ、また明日。」

カバンを持ち、扉から出ていく。柚希がいなくなってから、杏子は扉のほうを振り返った。

「嫌われてるって分かってる相手に、『また明日』か。どんだけ人がいいんだか。」

その表情は呆れているようにも、笑っているようにも見えた。

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