第7話

次の日、昨日と同じ時間に柚希は神社に向かった。もともと、絵を描くために神社に来ようと思っていたため、椿を待つ間、持ってきたスケッチブックを取り出して絵を描いていた。

柚希が絵を描き始めて三十分、もう明らかに昨日椿と会った時間は過ぎているのに、椿は現れない。もしかして、寝坊しちゃったのかも、とそんなのんきなことを考えて柚希はまた絵を描き始めた。しかし、一時間経っても二時間経っても椿はやって来ない。

「どうしたんだろう。」

お昼になっても姿を現さない椿に、心配が募っていく。昨日会っただけだが、約束を簡単に破るような子には思えなかった。何か事情があるのかもしれない。そう思い、柚希は椿の家に訪れてみることにした。

インターホンのない引き戸で、柚希は戸をノックして声をかけた。

「ごめんくださーい。」

しばらく待っていると、家の中から誰かがやってきて戸を開けてくれた。その人は、小学校高学年くらいの男の子でどことなく椿に似ていた。

「こんにちは。私、椿ちゃんの友達で、今日遊ぶ約束してたんですけど、椿ちゃんいますか。」

男の子は、柚希の言葉に少し驚いていたが、すぐに答えた。

「椿なら、今病院だよ。持病が再発してしばらく入院だって。」

「えっ。」

男の子の口から発せられた言葉に、柚希は動揺が隠せなかった。

椿ちゃんが持病を抱えていた。でも、いったい何の病気なのだろう。昨日は元気そうだったのに。もしかして、昨日私が外に連れ出したから、体に障ったのだろうか。心に疑問が渦巻き、急に不安になった。

「あの、椿ちゃんがいる病院ってどこですか。」

揺れる心を抑え、なんとか病院名を聞いた柚希は咄嗟に走り出していた。どうか無事であってほしい。空腹も忘れ、柚希は一目散に目当ての病院に向かう。幸い、椿の入院している病院はそんなに遠くなく、柚希の足の速さも相まって、十分ほどで到着した。

受付で面会のお願いをした柚希は、教えてもらった椿の病室へ向かう。

「ここか。」

『白枝椿』とプレートのかかげられた病室の前に立ち、はやる心を落ち着ける。ゆっくりと三回ノックをすると、奥から椿らしき子どもの声で返事がかえってきた。良かった、椿ちゃんだ、そう確信した柚希は引き扉を開けた。

「失礼します。椿ちゃん!」

「柚希ちゃん⁉どうしてここに?」

驚く椿は、患者服を着てベッドに座っていた。パッと見ではどこか負傷しているようには見えないが、昨日会ったときより元気がないように柚希は感じた。

「椿ちゃんの家に行ったら、男の子が教えてくれたんだ。」

「あ、たぶんそれお兄ちゃん。ごめんね柚希ちゃん、遊ぶ約束守れなくて。」

申し訳なさそうに言う椿に、柚希は首を強く振って否定する。

「ううん。私のほうこそ、椿ちゃんのこと考えずに、昨日連れまわしちゃったから。」

「それは違うよ、柚希ちゃん。」

そう言って、椿は柚希の手を優しく握り、諭すように言った。

「私、昨日はほんとに楽しかったんだよ。初めて見るものがいっぱいあって、ドキドキでワクワクだった。だから、もっといろんなこと知りたくて、柚希ちゃんと仲良くなりたくて、今日も楽しみにしてたんだけど、心臓病の発作が出ちゃって…。」

まだ幼い柚希には、心臓病というのがどれほど苦しいものなのか、想像すらつかない。 だから今は、ただ黙って椿の話を聞いていることしか出来なかった。

「きっと、はしゃぎすぎたのがいけなかったのかも。だから、柚希ちゃんは全く悪くないよ。むしろ柚希ちゃんと遊べてすごく楽しかった。」

「私も。」

笑いながら手を握ってくる椿に、柚希も手を重ねる。

「しばらく検査入院で病院にいなきゃいけないけど、退院したら、また一緒に遊ぼう!」

「うん、もちろん。あっ、そうだ。」

柚希は、今日が椿にとって記念すべき日だということを思い出し、カバンから一枚の画用紙を取り出した。

「椿ちゃん、お誕生日おめでとう。」

柚希が差し出した画用紙には、昨日二人で見たツバキの花が描かれていた。色鉛筆を巧みに使用し、やわらかいタッチで色が塗られている。もともとの画力が高いことに加えて、 柚希にしか描けない魅力もそなえている絵だ。世界にひとつしかない作品。

絵を受け取った椿も、やはり自分は彼女の描く絵が好きだと感じた。昨日の直感が実感に変わった。椿にとって、こんなに見ていて心が癒され、優しい気持ちになる絵は初めてだった。柚希の絵からは、本当に楽しく絵を描いていることが伝わってくる。さらに、柚希の性格や伝えたい気持ちなんかも絵に表れているように感じる。このとき椿は、絵は描く人の内面をあらわすもの、すなわち、言葉でなくても絵からはいろいろな情報を得られることが分かった。

「ありがとう。とっても素敵。私、柚希ちゃんの絵のファンになったよ。」

「えへへ、喜んでもらえてよかった。」

「入院中これ見て元気もらうよ。」

柚希からもらった絵を大事そうに抱える椿。その姿を見て柚希はあることを思いついた。

「もし、描いてほしい絵があったら、描いて持ってくるよ。」

「でも、それは柚希ちゃんに悪いよ。」

「大丈夫。絵は毎日描いてるし、正直、最近題材が尽きかけてて。それに、椿ちゃんが迷惑じゃなかったら、退院まで毎日お見舞いに来たいな。」

「全然迷惑じゃないよ。むしろ大歓迎。私、病気が原因で家にいることが多いから、外のこと全然知らないんだ。だから、まだ見たことない花や知らない風景をもっと知りたい。」

そう呟きながら、椿は窓の外を見た。畑や田んぼを映し出す窓。自分には、まだ知らないことがたくさんある。それは同時に、今後自分が出会うものの可能性が大きいことにもつながっていた。

「そっか、じゃあ私が絵に描いて紹介するよ。でも、絵だから実物とは違うけどね。」

そう言いながら、柚希はスケッチブックを取り出した。

「これ、去年海に行った時に描いた絵。こっちは、山から見た街の風景。」

「わあ、きれい。本当にここにいるみたい。」

柚希の描いた絵は、どれも描写が細かく、臨場感がある。風が吹いてきそうな爽やかさ、暑さが伝わってきそうな鮮やかな色彩。まるで本当にその場にいるように思えてしまう。

「この海ね、近くにまっ白な灯台があるんだ。これがその灯台。」

そう言って見せてきた絵は、雲一つない青空に白い灯台が高くそびえ立っており、とても立派だった。そして、写真では感じられない、あたたかさも伝わってくる。 そのあたたかさの正体までは椿には分からなかったが、見る人を幸せにする絵だと彼女は思った。

その後も、自分が訪れては描いてきた色々な絵を、見せてくれた柚希。気が付けば、夕方になっていた。そろそろ空腹も限界になっていた柚希は、また来る約束をして、病院をあとにした。

ワクワクする物語を読み進めるように、柚希の絵は見ていてとても楽しい気持ちになる。それはきっと、描いている本人が一番楽しんでいるからだ。そして、相手に喜んでもらいたい、そんな優しい心も絵のタッチや色合いに表れている。絵はその時の心を映す鏡である。だからこそ、柚希の絵はあたたかく、きれいですき通っているのだろう。

静かになった病室で、柚希からもらった絵を見つめる椿。

「柚希ちゃんはすごいな。なんだか、私も絵描きたくなってきた。」

普段、あまり人と関わらない椿にとって、自分を表す鏡となってくれる絵は、とても魅力的に見えた。言葉では表せない複雑な感情も絵になら表現できる、そんな気がした。

椿は、ベッドの横の棚の引き出しからノートと鉛筆を出し、机に広げる。 手始めに、手もとのコップを描いてみる。

「うぅ、全然うまく描けない。」

コップを描いていたはずなのに、形がいびつになってしまう。立体感が出ない。柚希のような上手な絵が描けないと嘆きながらも、何かを描くことに楽しさを感じた椿は、鉛筆を動かした。

次の日も、その次の日も、柚希は椿の病室にやって来た。椿も、それを楽しみにしていたため、いつも今か今かと扉がノックされるのを待っていたのだ。柚希は、毎日、自分が今まで行った場所や見つけた花や動物などの絵を椿に紹介した。それらは、どれも椿にとって新鮮なもので見ていて飽きない。外の世界には、こんなにも多種多様なものが溢れているのだと驚く。自分も元気になったら、色々な場所に行ってみたい、そんな希望を抱かせる夢にあふれた絵ばかりだった。

柚希は、時間が許す限り、病院で椿とともに過ごした。彼女と一緒にいるのがとても楽しいのだ。一方、椿も、今まで家族以外にお見舞いに来てくれる人はなかったため、柚希がとても特別な存在になってきていた。毎日退屈だと思っていたが、柚希と出会ってから、日々がとても楽しく、永遠にこんな時間が続けばいいなと願っていた。


しかし、現実はそう甘くない。

柚希が病院に通い始めて、五日目が経つ日だった。いつも通り、椿の待つ病室に向かった。しかし、不思議なことに、そこには『白枝椿』というプレートがない。理由はわからず、とりあえず扉をノックし、スライドした。

「えっ…。」

柚希は絶句した。そこには白いベッドが一つあるだけ。椿本人はおろか、椿の私物や見舞いの花も、何もかもなくなっていた。外に出ているだけとか、そういう感じではない。 もう誰も使っていない、そんな雰囲気を感じた。窓は閉め切られており、シーンと静まり返っている。昨日までのにぎやかな日々が嘘のようだ。柚希はしばらく考えて、一つの結論にたどりついた。

「もう退院したのかも。」

そう考えるのが自然だった。だって、昨日まで椿はとても元気そうに笑っていたのだから。ここに入院していたのも、一時的な発作による検査入院だ、と本人も言っていた。だから、きっと大丈夫。昨日、自分が帰ったあとで、退院が決まったのだろう、柚希はそう思いこんだ。そして、一旦病院を出て、椿の家に向かうことにした。もし、退院しているなら、おめでとう、と一言伝えたい。

しばらく歩いて、神庭神社の入口に向かう。そこから脇道を進み、椿の家の前に来た。 ここに来るのも二度目だ。しかし、前回とは違い、少し騒がしかった。見ると、大人の男の人とこの前会った男の子が家から出てくる所だった。

「あっ、あの。」

「きみ、この前の。」

柚希に気づいた男の子が足を止める。

「椿ちゃんは…。」

すると、男の子は少し顔を曇らせて、早口で言った。

「椿は、昨日の夜容態が急変して、大きい病院に移動になった。手術が必要だって。」

「そんな…。」

「きみに会ってから、椿の体調が悪くなったんだ。もう椿には会わないでほしい。」

そう言うなり、男の子はどこかへ行ってしまった。柚希の頭は、困惑と失望と自己嫌悪に苛まれた。退院したとばかり思っていた椿は、大きな病院で手術を受けている。心臓の手術がそう間単なものではないことくらい、柚希も知っている。だから、椿の安否が心配だった。でも、それと同じくらい、柚希の心を支配するものがあった。

「私のせいで椿ちゃんが…。」

さっき、男の子に言われた言葉。椿は柚希に会ってから、体調を崩した。確かに柚希と初めて会った日に椿は心臓発作を起こして入院し、さらに回復するならまだしも悪化してしまったのだ。やはり、自分と一緒にいたのが原因だったのだろうか。柚希は不安になった。思い返してみても、椿はいつも元気そうだったのに。そう考えた所で、柚希はハッとした。もしかして、椿は自分に気を使って、無理をしていたのでは…。本当は来てほしくないけれど、心優しい椿のことだ、自分のことを無下にできなくて、断れなかったのではないか。十分にその可能性はある。だとしたら、自分はもう椿に会う資格も、会わせる顔もない。椿にとって、自分の存在は迷惑でしかない。柚希はそう感じた。しかし、そう分かっていても、短い間で築いた絆は決して浅くはなかった。少なくとも柚希にとって、椿は大切な友達の一人だ。彼女が本当に私を嫌っているのなら、距離を置くことにも抵抗はない。そして、ただただ彼女の無事を祈ることしかできなかった。




月日は流れ、あれから六年近く経っていたが、柚希は一度も椿のことを忘れたことはなかった。もう会うことはないだろうが、どうか元気に過ごしていてほしい、それだけを願っていたのだ。しかし、今彼女の目の前には、もう会わないと思っていた椿がいる。心の中は様々な感情で複雑に渦巻いていたが、それでも柚希の心の前面に出てきた思いは一つだけだった。

「椿ちゃん、元気になったんだね。よかった。」

「うん、最近は安定してきて、病院にもほとんど行かなくてよくなったの。心配かけてごめんね。」

「ううん、無事で良かったよ。」

柚希は優しくほほえむ。本当に無事でよかった。しかし、その笑顔の裏では不安が渦巻いていた。あの時の記憶がよみがえる。椿の兄に言われた言葉、『きみのせいで、椿は体調を崩した。』それが、柚希の心にまとわりついて離れない。また自分と一緒にいたら、せっかく回復した椿の病気が再発してしまうのではないか、そんな恐怖を感じる。次第に恐怖は大きくなっていき、柚希の心を満たしていく。笑顔も崩れそうだ。

「ご、ごめん、私ちょっと用事思い出しちゃった。」

もうこれ以上、笑顔を保てそうにないと感じた柚希は、そう言い残して部屋を出て行ってしまった。振り返らず、一目散に階段を駆け下りる。とにかく、今は椿と距離を置きたい、そう思い走った。

美術準備室に残された二人は、柚希の出て行った扉を見ていた。

「あら、行っちゃったよ、ゆず。」

「どうしたんだろう、用事って一体…。」

椿を一瞥して、裕はキャンバスに目を落とした。

「たぶん、ゆずの用事ってのは嘘だよ。」

「え、どうして…。」

「きっと、ここにはいられない理由があったんじゃない?」

「でも、柚希ちゃんは何も…。顔を会わせられない理由があるとしたら、私が原因だと思います。」

辛そうな表情で扉を見つめる椿を見て、裕は二人の間には、過去に何かがあったことを察した。

「でも、柚希ちゃんがどうして逃げてしまったのか、分からないんです。」

「うちでよければ相談乗るよ。第三者から見れば、ゆずが帰っちゃった理由も分かるかもしれないし、ね。」

椿は裕の瞳を見つめる。あまり誰かに個人的な相談をしたことがなかった椿だったが、今は柚希のことが心配だ。昔のように笑いあえる関係に戻りたい。その一心でうなずいた。 「はい。お願いします。」

そして、椅子に座った椿は、裕にぽつり、ぽつりと話しはじめた。二人が出会った経緯や、一緒に過ごした五日間のことを。

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