第6話
小高い山の上に位置し、スギの木に囲まれた場所に神庭神社という神社があった。その神社の神主の娘に生まれた白枝椿は、小さい時からからだが弱く、あまり外で遊ぶことができなかった。学校も休みがちで特別仲の良い友達もいなかった。毎日、神社に隣接する自宅から木々の緑を眺めては、退屈な日々にため息をこぼしていたのだ。
小学三年生にあがる前の春休み、その日はとても天気のいい日であたたかかった。心臓の病気を抱えていた椿は、外で走り回ったり、激しい運動をすることを医者から禁止されている。でも、こんな天気の良い日に家にいるのはもったいない。散歩くらいなら体に影響もないだろう。そう考えて椿は家を出た。しかし普段家の中にいて、あまり外の世界に詳しくない椿は、家の隣にある神庭神社に行くことにした。外はポカポカと暖かい。太陽に背中を押されながら、短い坂を上ると二匹の狛犬と大きな本殿が神聖な雰囲気を醸し出していた。苔むした岩や石がある脇道を通り、本殿の周囲をまわっていたその時だった。前方に同い年くらいの子どもの背中が見えた。ちょうど本殿の真裏に当たる位置であまり日が当たらない場所で、その子は新聞紙を敷いた上に座って絵を描いていた。近寄っていくと、気配に気づいたのかその子が振り返る。
「こんにちは。」
目が大きくて、二つ結びにした少女は、そう挨拶した。椿はペコリとお辞儀をする。そのまま少女は絵の続きを描き始めた。何をそんなに一生懸命描いているのか、気になった椿はさらに少女に近寄ってみる。
「わぁ、きれい。」
椿の目には少女の描いた、緑の広がる木々や苔むした岩などが移った。それらはとても細かく描写されていて優しい色合いだった。そして、直感的に自分はこの絵が大好きだと椿は感じた。
「すてきな絵だね。」
「えへへ、ありがとう。」
「あなた、このへんの子?」
「うん、歩いて五分ぐらいのアパートに住んでるよ。ほら、わかば公園の隣にあるアパート。 知ってるでしょ。」
「ごめん、私あんまり家から出ないから、外のことわかんないや。」
椿は、少女に嫌われないか心配だった。家に籠もってばかりで、家の周りのこともほとんど知らない自分は、変な子だと思われるのではないか。実際、学校でも世間知らずな面が災いして、人とうまく馴染めないでいる。またこの子も自分から離れていくんじゃないか、そんな不安を抱えて椿は俯いた。
「そうなんだ。じゃあ、今度来てみなよ。公園で一緒に遊ぼう。」
しかし、椿の予想に反して返ってきた言葉は明るかった。顔を上げた椿の目には、ニコッと笑う少女の顔がうつった。太陽みたい、椿はとっさにそう思う。 今まで自分を受け入れてくれる存在に出会えなかった椿にとって、彼女はあたたかくて優しくて、まるで春の陽だまりのような人物だ。もっと、この子と仲良くなりたい。そう思った椿は、勇気を振り絞って尋ねてみた。
「あ、あの名前何ていうの?」
「いずもゆずきだよ。あなたは?」
「しろえだつばき。」
「つばきちゃんか。どっちも植物の名前だね。」
その言葉を聞いて、椿はまた不安になった。ユズどころか、自分の名前のツバキの花すらもどんなものか分からないからだ。花の名前ということは知っているが、実物は見たことがない。
「気取らない優しさ、美しさ。確か、ツバキってそんな花言葉だよね。椿ちゃんにぴったり。」
「そっ、そうかな。」
柚希にそう言われ、なんだかむずがゆくなる椿。あまり自分の名前について触れられたことがなかった椿は、不思議な気持ちだった。『気取らない優しさ、美しさ』そんな花言葉を持つツバキとはいったいどんな花なのだろう。花言葉を知っている柚希なら、きっと花を見たことがあるだろう。そう思って、不安を取り払い椿は尋ねた。
「ツバキって、どんな花なの?」
その言葉に、柚希は少し驚いていだが、すぐにもとの笑顔に戻った。
「じゃあ、見に行こうよ。近所の森にツバキがたくさん見れる森があるの。ちょうど今見頃なんだよ。」
「うん、行きたい。」
椿は迷わずうなずく。それを見て、柚希は描いていたスケッチブックをたたみ、道具をまとめ始める。
「絵はいいの?」
「うん、絵はまた明日描けばいいから。でも、花はいつ散っちゃうか分かんないからね。」
そう言って、せっせと新聞をたたみ袋に入れ、リュックサックにひとまとめにする柚希。 椿は、絵を描くのを中断させてしまったことを申し訳なく感じたが、自分のために行動してくれる柚希の優しさが嬉しかった。
「さあ行こう!」
柚希は椿の手を取って歩き出す。ほとんど家と神社以外の場所に行かない椿の心は、これから始まる冒険に胸おどるわくわく感と未知のものに出会う緊張感で溢れていた。柚希とともに、石でできた階段を下り神社から離れる。神社の前に流れる小川にかかる橋を渡ったら、見知らぬ世界だ。
「わあ。」
通りには小さな文房具屋さんやサインポールが目印の昔ながらの床屋さん、木の看板で歴史を感じる駄菓子屋さんなど、地元民向けの個人経営のお店が軒を連ねていた。椿にとっては、どれも始めて見るお店ばかりで新鮮だ。
思わず足を止めて見入っていた椿に、柚希は話しかける。
「椿ちゃん、見て見て、さくら。」
柚希に言われたほうを見ると、 家の垣根から大きなサクラの木がのぞいていた。青く澄んだ空にピンク色のサクラの花がとても映えていて美しい。
「きれい…。」
椿は思わず見とれていた。もっと近くで見てみたい、そう思った。しかし、それがいけなかった。サクラの花があるのは道路をはさんだ向こう側。それに気づいていないのか、外に出る経験の少ない椿は道路に飛び出してしまったのだ。
「危ないっ!」
突然、柚希が椿の腕をつかんで引き寄せた。そして次の瞬間、椿のすぐ横を一台のトラックが通りすぎた。中央線のない狭い道路。車も避けるスペースがなく、咄嗟にスピードを落とすことができない。
椿はヒヤッとしたが、柚希のおかげでなんとか車に轢かれずに済んだのだ。柚希にお礼を言おうと顔を向けると、椿の目には通りすぎていったトラックを見つめる柚希の横顔が映った。その顔はキリッとしていて凛々しい。
「王子様みたい。」
椿は思わずそう呟いていた。もともと家で本や漫画を読むことが多い椿の思考は、若干少女漫画寄りになっている。自分を助けてくれる頼もしい人。男女など関係なく、椿の目に柚希はそう映ったのだ。しかし、柚希に椿の声は聞こえなかった。
「だいじょうぶ?椿ちゃん。」
「うん、ありがとう。」
「慣れない道は危ないだろうから、手つないどこ。」
そう言ってさりげなく椿の手をにぎる柚希。椿はそんな柚希の優しさにときめいた。
左右をよく確認して道路を渡った二人は、桜がよく見える所まで移動した。
「近くで見ると、よりきれいだよね。」
「うん。」
柚希の言葉にうなずきながら、椿はサクラの花を見ていた。間近で見るのははじめてで、五つの花びらが均等に並んできれいな形を作っていた。ほんのりピンクに色づいて春らしさを感じさせる。まさに春の象徴の花だ。
しばらくして、また二人は歩き出す。歩幅の小さい椿に合わせて柚希もゆっくり歩く。しかし、そのことに椿は気付いていなかった。目まぐるしく変わる景色に意識をとられ、始めて見る建物や植物に気をとられている。通りを抜け、迷わず小さな小道に入っていく柚希。それに合わせ、建物の多かった視界も、緑の木々に埋め尽くされた。
「わぁ、木ばっかりだね。」
「ここにいると落ち着くんだ。私のお気に入りなの。」
柚希がお気に入りというその場所はスギの木が立ちならぶ森の中で、とても空気が澄んでいる。静かに揺れる木々の音はとても心地よい。舗装されていない道路なので、少し足場は悪いが、それでも来てよかったと思えるくらいに落ち着く場所だった。普段、家の中にいることが多い椿は、大きな木々に囲まれて、なんだか知らない世界に来たようだと感じる。
二人はそれからしばらく歩き、森の奥に進んだ。
「椿ちゃん、みてみて。」
足を止めた柚希に合わせて止まり、声のした方を見ると、緑の木々の間に濃いピンク色をした花を見つけた。
「あれがツバキの花だよ。」
柚希に言われて近くによる。光沢のある濃い緑の葉を持ち、その部分だけほかの草木とは違う雰囲気を纏っていた。花は、濃いピンクの花弁と黄色の筒状の雄しべからなり、二色のコントラストが存在感を出している。
椿は、初めて見るツバキの花の、上品かつ華やかな雰囲気に見とれるとともに、自分が この花と同じ名前を持っていることが少し誇らしかった。
「今、ちょうどきれいに咲く時期なんだよ。もしかして、椿ちゃんの誕生日って近かったりする?」
「うん、明日だよ。」
「そうなの?」
驚く柚希。まさかと思って聞いてみれば、案の定、椿の誕生日は花の開花時期とほぼ同じだった。かくいう柚希の誕生日もユズの花の開花時期とほぼ同じなのだが。
「ねえ 柚希ちゃん、明日も一緒に遊ぼうよ。私、もっといろんな所に行って、いろんなものを見てみたいんだ。」
椿からの提案に、柚希もすぐにうなずく。
「いいよ。じゃあ、今日会った神庭神社で、今日と同じ時間に待ってるよ。」
「うん。」
二人は胸踊っていた。椿は、今まで自分から人を遊びに誘うことがなかったが、自分を 受け入れてくれた柚希には、すんなり提案することができた。柚希といると安心するし、 自分の知らないことをたくさん教えてくれる、そんな気がした。
柚希も柚希で 明日が椿の誕生日だと知って、何かサプライズをしてあげたくなった。見るもの全てに目を輝かせている椿に喜んでもらいたい。そう思い、帰ったら何か準備しなくてはと考えた。
明日また会う約束をして二人は来た道を戻っていく。途中見つけた、スイセンの花やタンポポ、オオイヌフグリなどに興味を持った椿に、花の説明をしながら、柚希もその光景をほほえましく見ていた。神社の手前まで来たときに、柚希はふと尋ねた。
「そういえば、椿ちゃんのお家ってどこなの?」
「神庭神社の隣だよ。お父さんがこの神社の神主なの。」
「そうなんだ。どおりで、神社に一人で来る子供なんて滅多にいないからね。」
そう言う柚希も、その珍しい人物の中に含まれることに本人は気づいているのか。
そろそろお昼ご飯の時間だということで、二人はそれぞれの家に帰ることになった。柚希と別れた椿は、自分の家に続く道を歩きながら考えた。柚希ともっと仲良くなりたい。そして自分の知らないことをどんどん学んでいきたい。彼女といれば、きっと成長できる、そう確信があった。そして、また明日会えることにワクワクしながら、家に帰った。
一方、柚希のほうも家までの道を歩きながら、明日の椿の誕生日に何をプレゼントしようか悩んでいた。とはいっても、柚希はまだ小学生のため、十分なお金も持っていない。だったらお金のかからないプレゼントをしよう、と柚希は考えていた。
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