第4話

「食パンまだ残ってるかな…。」

廊下を駆け足で進み、下駄箱に向かう。真新しいローファーをはきながら、携帯で電車の時間を確認する柚希。

「あと十分か。仕方ない、走ろう。」

そう言うなり柚希は駆け出した。中学では美術部だったとはいえ、柚希は足が速いのだ。小学校の頃は、陸上大会の選手にも選ばれたことがある。そんな持ち前の脚力を活かして、柚希は駅まで走る。女子高生の全力疾走が珍しいのか、足の速さに驚いたのか、周囲の注目を集める柚希。でも彼女は、そんなことを気にする余裕がない。なにせ特売が待っているのだから。

「ピピッ。」

改札を通り、階段を上ってホームにたどり着く。もう電車は来ていた。

「はあ、間に合った。」

「ふふ、朝とは立場が逆だな、ゆず。」

乱れた呼吸を整える柚希に話しかけたのは、空だった。

「あ、空くん。そっちも今帰りか。」

空は自分が座っていた座席を立ち、柚希に手招きする。帰宅ラッシュと重なったためか、電車の中はほぼ満席で立っている人も多くいる。

「おう、ゆずここ座れよ。」

「えっ、でもそれだと空くんが座れないじゃん。」

「いいから、ほら。」

そう言いながら、空は柚希の腕をつかみ、席に座らせた。空は、柚希の前で手すりにつかまりながら立っている。

「ありがとう。」

柚希が言うと同時に、電車が動き出した。ガタン、ゴトンと規則正しい音を刻みながら進んでいく。

「そういえば、美術部どうだった?」

空の問いかけに柚希は顔を上げる。

「その、部員がゼロで、休部中だったよ。」

「そっか。今年部員が集まって、復活するといいな。美術部。」

「でも、そこまでして入らなくても。そもそも絵って一人でも描けるからさ。」

弱々しく笑う柚希を見て、空は真剣な顔になった。

「おまえそれ、マジで言ってる?部活なくても本当に一人で絵描いてるのかよ?」

「それは…。」

空の剣幕に柚希は顔を背ける。思い返してみると、それこそ小さい時は、家で絵を描いて遊んでいたが、最近は忙しくて全然絵が描けていない。最後に描いたのは、中学三年の美術部での引退前の作品だろうか。あれからは、受験勉強や家の手伝いで絵に当てる時間がなかったのだ。

「ただでさえ、ゆずは家のことで大変なんだから、息抜きする時間は持つべきだろ。」

この言葉は柚希と幼馴染の空だから言えることだ。小学生の時に父親を亡くした柚希は、女手一つで三人の娘を養う母を支えるため、家事や妹達の世話をしている。同じ自治会に住み、小さい頃からよく一緒に遊んでいた空の耳にもその情報は入ってきた。なにせ、地域コミュニティーの強い町だ。同じ地区の人の近況はすぐに伝わっていく。

「中学では部活があったからまだ良かったけどよ。高校で部活入らなかったら、おまえいつ息抜きするんだよ。勉強も忙しくなって、家でも自由な時間作れないだろ。」

「私は大丈夫だから。」

そう言う柚希の笑顔は、今にも崩れそうだった。その顔を見て、空は胸が苦しくなる。

「姉貴が言ってたんだ。社会人になったらやること山積みで、自由な時間なんてほとんどない。一つのことに一生懸命になれるのは、学生のうちだけだって。」

「……。」

「ほんと、理不尽な世の中だよな。おまえみたいに、家族のために自分の時間も惜しんで働いてる高校生もいる一方で、毎日勉強もせず遊んでばっかの高校生や、自分のことだけ考えて無邪気に夢追いかけてる俺みたいなのがいるんだから。」

「空くんは夢持っててすごいよ。私にはそういうのないから。」

顔を逸らし、目に影を落としながら話す柚希に、空はデコピンした。

「イテッ!」

「違うだろ。おまえの場合は、夢を持てるような余裕も時間もなかっただけだ。そもそも、 おまえは他人優先に生きすぎ。もっと自分中心で生きろよ。」

柚希はおでこをさすりながら空を見る。

「おまえの人生なんだから、自分のやりたいこと我慢せずにすればいいじゃん。絵描きたいなら描けばいいし、ほかのことに興味あるなら、挑戦すればいい。でも、その場所と時間は自分で作らないとな。」

「うん…。」

柚希は空の言葉を聞いて考える。自分の為に自分の人生を生きる。私のやりたいことは何だろうか。楽しいと思えることは…。そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、中学の美術部にいるときの自分だった。自分が絵を描くのはもちろん、部員たち一人ひとりの個性光る作品を見るのがとても楽しく、刺激になった。先生に褒められると嬉しいし、上手い人の作品を見ると自分ももっと頑張ろうと思えた。そんな中学の頃の思い出がよみがえり、無性に懐しくなる。

「まあ、家の事情ってのは仕方のないことだけどさ。おまえが無理して一人で頑張る必要もないんじゃん?ちょっとくらい休んでも罰は当たらないよ。もし、それで何か言ってくる奴がいたら俺が追い払ってやる!なんてな。」

爽やかな笑顔で言う空に、柚希も微笑む。

「頼もしいね、空くんは。」

「俺でよければ力になるから、あんまり一人で無理するなよ。」

「うん、ありがとう。」

今の柚希にとって、空の言葉はとても心強かった。高校に入学して数日で、まだ本音で話せる友達がいない柚希にとって空は頼りになる。家も近いし、家庭事情も互いによく知っている兄弟のような存在だ。一緒にいると安心できる。

ほどなくして電車が家の最寄り駅に到着した。空と柚希は家が近いため、自然と帰り道も同じになるのだが。

「ごめん、空くん。私、スーパーで買い物して帰るから、ここで。」

「お、そうなの?じゃあ、俺も行こうかな。荷物持ちとして。」

「いいの?早く家に帰りたいでしょ。」

「まあ、たまにはな。」

そう言って柚希の横を通りすぎ、先に進んで行く。慌てて柚希も追いかける。

「そういやぁ、ゆず、髪型変えたんだな。」

「あ。」

空に言われて髪を確認すると、サイド三つ編みのハーフアップになっていた。そう言えば、裕先輩に変えられたままだったと思い出す。

「大人っぽくて似合ってるじゃん。」

前を歩く空の顔を柚希は確認できなかったが、褒められるとやっぱり嬉しかった。

近所で一番大きいスーパーに到着し、二人は中に入る。

「食パン確保。」

入店早々、柚希は特売の品を手に取る。

「今日の夜ごはんは何にするのかね、ゆず母さんや。」

「何その言葉づかい。」

急に年寄りっぽく話してくる空に柚希はツッコんだ。でも確かに何を作ろうかと思いながら野菜を見ていたら、ふと思い出した。

「そういえば、今日帰りに空くんの家に寄ろうと思ってたんだ。」

「えっなんで?」

「今朝、おばあちゃんに会って、春キャベツくれるって。」

「あーそうそう。昨日はうちロールキャベツだったんだ。これから当分キャベツ料理が続きそうだよ。」

小さくため息まじりに呟く空に苦笑いしながら、柚希は今夜の献立について考えていた。

「ロールキャベツか。いいな、それにしよ。」

そう言って、精肉コーナーに行き、ひき肉を一パック取った。その他にも足りないものや献立に必要なものをカゴに入れていく。一通りスーパー内を回り、レジで会計をした柚希は空とともに店を出た。

「ごめんね、重いでしょ。」

「いいって。そういえば、亜希たちの迎えは?」

片手に買い物袋を持った空は、柚希に尋ねる。

「ほんとは買い物のあとで行こうと思ってたんだけど、空くんに申し訳ないから。」

「俺は大丈夫だぜ、そんな重くないし。行こうぜ。」

空はそう言って、幼稚園の方に歩き出した。スーパーから徒歩十分。町内で唯一の幼稚園にたどり着く。園内の桜の花が満開で、春の訪れを告げていた。いつもより少し迎えが遅れたためか、迎えの親御さんの姿はちらほらとしか見えなかった。

「こんにちは、 出雲です。いつもお世話になってます。」

「亜希ちゃん、真希ちゃん。お姉ちゃんがお迎えに来たわよ。」

先生が部屋の奥に向かって声をかける。すると、トタトタとこっちに向かって走ってくる足音が聞こえてきた。

「おねえちゃん。」

ぎゅっと真希が柚希に抱きついてきた。真希の頭をなでながら、柚希は亜希の方を見る。手になにか紙を持っていた。

「あ、空にいちゃんもいる。」

「おう亜希、真希、元気にしてたか?」

亜希の言葉に空が答える。亜希は手に持っていた紙を広げて見せた。

「これ、亜希が描いたんだよ。」

「どれどれー?おっ、うまいじゃん。」

「私にも見せて。あっ、お母さんか。うまいね亜希。お母さんきっと喜ぶよ。」

空と柚希に褒められて亜希は嬉しそうに笑った。

「よし、じゃあ帰ろう二人共。」

先生に挨拶をして、幼稚園を後にした四人。柚希は真希と、空は亜希と手をつないで夕焼けを見ながら歩く。

「今日ね、みんなで公園に行ってお花見したんだよ。」

「そうなんだ。楽しかった?」

「うん、さくらきれいだった。」

ニコニコ笑いながら、今日あった出来事を報告する真希とそれを楽しそうに聞く柚希。一方で、 その後ろを歩く空は、自分の手を握る亜希と静かに歩いていた。もともと大人しい性格の亜希。空もそんな亜希の性格は知っているため、無理に話すことはないと思っている。幼い亜希や真希の歩幅に合わせてゆっくりと家に向かう。その時、空の手を握る亜希の力が少し強まったのを空は感じた。下を見れば亜希は柚希の背中を見つめている。

「どした?亜希。」

「亜希の絵、ママ喜んでくれるかな。」

きっと、さっき見せてくれた、亜希の母の似顔絵のことを言っているのだろう。

「大丈夫。絶対喜んでくれるよ。めっちゃ上手だったし。」

「ほんと?」

大きな目で見上げてくる亜希は、少し不安そうな顔をしていた。空は亜希を元気づけるように大きくうなずく。

「本当だよ。」

「でも、亜希、おねえちゃんみたいにうまく描けない。」

そう言って、亜希はまた柚希の背中に視線を移す。

「おねえちゃんの絵見ると、亜希も真希もママもみんな嬉しくなるの。 だから亜希もおねえちゃんみたいに絵うまく描きたいな。」

「あはは。まあ、あいつの絵は特別だわな。」

「とくべつ?」

「うん、あいつの絵はみんなを元気にしたり、心を動かす力がある。だから、みんなゆずの絵が好きなんだよ、な。」

「うん、亜希、おねえちゃんの絵大好き。」

亜希と顔を合わせて微笑む空。自分もゆずの絵は好きだ。見る人を惹きつける魅力的な絵。もちろん、それには基礎的な画力の高さが必要だが、柚希はそれを持っている。だからこそ、空は柚希に美術を続けてほしかった。もっと彼女の描く絵を見ていたい。そう思った。

「でもな、亜希。亜希の絵だって、ゆずの絵と同じくらい、いやそれ以上にみんなを喜ばせることができるんだよ。亜希が心を込めて描いた絵ならみんな嬉しくなる。 絶対ママも喜んでくれるよ。」

そう言って亜希の頭に手を置き、ポンポンと撫でると、亜希は顔を輝かせて頷いた。

しばらく歩いてアパートの近くまで来た。

「おかえり、柚希ちゃん。亜希ちゃん真希ちゃんに空まで一緒かい。」

「ただいま、おばあちゃん。空くんに荷物持ってもらって助かりました。」

「そうかい、空はいつでも手が空いちょーけん、こき使うだよ。」

「ちょっと、なんでばあちゃんが言うとんの?」

おばあちゃんと空のやりとりを柚希はほほえましく思う。

「空、柚希ちゃん家に春キャベツ持ってってやれ。」

おばあちゃんは一度家に入ってから、 大玉のキャベツが二つ入った袋を持って出て来た。それを、空が買い物袋を持っていない方の手で受け取る。ちなみに、さっきまで空と手をつないでいた亜希は、真希の反対側で柚希の手を握っていた。

「ありがとうございます。おばあちゃん。」

「いいんよ。前に畑仕事手伝ってもらったけん、そのお礼だわ。」

「空くんもありがとう、荷物持ち。」

「おう。」

そう言いながら、空は少し得意気な顔になった。親切にも、家の玄関まで荷物を持って来てくれた空にお礼を言って、柚希たち姉妹は家に上がった。



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