第3話

日も沈み始めた放課後。柚希はカバンを持って席を立とうとした。

「出雲さん、ちょっと時間ある?」

「ん?うん大丈夫だよ。」

前の席に座る女子に話しかけられた柚希は動きを止めた。少女は数学の教科書を柚希に見せ、ペンで問題を指し示す。

「この問題なんだけど…。答えが合わなくて、解法間違ってるかな。」

「ああ、これか。ちょっと見せてね。」

それは、今日抽希が授業で当てられた問題の類題だった。予習をしていた柚希は、当てられた問題に正解することができたが、やはり中学の数学に比べて難易度は上がっている。

「あっ、ここはかける二じゃなくて、二乗しないといけないね。」

「ほんとだ。ありがと。もう一回解いてみる。」

自分の机に向かい、ペンを走らせる少女を見ながら、柚希はもう一度席に着く。自覚はないが、彼女はお人好しなのだ。少女が正解にたどり着くまで付き合おうと思った。しかし、それは意外にも早く終わりを告げる。

「できた!答え合ったよ。ありがとう、出雲さん。」

「よかった。どういたしまして。」

満面の笑みを向ける少女に、柚希も自然と笑顔になる。

「じゃあ私は先に帰るね。また明日。」

「うんまたね。バイバイ。」

今度こそ、手を振りながら柚希は教室を出た。廊下を歩きながら考える。

入学して三日目。放課後にそのまま帰る人、部活に行く人、残って勉強する人、主に三つの過ごし方に分かれる。同じ学校でも、こうも放課後の過ごし方が違うものかと驚くと同時に、自分も高校での過ごし方をきちんと決めなくてはならないと感じる柚希だった。部活に青春を捧げるもよし、将来のために勉強に力を入れるもよし。しかし、自分が将来何になりたいのか、明確な目標がない柚希にとっては、頭を悩ます問題だった。安定した職業に就き、母に少しでも楽をしてもらいたい。そういう思いもあり、国立大学に進学することも視野に入れてはいるが、そもそも何の仕事をしたいのかが明らかでないと進む大学も決められない。数日前まで中学生だった彼女は、母の負担を減らすため、家から一番近い県立高校に進学したわけだが、その心はまだ迷いや不安を抱えているのだ。

廊下を歩きながら、校舎の窓や壁に貼られた部活動のポスターを見ていく。意外にも色んな部活があることが分かる。

「吹部五十人か、多いな〜。」

吹奏楽部のポスターを見て驚きを隠せない。美術部では絶対に考えられない人数だと柚希は思った。それはそうと、その美術部のポスターはどこだろうか。端から端まで探す柚希だったが、なかなかそれらしいものが見つからない。

「あれ、ないな。まあ、たまたまここに貼られてないだけかもしれないしな。」

そもそも部活の種類が多すぎる。所狭しと貼られたポスターに美術部が入る隙がなかったのかもしれない。そう考えて柚希はとりあえず美術室に向かうことにした。こういうとき、 専用の教室が決まっている部活は便利だ。美術部はたいてい美術室で活動するものだ。

柚希は四階の奧に位置する美術室に向かう。学校規則のしおりで場所は確認していたが、実際に行くのは初めてだ。『美術室』のプレートがある教室で足を止める。

「失礼しまーす。」

四回ノックをして、ゆっくり扉を開ける袖希。目だけで中を確認した柚希は息を飲んだ。

「あれ、 誰もいないな。」

電気は消えており、人の気配もない。ただ美術室特有の絵の具の匂いがするだけだった。

「今日は休みなのかな…。あれ?」

辞めて帰ろうとした柚希の目に、あるものが飛び込んできた。美術室の奥の扉、そこから光が漏れているのだ。誰かいるのだろうか。もしかして、そちらが本来の活動場所なのかもしれない。 柚希は美術室の中に入り、『美術準備室』とプレートの掲げられた部屋のドアに手をかけた。

「失礼します。」

「何?」

中には一人の生徒がいた。こちらに背を向けデッサンをしていた彼女は、手を止めて柚希の方を見る。

「あの、美術部の見学に来たんですけれども…。」

「美術部はいま部員がゼロだから、休部中だよ。」

「そう、なんですか。」

目の前の生徒の言葉に柚希は少しがっかりした。入るかどうかは別として、小さい頃から絵を描いてきた柚希にとって、共に絵を描く仲間と場所がないのはやっぱり寂しいものだ。

「わかりました。ありがとうございます。失礼しました。」

仕方がない。部員がいないなら、一人で活動してもあまり変わらない。だったら、部活は諦めて勉強に専念しようじゃないか。そう思い、教室から出ようと背を向けた柚希に声がかかる。

「あ、 ちょっと待って。あなた、これからどこか行くの?」

「いえ、このまま帰りますけど。」

「じゃあ、ちょっとモデルになってくれない?」

「えっ、モデルですか?私でよければ良いですけど…。」

「よし。」

彼女は立ち上がり、木の椅子を持ってきた。

「んじゃ、ここに座って。」

言われるまま椅子に腰かける柚希。

「ポーズとかどうします?」

「あ、ポーズはいいから、目線は右下で頭は固定して。」

そう言うなり、彼女はイーゼルとキャンバスを持って柚希の目の前に来た。柚希は言われた通り、目だけを右下に向ける。

「うん、やっぱりあなた綺麗な顔してるね。鼻高いし、まつ毛長いし、顔の輪郭も美しい。デッサン向きだわ。」

「あの、もしかして顔だけ描いてます?」

「そうだよ。」

紙に走る鉛筆の音を聞きながら、柚希は少し恥ずかしくなった。全体像をデッサンされることはあっても、自分の顔をまじまじと見られてデッサンされることには慣れていない。

無言になった柚希に 彼女は話しかける。

「うちは二年の常松裕。あなた名前は?」

「い、出雲柚希です。」

慌てて名乗る柚希に裕は微笑んだ。

「どっちも中性的な名前だね。」

「確かによく男の子と間違われます。」

柚希は困ったように肩を下げる。

「じゃあ、ゆずって呼んでもいい?そっちも名前で良いから。」

「あっ、はい。じゃあ、裕先輩って呼びますね。」

「先輩って柄じゃないんだけど…。」

裕は目を逸らして困ったように言う。

「裕先輩はどうして、ここでデッサンしてるんですか。」

変わらず目線は下に向けながら柚希は尋ねた。

「うちね、美大に行きたくて、ここで毎日デッサンやデザインの練習してるんだけど。まあ、入試のためだからさ、 自分の好きなものは描けないから、少しストレス溜まるんだよね。」

鉛筆で影を付けながら裕は答える。

自分の夢の為なら、気が乗らないことも頑張らなければならない。それだけ現実は厳しく、彼女の覚悟も強いということだ。

「まあ、ここらへんに美術の予備校ないからさ。自分で努力するしかないんだけど。」

裕の言葉に柚希は納得した。柚希たちの住む場所は、予備校はもちろん、大学も国立、県立が一つずつしかない。自分の行きたい大学を目指すには、自分で努力するしか方法がないのだ。それでも、その苦労を乗り越え、夢が叶った時は、喜びも一入だろう。だから頑張れるし、 努力もできる。

「うち、人の顔描くの好きなんだ。特に、ゆずみたいな美人さんは、描いててすごく楽しいの。」

「それはなによりです。私でよければ、いつでも力になりますよ。」

同じ絵を描くことが好きな者として、夢に向かって頑張る裕の力になれることが、柚希は嬉しかった。あと、やっぱり容姿を褒められると女子はみんな嬉しいものだ。

「よし、描けた。じゃあ次は、髪型変えてみてもいい?」

「えっ髪型ですか?」

いつも忙しくて、一つ結びしかしたことがなかった柚希にとって、髪型を変えるのは少し抵抗があった。動揺する柚希をよそに裕は席を立つ。

「大丈夫、大丈夫、絶対似合うから。」

この先輩はいったいどんな髪型にしようとしているのだろう。柚希はそう思いながら、 されるがまま、裕に髪型を変えられていた。

「ゆずの髪めっちゃ細いし、サラサラ。嫉妬するわ。」

「理不尽ですよ。裕先輩だって、ショート似合ってますよ。」

「うちは、ロングが似合わないことが検証済みだからね。おそらく一生この髪型よ。」

「髪のアレンジとかしたくないんですか?」

柚希の髪を構いながら、裕はうーんと考える。

「ゆずの髪いじれれば楽しいから、それでいっかな。」

「私、おもちゃじゃないんですよ。まあ、先輩が良いならそれでいいですけど。」

やれやれと半ば呆れながらため息をつく柚希。すると裕の手が止まった。

「できた。サイド三つ編のハーフアップね。」

「おお、器用ですね。」

柚希は、触ろうと頭に手を伸ばすが、すんでの所で崩したらダメだと思いとどまる。そんな柚希の葛藤をよそに、裕は新しい紙を用意し、鉛筆を持った。

「さっきと同じね。」

裕に言われ、柚希は目線を右下に向け頭を固定する。鉛筆を走らせながら、裕は口を開いた。

「ゆず、美術部復活させてよ。そしたらうちも入るからさ。」

「でもそんな簡単には。」

「二人。」

「え?」

「部活として認められるのは四人からだから、ゆずとうち以外に二人。ゆず連れてきてよ。」

裕の突然の発言に、柚希は思わず顔を動かしてしまった。

「そんな勝手に、そもそも先輩は、部活入ってなくても、こうして絵描いてるじゃないですか。」

「ゆずはどうなの?」

言葉の意味が分からないというように、目をパチパチさせる柚希に、裕は手を止めて話しかける。

「ゆずは部活で絵、描きたくないの?」

「そりゃ、同じ趣味を持つ仲間と絵が描けたら楽しいですけど…。」

「だったら集めようよ、部員。」

そう言いながら、再び手を動かし始めた裕を見て、柚希も元の姿勢に戻る。しばらく沈黙があった後、柚希は口を開いた。

「裕先輩は、部活復活させようとしなかったんですか?」

「うちは、こういう性格だからさ。面倒なことはしたくないんだよ。」

「えぇ…。」

そんなのありか、と聞こえてきそうな声を出す柚希に裕はクスクスと笑う。

「はい。できたよ。」

デッサンを終えて、紙を画版から取りはずした裕は、先程描いた一枚と今描いた一枚を持って柚希の前に来た。

「どうよ。」

そう言って、二枚のデッサンを並べて柚希に見せる。

「わあ、全然違う人みたいですね。」

同じ角度から同じ人物の顔を描いていたはずなのに。髪型を変えただけで全く別人のようだ。

「でしょ。髪型だけじゃなくて、表情とか角度とかが違うだけでも、全然雰囲気が変わるんよ。だから、人の顔描くのは楽しいんだ。」

「なるほど。面白いですね。やっぱり絵は奥深いな。」

「どう?部員集める気になった?」

いたずらっ子のようにニヤリと笑っている裕を見て、柚希は眉を下げる。

「もう、それとこれとは別ですよ。そもそも私、部活する時間があるかどうかも…。ん、時間?…あっ、スーパーの特売が⁉」

時計を見て柚希は叫んだ。

「すみません裕先輩、ちょっと用事思い出したんで、私帰りますね。」

急いでカバンを持って扉に向かう柚希の背中に、裕が声をかける。

「ゆず、また来なよ。」

「はい。じゃあ、また。」

裕に頭を下げて柚希は部屋を出て行った。

「スーパーの特売って。主婦かよ。」

柚希の出て行った扉を見ながら、裕は呟いていた。机の上に並べられた ビンやリンゴ、布などの配置を整え、裕は再び静物デッサンに取りかかった。

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