4.

 梅雨は気づいたら通り過ぎていた。

 じっとり肌に張り付く空気も、すっかり顔を出さなくなったお天道様も、祖父母の手伝いに馬車馬の如く働かされていれば、いつの間にか変わっている程度のものだ。

 あの二人、僕が帰る日を決めた途端に重いものの絡む仕事をずっと振ってきたんだ。それをするために来たとはいえ、疲れるものは疲れる。


 電話口に労わってくれる、同い歳の冬の少女も変わらずだ。

 さすがに受験が近づいてきたからか、メッセージのやり取りこそ減ったものの、その分だけよく通話するようになった。

 萌音さんが冬の少女なら、お地蔵さんの前で話すもえちゃんは、さしずめ夏の少女といったところだろうか。

 彼女とは田んぼに行ったり、里に下りたりと、いろいろなことをした。

 無表情ながら、あの子なりに見たことのないものを楽しんでいるように見えて、さながら兄のような気持ちになりながら、時は過ぎていく。


『あと数日でこっちともお別れと思うと、なんか感慨深い』


『こちらは随分と長く会えていませんから、待ち遠しいです』


『確かに……もう二か月にもなるかぁ』


『はい。こう、言ってしまうのは恥ずかしいですが、寂しかった……ので』


 メッセージ上では上手く伝わってこないし、いつもの通話中にはあまりそういう色は見せてはいなかった。

 だから、突然のその告白に胸が高鳴る。

 ずっと寂しい気持ちを、ほのめかすだけに留め続けていた。あまりに追いすぎればしつこいと感じられそうで、かといって告白まがいのことをした手前、思いの丈を一切隠し通すこともできやしない。

 そんな中で。


『ごめんなさい、はしたなかったですよね。お気に障ったのであれば、メッセージ削除を』


『いや、その……嬉しかった。すごく』


『えっと……』


 なんだか気恥ずかしくて、続きを紡ぐこともできずに顔を覆う。

 それでも、もっと彼女の言葉が欲しくて。彼女の声が聞きたくて。

 トークルームの隅、コールボタンを押した。


 今までで一番長く、夜遅くまでの通話をした。

 途中で萌音さんはいつもの跨線橋に行ってくれたらしく、あの街の生温いけれど懐かしい風が、こちらまで吹いてくるような気持ちになった。


「ねえ、萌音さん」


「はい。なんですか?」



「明後日帰ったら、一番に貴女の所に行きたいからさ……そこで待っていてくれない?」


「ええ、わかりました。でも、時間はちゃんと教えてくださいね?この街は茹で上がってしまうほど、暑いですから」


「そうだね。僕が会う前に、萌音さんが熱中症で倒れてしまったら大変だ」


「宇月さん。明日はどうされますか?」


「明日?いつも通りにお地蔵さんの前に行って、もえちゃんにさよならを言って……あー、あとは晩御飯の買い出しに行くくらいかな?」


「その予定ですが、変えた方がいいかもしれませんよ」


「それまたどうして?萌音さんが僕の次の日のことを気にするなんて、珍しいね」


「出しゃばりすぎかもわかりませんが……明日はかなりの猛暑の予報が出ているみたいです。もえ、さんもきっと外に出ないように言われるはずですから」


「ああ……家で涼んでた方がいいってことか。爺さん婆さんも暑いと家事もやりたくなくなるだろうしって、そういうことだよね?」


「はい。帰る直前に病院に搬送、なんて悪い冗談ですから」


 真に気遣うその言葉。少しだけ引っ掛かりを感じたのは気のせいだったろうか。

 それでも、おやすみなさいを言って電話を切った。何かがあったとしても、彼女が自分に隠していることがあるなら、それはきっと、事情があるはずだから。


 目が覚めたのは、いつもより遅い時間で。

 外はすでに暑く、遅めの朝食をぼそぼそと口にしながら、祖母に今日は一日家で荷造りすることを伝えた。

 適当に昼食づくりの手伝いをして、適当にクーラーの下で涼むだけの昼時。

 ここのところ味わっていなかった自堕落な日、というものに感じるのは、懐かしさでもなんでもなく、ただの嫌悪感と罪悪感。あの街にいる間、ずっとこんな毎日を送っていたと考えるほど、自分が嫌になってきた。


 ここにいるだけで、どれほど人間的な生活を送ることができていたのか、なんて思いを巡らせていた時。

 静かなはずの里に、サイレンが響いた。

 祖母が騒ぎだし、祖父を呼びに動く。前に聞いた時には感じなかった胸騒ぎがした。

 家にいると約束こそしたけれど、なんだかじっとしてもいられずに家を飛び出す。

 いつもの地蔵の前を駆け抜けて、いつかに彼女を送り届けたところへ走る、走る。

 そして、嫌な予感はいつも。そう、嵐の日の天気予報みたいに。


「黒須さん!」


「ああ、砂井さんのところの……もしかして、あの子の行方を知っているんですか!?」


「ごめんなさい、知りません……でもやっぱり、もえちゃんが居なくなったんですね?」


 そう。嫌な予感は当たるのだ。怖いほどに当たる。


「朝、私が家を出る前は見たんですけど、お昼ごはんを作りに家に戻ったらいなくなっていて……もう、私どうすればいいのか」


 警察の人が、もえちゃんのお母さんをなだめている様子を見ながら、暗い底に落とされたような気持ちになっていく。

 あの日の黒い、黒い、濁った少女を思い出していく。

 二か月後に家に帰ると伝えたとき、やけに鋭く、そして不機嫌になった彼女が目に浮かんでいく。


「ちっ……なんで……!」


 踵を返し、あの地蔵の前へと走り戻る。

 降り注ぐ日差しも、何もかも喘がせる熱も、踏みしめる足の衝撃もはね返してくるアスファルトが。

 焦らせて来る、危機感をあおって来る。それはみんな錯覚で、心の奥底から湧き上がってくる悪感情を、自己嫌悪から逃れるために責任転嫁しているだけ。

 もし、もっと早く彼女の事情に踏み込んでいれば。もし、自分がもっとしっかりしていたら。もし……萌音さんに従わず、家から出ていれば。

 ぐるぐる回る、ぐつぐつ茹る思考の数々。


「あ……」


 冷静じゃない頭で、火花の散る眼で、見つけられたのは奇跡だろうか。

 そこにあったのは、もえちゃんのつけていた、青色の髪留めだった。

 きっと彼女は、待っているんだ。遠くない場所で、遠くへ行ってしまう僕を。

 冴えていく思考と加速する視界、推測とも言えない妄想を胸に、田んぼへと走った。

 彼女と虫取りをした水路。彼女に本を貸したあぜ道。棚田を登って登って、森に入って……そして、名山より流れ落ちた川の畔で、黒い鞠のような彼女を見つけた。


「ぜえ、はあ、もえ……ちゃん」


「……ん、渡さん」


 だらだら流れる汗で歪む視界でも、彼女の体調の悪さはよく分かった。

 瞳が焦点を結んでいない。顔色は悪く、木に背中を預けて息を浅くしている。


「なん、で。こんなところまで」


「ふふ、でも来てくれた」


「当たり前、だよ。ぜぇ……ふぅ、もう一回聞くけど。なんでここに来たの?もえちゃん」


「渡さん、もうすぐ帰っちゃうから、わたしの秘密、話したかった」


「そんなことのために……!」


「そんなことじゃない。大切なこと」


「わかった。じゃあ、家に帰ってお母さんを安心させてからにしよう。君も僕も熱中症真っ盛りだ……」


「嫌。わたしはここを離れないし、ここでしか話さない」


「でも……!!」


「じゃあ、話すよ。わたし『もえ』なんて名前じゃないの」


 こちらの都合も、自分の体調も無視して、少女は告解を始める。

 構わず、手を伸ばして。だけど……つかめなかった。


「わたしの本当の名前は『萌音』」


 その「音」を聞いてしまったから。

 呆然と、蝉の声だけが聞こえる世界に取り残された。

 目の前にいるのが誰かもわからなくて、自分がどうしてここにいるのかもあいまいになって行く。

 どちらを優先させたんだったか。どちらをかけがえのないものと感じたんだったか。どちらを好きになったんだったか。どちらを心の底から愛したのだったか。


「わたしは『黒須 萌音』。『宇月 渡』のことが好きな一人の人間」


 一人の人間、ひとりの人間。その言葉がリフレインしていき、遠くに響くサイレンと混じって脳を揺さぶってくる。


「貴方に居なくなってほしくない。貴方が好きな、わたしと同じ名前の人に、貴方をとられたくない」


 同じ名前の誰か。そんな単純な事ならどんなに良かっただろうか。

 黒絹のような長髪。濁りをとれば輝き、夜空の色を見せる藍の瞳。左右対称に整ったな顔立ち。

 そして、僕へと向けてくれる想い。


「あの人に追い詰められて、母さんと一緒に殺される運命ならば、ここで貴方と死にたい」


 ああ、目の前の夏の少女も、あの街の冬の少女も、間違いなく「黒須萌音」なんだ。


「わたしという存在を賭けて、貴方をこの森に繋ぎとめる」


 ここに来るまでに乱された思考が、混乱の極致にあって。

 一方で、蝉の声の中から萌音ちゃんの声を拾っている意識は逆に、やけにはっきりしていた。


「僕は、僕は君を」


 うわごとのように呟く言葉、汗と同じく零れていく音。


「だから。わたしは貴方が好きだから、わたしと一緒に死んで?」


 決定的なそれ、十二歳の少女が発するには重すぎるセリフ。

 それは僕にとっては「返ってきた」ものでもある。

 あの日、萌音さんの前で自殺を図って。今この瞬間、萌音ちゃんに心中の誘いをかけられている。

 それは、途方もなく大きな運命のらせんが、僕をがんじがらめに縛っているようにも感じた。


 蝉の一生ほどの時が経ったようにも、汗が滴るまでの一瞬でしかなかったようにも感じられた、告解。

 抱えきれなかった重石を引きずって、目の前の黒い少女は僕の手を掴んだ。

 冥府への道行きは、愛する人とともにありたい。古来より多くの人が望み、実行され、禁忌とされるその行為。

 彼女は僕に恋をしていて、僕は黒須萌音という女性に運命的な愛情を抱いていた。

 致命的に歪んでいても、それは互いを想い、噛み合い、回っていく歯車。

 それならば、この身に、この心に、出せる答えは一つだけ。


「僕も…………」


 ・・・・・


 その少女は、独り。跨線橋の上に毎日足を運んだ。

 ずっとずっと遠い過去を振り返っては、自分自身を憎み、運命を呪い、時に愛した男さえ恨んだ。

 そして、願った。

 どうかわたしが、あの人を生かして死ねますように。

 どうかあの人に、もう一度だけ会えますように。


 涙は枯れて、命も絶てずに少女は生きる。

 二本の缶コーヒーと、青色の髪留めと共に。


「寒いですね」


 誰にも届きやしない、そんな言葉を呟いた。

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つめたくとける りあ @hiyokoriakyo

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