3.
五月、ゴールデンウィークにしては随分と寒い、雨の日。
午前中こそ曇りで、僕は田へ出ていたのだが、雨が降り始めてたまらず撤退を決めた。
祖父はもうすぐ作業が終わるから、と残っているところを見ると、さすがに長くやっている人は違うなと思いつつ、申し訳なさも湧く。
それでも、ここにいてできることもなく、止む気配のない雨に嫌気が差しながらひとり、棚田の坂道を登った。
鯉のぼりを上げている家が見えた。そういえば、そんな時期。
昔は鯉のぼりが上がっていると嬉しかったし、玄関に飾った武者人形に高揚した。
目の前の文化や伝統に目を輝かせられたのは、何時頃までだったろう。
気づけば今に繋がるものから興味は薄れていって、今は信じられてもいない八百万の神に少しの興味が残っただけだ。
忘れ去られた神たちは、どんな気持ちなんだろう、なんて。
雨は強くなってくる。
曲がり角の先、坂を登れば家はもうすぐそこだ。
傘なんて田んぼに持ち込んでいないし、ウィンドブレイカーが弾いてくれる雫だって限界がある。
ついには走り出し、びゅうびゅうと風に逆らって行った、その時に。
ふと、奇妙なものに目が留まる。足も止まる。
それは、坂の途中のお地蔵さんの前。
黒色したなにかがもぞもぞ、蹲っていた。
正直見て見ぬふりをしたかった。
妖怪なんかの類じゃないことは、よく見ればすぐわかる。
でも、訳ありであることは一目瞭然。こんな雨の中に似つかわしくは無いのだから。
通り過ぎようとして、足を早めようとして。
やっぱり放っておけなかった。
「……寒いね」
自分でもよく分からないまま、黒い鞠みたいな少女にウィンブレを被せていた。
学校に通っていた頃はそれなりに気遣いもしていたし、友人の手伝いやら、一般的に「優しい」と言われるようなことはやってきたつもりだ。
だが、それは知っている人を相手にしてるからで、電車の席を譲る程度ならともかく、こんな訳ありにお節介を焼くなんて自分でも思ってもみなかった。
「服、大丈夫?」
大丈夫じゃないだろう。長らくこの地蔵の前にいたらしい少女は、とっくの昔に濡れ鼠で、上着を被せたくらいで事態が良くなるでもない。
それでも、声をかけた。会話を続けた。それは半ば、使命感のようなものさえあって。
「なあ、家は?なんでここに居るの?」
少女が返す言葉を紡ぐ前に、こちらが捲し立てる。
これでは怯えさせてしまうかもしれない。そんな思考も浮かんでは消えて、必死になって彼女をここから動かそうと説得を続けた。
「……名前は?」
服が濡れていく。黒色の少女と同じく、雨に侵食されて冷たくなっていく。
どうして必死になっているのか、疑問に思う気持ちも、流されて消えていく。
それほど焦って、届いた言葉は最後のひとつだけ。
「もえ」
小さく呟いた少女は、月明かりのない夜のような瞳を向けた。
青と黒が濁り混ざって、見ていられやしなかったから、だから。
咄嗟に手を引いて、躓きそうになる彼女を強引に支えながら、家に帰った。
・・・・・
少女を見た祖母は驚き慌て、事情聴取もなしに彼女の服の準備を始めた。
なにぶん古い家だ。母が小さい頃の服くらいあってもおかしくは無いだろう。
追求されなかったことへの安堵も、これからどうしようという不安も押しのけて、彼女を風呂に押し込んだ。
大分歳下とはいえ、自力で風呂には入れそうに見える。
華奢な身体を独りにするのは忍びなかったが、あまり彼女に触れるのもはばかられたから。
幾分生気の戻った少女に、祖母がワンピースを貸した。
服を着るやいなや、お得意のお喋りで彼女の出自に事情を聞き出そうと躍起になりかけたが、なんとか振り切った。
必死に言い訳する自分と、無表情のまま突っ立っているだけの少女。その様は滑稽で、二人で部屋に戻った後に脱力した。
「もえ……ちゃん?」
拾った少女、というと犯罪臭くて頭が痛くなる。
酷い矛盾を感じるけれど、現実から目を逸らしながら、目の前にいる「もえ」を名乗る彼女に接した。
「改めて聞くけど、どこから来たの?」
「東京」
「東京か……一人で?それとも、家族と?」
「引越し」
彼女の受け答えは、淡々と一言のみで紡がれる。
表情もないものの、別段コミュニケーションに困るほどではなく、ある程度もえちゃんのことを知ることができた。
彼女の言うところでは、ゴールデンウィークに入ってすぐに、母親と東京から越してきた小学六年生、ということらしい。
歳を聞いて驚いたが、前の学校では身長は低い方で、幼く見えたのはそのせいか、と納得もした。
「家には帰らないの?」
「帰る」
「そうか……じゃあ、なんであそこに居たの?」
「…………」
こうして、返ってこない問いもある。
小学六年生の抱える悩みなんて、ほとんど覚えていないけれど、女子は心の成長が早いとも聞く。
あるいは自分が中学生やら、少し前まで抱えていた漠然とした悩みを、同じく患っているのかもしれない。
どこまで触れていいのか、思い出しづらい経験と照らし合わせて思案していると、漸くもえちゃんの方から話しかけてきた。
「あなたは、誰?」
「僕は宇月 渡。高三……だったけど、今はここの手伝いで関東から来てる」
「なんで、連れてきた?」
「そりゃ、びしょ濡れで蹲ってる女の子を放っておけるわけない」
「そう。歳上……敬語使った方が、いい?」
「別にいいよ。歳下の子に敬語使われるの、苦手なんだ」
ぽつぽつと、こっちに来てからの話をして、もえちゃんは突然「帰る」と言い始めた。
別段止める理由もなかったから、傘を貸して家を出た。少々心配があったため、彼女の家まで送ることにはしたが。
「別に、着いてこなくても良かった」
「そういうわけにはいかないよ。またそこら辺で踞られたら、折角温まってもらったのに意味ないし」
結局、お地蔵さんの前に居た理由は教えて貰っていない。
教えて貰っていないということは、いつまた同じことになるかも分からないと同義。
それはさすがに、心配がすぎるから。こうして並んでいる。
坂を下って、田んぼへ行く道とはまた別の方向へ、少し進む。
更に山を降りれば、現代風の住宅街が見えてくる、そんな境目のあたり。
「ここ」
「思ってたよりうちの家寄りだった」
「どういうこと?」
思わず口に出てしまうほど、東京の家族が引っ越してくるには古い家だった。
古い、と言ってもボロボロだとか、崩れ掛けだとか、そういう風ではなく。
前の管理者の、この家への想いが伝わってくるような。そういう家。
「それじゃあ。わたし、ここまででいい」
「ああ……また」
「また?……そう。また」
玄関先でもえちゃんと別れ、特にご家族に挨拶をするでもなく、来た道を帰る。
こうやって、誰かを家まで送るなんていう経験は初めてだ。
大抵は駅や、最寄りのコンビニなんかで友達とは別れて、「また明日」なんて言って終わり。
今日会ったばかりの歳下の女の子は家まで送るのに、五年以上付き合いのある友人の家に行ったことがない。
なんだかおかしくなって、傘の中で少し笑った。
・・・・・
それからは何度か、田んぼの世話の帰りに、あのお地蔵さんの前でもえちゃんに出会った。
連休が明けても空の機嫌が悪く、寒い日が多かった。
『萌音さん、今日もあの子に会ったよ』
『なにか、家の事など変わったことは言っていませんでしたか?』
『いや?田んぼにどういう虫がいるのかー、とか。東京の学校がどうだとか。そういう話しかしてない』
『そうですか……しかし彼女も、話し相手がいて楽しいことでしょう』
萌音さんとは、こういったメッセージのやりとりだけではなく、時々音声通話をしている。
彼女の声を聞くと安心するし、遠くにいるのに近くに感じられて、暖かい気持ちになった。
日々の他愛ない雑談の中で、もえちゃんのことを出してから、たまにこうやってあの子のことを話すことも増えた。
会ったことはないだろうけれど、萌音さんはなにか思うところがあるのか、気遣わしげな声音で彼女のことを聞いてくることも多い。
『しばらくこっちにいると思うけど、暑さが酷くなってきたら帰ると思う』
『それは嬉しいですね。久しく顔も見ていませんから、焼けたでしょうか』
『そうかな……自分では分からないけど』
田植えも終わり、祖父の仕事も今はほとんどない。
暑さが酷くなってきたら帰ろう、というのはずっと考えていたことだった。
なにより、萌音さんの傍にいられれば、少しは煩わしい暑さも遠のくかもしれない、なんて思っていたから。
『それじゃあ、おやすみなさい』
『ええ。おやすみなさい』
彼女と共に優しく夜はすぎて、田に行かずとも地蔵の前には通う。
ここ最近は、ずっとその生活の繰り返しだった。
祖父母は初めこそ心配していたものの、どこかでもえちゃんの親御さんに会ったらしく、今では彼女の怪我の心配ばかりだ。
「もえちゃんはさ、同年代とは遊ばないの?」
「わたし、まだ友達いない」
「まあ、六年目でやってきた転校生に馴染むのは難しいかー」
「教室、派閥争いがある」
「まじで?今の小学生怖い」
「渡さん、わたしたちとそれほど年齢、変わらない」
とは言っても、小学生くらいの歳だと毎年流行りは変わっていくし、六つも違えばクラスの雰囲気だって違うだろう。
六年前を詳細に思い出せ、なんて言われてすぐに出てくるほど記憶力に自信はないが、だいたい仲良くやっていた気がする。まあ、転校生の有無というのは、大きな問題かもしれないが。
「じゃあ、うちの従兄弟とかどうだろ。もえちゃんと同い年の男の子と、あと少し下の女の子が三人」
「いい。友達作りに必死になってるわけじゃないから」
「そういうもんか。まあでも、色々話せる友人がいて困ることは無いから、いた方がいいと思うよ」
「それも、困ってない」
提案が却下されることは多い。
もえちゃんは並の小学生よりずっと大人びていて、適当に断っているようには見えないけれど、それでも少し寂しい。
断崖絶壁の上にあるちいさな花が、どれだけ声をかけてもこちらに花弁を落としてくれないような。
「だって、わたし……」
「うん?」
「やっぱり、なんでもない」
視線を逸らした動きと同じくして、長い黒絹が風に揺らぐ。
無愛想で、光のない瞳で、全然女子小学生らしくない彼女だけれど、きっと将来はきれいな女性に成長するだろうと、そんなふうに思った。
「そういえばさ。たぶん、あと一、二ヶ月したら向こうに戻ると思うんだ」
「向こうって、関東?」
「うん。こっちには祖父母の手伝いで来てるって言ったでしょ?田んぼも一段落したし、そろそろ帰ろっかなーってさ」
「そう……なんで?」
「うーん、こっちはいいところだけど、向こうの方がやっぱり自由は多いし。見つけきれてないやりたい事も、どうにも進展しないしさ」
「嘘。渡さん、なにか隠してる」
……それは、困った。
もえちゃんの眼光は、誤魔化しを許さないと、いつもの濁りをどこかに吹き飛ばして輝いている。
二人の会話は氷山の角をぶつけ合うようなものだ。もえちゃんが多くを隠しているから、それに合わせて言わないことも多い。
相手が隠し事をしているのは、自分の言っていない部分に配慮しているからだ、なんてこと、きっと彼女はわかっている。
短い付き合いの中でも、彼女の聡明さは十分に知ったし、自分が隠したいことへの追求を望まないからこそ、自分も相手を追求しない、そんな対等な会話の駆け引きを、彼女がこなすことも身に染みてわかっていた。
だからこそ、困った。
その駆け引きは裏返せば、こちらが譲歩してわざと「作っている」ものだ。
そこに気づいているかどうかはともかく、もえちゃんにとっては、自分に隠し事のない時は追求できるのだから。
「あー……うん、確かに隠してた」
「それは、なに?そして、なぜ?」
「男の意地……みたいな?」
なんてことはない。闇に染まった家庭事情も、血塗られた過去もない。
隠しているのは、萌音さんの存在、ただそれだけだ。
自分の想い人のこと、そしてともすれば惚気話を、六つ下の女の子にわざわざ話すなど、避けたいことだったから。
「わたしは女。意地とかない」
「はいはい、だから対等にってことね?わかったよ」
仕方なく、萌音さんとの出会いを話していく。
できるだけ語り口が熱くならないように、自分が彼女が好きであることを表に出さないように、努めて平静に。
それでも、もえちゃんは鋭いのだ。
「つまり、あなたはその人が好き?」
「いや……うん、まあ。好き」
「そう……渡さんの、好きな人」
「なんですか、もえさんはそういうのなかったんですか。揶揄うつもりなら一方的なのは対等じゃないんじゃないですか!?」
「……別に」
ふい、とそれ以上の言葉はなく、彼女は背を向けた。
おどけて見せたのは失敗だっただろうか、と。今更になって羞恥が湧く。
「あー、なに?その」
「渡さん」
「ハイ」
「一ヶ月なの?二ヶ月なの?」
「……二ヶ月にするよ」
「そう」
なにに機嫌を損ねられたのかわからないまま、去っていく彼女の背から目を逸らした。
歳下の少女にこうも調子を狂わせられる十七歳に、青空が嘲笑っているような気がして。
「そんな調子なら寒い方がいいよ、バーカ」
小さく捨て台詞を吐いて、坂を登った。
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