2.

 春が来る。

 桜が散れば、新しい生活が始まるというけれど、僕の毎日は何も変わっていない。

 もう二度と行きたくもない場所から退学して、時間を貪って部屋に篭もるばかりのモグラ。


「友達にこんなに早くニートデビューするやつがいるとか、人生わかんないよな」


 電話口に言われた何気ない冗談。それを聞いて、冷水をかけられたみたいにようやく「客観視」ってヤツができたらしい。


 空回りする自分が嫌いだった。

 へらへら笑って、煽りに乗って、勉強もロクにしない癖に考えすぎる。

 自己評価にはゼロと百しかなくて、何も出来ないわからないのに、嫌に完璧主義を自称していた。


 でも、今は違う。

 今は考えることすらしていない。現状から目を瞑って、あれほど反発した親の脛を齧らせてもらって生きている。

 あるいは、緩やかに死んでいる。

 何もしていない事実を突きつけられても、新しく何かを始められる訳でもない。

 ただ、ただ、起きて飯を食う。風呂に入って寝る。


 それでも彼女は笑顔を向けてくれた。


 あの寒い日から3ヶ月。連絡先も交換していなければ、名前も聞いていない。

 一週間に一度だけ跨線橋の上でコーヒーを飲むだけ。

 僕たち二人はそんな関係だ。

 会って話すのは僕。彼女も、少し。

 同い年らしい相手は毎日登校していて、僕は一日寝て過ごすだけ。

 どちらがいいわけでもないけど、どちらもストレスと不満ばかり溜まるから、コーヒーを入れて吐き出す。

 本当に、それだけ。

 あの日の「口説き文句」だって、気取りすぎて恥ずかしいから掘り返そうと思わないし、彼女の口から「奇遇ですね」の続きが紡がれることもない。


 それでも春の一ページに、日常じゃない二人の逢瀬は刻まれる。

 マフラーがなくなって、グローブをつけなくなって、コーヒーが冷めなくなっても。

「寒いですね」で始まって、ずっと彼女と一緒にいたかった。


「ねえ、春は好きですか?」


「あんまり……僕は冬が好きなので、暑くなる予兆だから、好きじゃないです」


「そうですか。わたしは……わたしは好きですよ、春」


「どうして?あなたも冬が好きそうだと、勝手に思っていたんですけど」


「雪や氷が溶けていく姿が好きなんです。冬が美しく終わるためには、春が来ないといけません」


 この近辺で雪が降ることは少ない。都心とそれほど変わらず、年に一度か二度降って、小学生を喜ばせるくらい。

 雪が溶けるから好き、というのはわからなくても、毎年毎年飽きもせずに花をつける桜は僕も好きだと思った。

 それは、月明かりに照らされた彼女の頬の色と同じだからというのも、ひとつ。


「でも、春は短い。すぐに暑さに飲み込まれて消えていってしまいます。僕はあの夏の息苦しさが嫌いなんです」


「夏も存外、悪くはありませんよ?蝉の声が煩わしくとも、それを越えて夏にしか伝えられないことも、ありますから」


 十七年生きてきて、そんなことに心当たりが生まれたことはないなんて、少しムキになった僕を、彼女はくすくす笑ってからかった。


 こういう毎日が続けば、春や夏も好きになれるんだろうか。

 コーヒーの缶を捨ててから、そんなことをぼんやり思った。


 ・・・・・


 珍しく憂鬱な気分で、深夜の散歩に出る今日。

 水溜まりをかきわける車のタイヤみたいに、色んなもので汚れて黒い気持ちだからだと、わかってはいる。

 彼女に会うことが日々の喜びなのに、こんな顔じゃあ愛想をつかされてしまう。

 ぱん!と頬を張って、心の泥沼を隠そうと努力はしたつもりだったのだけれど。


「オレンジジュースですか」


「まあ、たまには。案外好きなんですよ。……ああ、あなたの分はいつも通りコーヒーにしました」


「ありがとうございます。でも、大丈夫です。わたしもオレンジジュース、もう一本買ってきますね」


 気遣わしげな瞳と、僕に合わせてくれようとする彼女の心配。

 僕が隠そうとしていることなんて、筒抜けも同然なのだった。

 本当に、敵わない。


「実は、しばらくこの街から離れることになったんです」


「それは……また、どうして?」


 プルタブを開ければ、コーヒーとは違う、甘くて爽やかな彼女に似合う匂い。

 誰にも飲まれず、ポケットの中で抗議してくるコーヒー缶を弄びながら、少し気まずく僕は続けた。


「母方の実家が、そろそろ田植えらしくて。祖父母はもう結構歳も行ってますから、家で暇してる僕にお呼びがかかっちゃったんです」


「成程、農家の手伝いでしたか」


 背中を押されるだろうか。それとも、僕の顰め面を見て同情してくれるだろうか。

 目の前の相手のペースに合わせて、橙色の液体を喉に通すスピードを落としながら、そわそわと考えた。


「この街は、好きですか?」


「え?」


「あなたにとっては生まれ育った街かと思います。どうでしょうか、この街は好きですか?」


 あまりにも面食らってから、顎に指を当てる。

 小さな頃どう思ってたか、なら思い出せるけど……今はどうなのだろうか。久しく考えてもいなかった問い。


「えっと、昔はたぶん、好きでした。田舎田舎言ってるけど、結構店とかはあるし。お祭りに出てくる大人とも仲が良かったので」


「それならば、今は?」


「中学、高校と……ちょっと離れたところに行っていたので、あんまり考えなくなってました。いつの間にか」


 だから今はわからない。

 隠すことでもないと思って、あるいは彼女に隠し事が通じないとさっき思い知らされたからか、気持ちを吐露していく。


「だから別に、ここに特別愛着があって、ずっといたいわけじゃないんです。この街でやりたいことがある訳でもない」


 だから、さっき両親とした口論はただのわがままだ。ガキのどうしようもないわがまま。


「でも、親に命令されてそんなに興味もない農業をやりにいくのは、ちょっと引っかかるんですよね。あと、最近向こうに行けてなかったので気まずいのと」


 我ながらやっぱり、しょうもない理由だ。

 自覚があるから言葉尻は小さくなっていくし、苦笑を紛らわせるために、合わせていたオレンジジュースを飲むスピードさえも早める。


「では……こうしましょう」


 一通り僕が話し終えた後に、彼女は人差し指をぴん、と立てる。

 わざとらしいとも思える仕草が、やけに様になっていて、きれいだと僕は思った。


「連絡先を交換しませんか?名も知らないあなた」


「それはまた、突然ですね。理由を聞いてもいいですか?」


「直接的に言うのは好みではありませんが、きっとあなたは寂しいんだと、わたしは思います。お友達とゲームをする、というのも限界がありそうですし」


「それは……まあ確かに、あいつらとゲームはできないかも」


 彼女には、「ニートの話」をしてきた友人と通話を繋いでゲームをしているという話をしたことがあった。

 だから、そのことを言っていることはすぐにわかる。事実、パソコンを持っていけない関係で、彼らと遊ぶことは出来ない。


「だから、代わりにわたしとお話しませんか?向こうで、なにか心が動いた時に」


 漸く、話の流れが繋がる。

 そしてその提案は……僕にとって求めてやまない、願っても無いものだった。


「……まるで、僕が向こうに行く決断をする前提みたいですね」


「あ……やっぱり、行きたくありませんか?」


「いえ、俄然行きたくなってきました」


 照れ隠しをしたつもりだったが、寂しげに視線を落とされると困る。僕は滅法、彼女の少し悲しそうな瞳に弱いのであった。


「それはよかった。嬉しいです……それでは」


 彼女はそう言って、初めて会った日よりもずっと薄い上着から、スマートフォンを取り出した。

 三ヶ月も会い続けて、幾度となく切り出して叶わなかった、好きな人の連絡先と名前。

 僕はまっさらなトークルームの上に書かれた二文字の名前に、なんだか感動して……オレンジジュースの缶を一気に傾けた。


「ありがとうございました、背中を押してくれて。……萌音さん」


「いいえ。こちらこそ、連絡先教えてくれてありがとうございました、宇月さん」


 彼女の長い髪をたなびかせる風。ああ、春が来た。


 ・・・・・


 稲を植えるというのは、案外多くの作業の上に成り立っている。

 毎日毎日祖父は早くに家を出て、僕は朝食の後にその背を追いかけた。

 草を刈って、畔塗りをして、代かきをして。やったこともない作業の数々に混乱しながらも、それなりに充実した生活だったと思う。


 萌音さんには、よく他愛もないことでメッセージを送った。

 こちらの天気の話、街にいるときはまったくしてもいなかった料理、たまたま見つけた面白い漫画。

 彼女はいつもと変わらず相槌を打って、たまに自分の考えを返してくれる、それだけ。

 でも、それだけのことが楽しくて、尊いものだから。今日もまたトーク履歴は増えていく。


『少し暑くなったよね。田んぼは大丈夫なんだけど、ビニールハウスは結構キツい』


『こちらはまだ、それほど気温は上がっていませんが、缶コーヒーは冷たいものに変えました』


 何気ないやり取りのなかで、僕は敬語を使わなくなった。

 彼女はそれでも丁寧な言葉遣いを崩さなかったが、感じるのは距離ではなく親しみだった。

 萌音さんなりに、敬語の中に冗談や言葉遊びを織り交ぜてくれて、決して僕が嫌いだから壁を作っている、というわけではないと思った……たぶん。


『友達連中とは通話もするけど、萌音さんとの会話の方がこう、生活に必要な感じがする』


『大袈裟ですよ?全く。そんなことを言っていると知られたら、からかわれるでしょうに』


『それは確かに。口外無用でお願いしたい……』


『ふふ、仕方ありませんね』


 口外、だなんて言うのは形だけに過ぎない。

 彼女が僕との会話を大切な秘密にしてくれているのはなんとなくわかっていて、僕もそれは同じ。

 なにより、彼女は僕の知らない学校に通っていて、僕をからかうあいつらとは面識もない。


『あいつら、マジで勉強してるのかな……僕が言えたことでは本当にないけど』


『まあまあ、会話の様子を伺う限りでは、効率の良いやり方を多く知っているようですし』


『そういえば、萌音さんも同い年なら受験じゃないの?付き合ってもらっちゃってるの申し訳なくなってきたな』


『わたしも愚痴を吐き出させてもらっていますから。それに、こう見えて勉強はそれなりに得意でもありますし』


 いつも、こうやって話しながら夜が更ける。

 いつの間にか眠気がやってきて、どちらからでもなく「おやすみ」と言い合う。

 心地よい関係の距離で、心安らぐ二人の時間。夢の園に旅立つ前に、一時の充足を得る。


『萌音さん』


 だから、これは余計な一言。


『僕さ、やっぱりこっちは楽しいけど』


 平穏を噛み締めるだけに足らなかった、少しの焦りと寂しさが生んだ言葉。


『貴女に会いたいよ』


 既読がついて、一分、二分、何も返ってこないままに時間が経つ。

 急に照れ臭さと……それ以上に、今を壊したくない恐怖がふつふつ湧いてきて、訂正しようと画面に触れた。

 でも。


『わたしも』


『ええ。わたしも貴方に会いたい。それはきっと、すぐに叶いますよ』


 どきり、と胸が高鳴る。今すぐ窓を開けて飛び出したくなる。

 握りしめたスマホに、汗を滲ませながら文字を打っては消し、打っては消して。


『好きでs』


 間違えた、と気づいた時にはもう送られていて、涙が出た。五体を布団に投げていた。


 耳まで熱くしながら訂正の言葉を紡ぎ、今日は寝る……明日、猛烈に後悔することは見えていたけど。あまりにも、いたたまれなくて。

 なんだか、くすくす笑っている萌音さんの顔が見えたような気がして……叫びかけた。


『電話、しませんか?』


 だから混乱して。

 それでも嬉しくて。

 僕と彼女の声は、遠く夜空を越えて繋がる。

 ……彼女の声音は、予想通り笑みに彩られていた。

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