カエル

獅子内京

カエル

 二日前に東京に引っ越してきた。滑り止めの私立大学に合格して、故郷を出ての一人暮らし。実家から持ってきた荷物や、電気屋から届いた家電を二日がかりで部屋中にばら撒いて、気が付いたら東京二日目の二十時だった。

 散歩をしようと思った。まだ近所のコンビニに弁当を買いに行ったっきりで、近所に何があるのかも分かっていなかったからだ。僕の借りた部屋は家賃の安めな地下鉄駅から徒歩数分の住宅街にあった。駅の1番出口から真っ直ぐにⅤ字の坂が伸びていて、アパートはちょうどその一番低い谷の部分にあった。

 荷解きでやけにがさがさとした両手のひらを揉みながら、荷物を踏まないように玄関まで歩いていく。失くさないように下駄箱の上に置いておいた鍵を掴んで玄関の扉を開ける。扉は少しガタついているようで、少し金属音を鳴らしながら閉まった。忘れないように鍵を掛けようとしたが、慣れていないせいで差込口の位置がつかめずに何度か鍵穴の周りを突っついて、やっとのことで鍵を差し込んだ、と思ったら今度は鍵を回す向きが分からず何度かガチャガチャと鍵を捻る。どちらに回すのが正解だったのかは分からないが、ドアノブを下げて扉を引いても開かない。無事に鍵を掛けられたようだった。

 戸締りを自分でする。部屋を出て歩く。自分が一人暮らしを始めたのだという実感がわいてきて、思わず嬉しくなる。アパートの出口は駅へと続く坂道に面していて、僕は迷わず駅の方向へと歩き始めた。僕の故郷よりは幾分か気温が高い春の空気を吸い込んで、僕は東京の、一人暮らしの夜に踏み出した。

 駅の一番出口までの道は何のことはなく、両脇にはただ単身者向けのアパートと住宅が並んでいる。駅の方向からはスーツを着たサラリーマンや、二人組の若い女性、自転車に子供を乗せた主婦たちが坂道を下って住宅街の方へと歩を進めてゆく。人間は人間だ。人の数は多いけれど、故郷の人たちと大きく違ったところはないようにみえる。すれ違う人の表情をいちいち眺めながら僕はゆっくりと坂を登っていった。

 左手に明るい光が漏れ出している一番出口が見えてきて、僕は何処へ向かうかを思案し始めた。散歩とはいってもすぐ荷解きに戻らなきゃいけないし、迷って時間を食うことは避けたい。僕はサラリーマンや、若い女性、子供と手をつなぐ主婦が登ってくる一番出口の階段を眺めやりながら通り過ぎ、右へ曲がった。

 アパートまでのⅤ字坂とT字に交わるこの道には明るい街灯が等間隔で立っており、レンガで舗装されている。両脇には街路樹とよく整備された花壇が続いていた。東京の道というのはこういうところが多いのだろうか。あまりに整っているものだから、なんだか不思議な気分だった。

 しばらく歩いてみると、この道の先は大きな通りに交差しているようであると分かった。環状線の一部の様で、車のヘッドライトが次々に通り過ぎていくのが見える。あそこまで歩くのは何だか面倒だな、と思った。引っ越し作業で体は重いし、荷解きをしたといってもまだ荷物を部屋中にばらまいた状態で終わっている。それに、どうせ暮らしているうちにアパートの周辺は歩き回ることになるだろう。僕はぽつぽつと見える帰宅者たちの流れに逆らって部屋へ戻ろうかと考え始めていた。

 そのとき、道の脇に何かが動いているのが見えた。僕はぎょっとして足を止める。それはネズミか何かに見えた。灰褐色、というより黄土色のような色をしていて、地面にうずくまっている。都会のネズミはひどく汚いのではないか。それに、全然動かないようだから、既に死体になって腐っているのかもしれない。

 僕はその物体が何なのかだけ確かめて帰ろうと思った。こんな道端で立ち止まっていて変な目で見られやしないかと不安になって、スマホを弄っているふりをしながらその物体に近づく。

 よく見てみると、それは大きなカエルだった。僕の故郷にはいない、手のひらほども大きなヒキガエルだった。東京にもこんなものがいるのか。地方の故郷でもみたことがないような大きなカエルに、僕は思わず感動してしまった。田舎育ちの子供の例に漏れず、僕は生きものが好きだ。

 そのカエルは微動だにせず、レンガの上にどっしりと座っている。季節からすると冬眠から目覚めて、まだ寝ぼけているのかもしれない。そんなことを考えながら僕は道の端でスマホを弄るふりをしながらこのカエルを眺めていた。

 30秒ほどが経過しても相変わらずカエルはぴくりともしない。時々のどのあたりがほんの少し膨らんで、かろうじて呼吸しているように見えるくらいで、それもよく観察しなければわからない。カエルは庭先においてある陶器の置物の様だった。

 僕とカエルの横を何人かの人々が通り過ぎて行った。スマホを適当に操作しながらカエルの横に立っている僕は、動かないカエルを前に自分が何をしているのかよく分からなくなってしまった。そろそろ荷解きに戻ろうか。珍しいものを見たが、もしかすると東京では珍しくないのかもしれないし、そもそもカエルをぼーっと眺めていても仕方がない。

 僕はスマホをズボンの右ポケットに突っ込み、くるりと回って一番出口の方向へ進み始めた。そのとき、スマホを食い入るように眺めながら歩いてくるスーツを着た若い女性が僕のすぐ横を通り過ぎた。カエルの方向だ。僕は咄嗟に声をあげた。


「あの!」


想像していたよりも大きな声が出てしまった。女性は驚いたように一瞬跳ねて、怯えた表情で僕の方を見た。僕は狼狽して自分の顔が熱くなるのを感じながら、上ずった声でつづけた。


「そこのカエル……踏みますよ」


カエルを指さす。女性はすぐ足元にいた大きなカエルを見つけて、すごい勢いで後ろずさった。そして、前髪を直しながら「ありがとうございます」と呟いて、そそくさと歩いて行ってしまった。

 驚かせてしまった。申し訳なく思ったが、カエルを踏み潰すよりはよかったのではないか。彼女にとっても、カエルにとっても。僕はその場から足早に立ち去ろうとした。

 二歩か三歩ほど進んで振り返ると、相変わらずカエルは微動だにしない置物のままで、レンガの上に鎮座していた。「踏まれるなよ」と心の中で呟いて、僕も歩き始めた。

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カエル 獅子内京 @44uchiK

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