逃ヒ行少年

星彩 涼

逃ヒ行少年

 玄関を開けると、廊下の奥の明るいリビングから期待に満ちた声がする。

「誰かな。」

 声の主である父が身を乗り出す形でこちらを覗く。私を認識した父は「おかえり。」と言う。トーンの下がった語尾に混ざったため息が私の耳に引っかかり、そのまま脳で苛立ちへと変換される。暗い廊下の向こうでリビングの照明の光を背に受け、黒いシルエットとなった父の肩が僅かに落ちるのを、私は見逃してはいなかった。玄関のノブにそっと手をかける。ふぅっと小さく息を吐く。落ちたトーンのまま世間話に持ち込もうとする父に生返事だけを残し、玄関を押し開け、外に出る。

 玄関の外で一度大きく深呼吸をする。先ほどまでの衝動的な怒りが夜の冷たさに溶けていった気がした。とはいえ、このまま家に戻るのもなんだか悔しいように感じていた。右腕にはめた腕時計を確認する。夜の七時過ぎ。これからどこへ行こうか。私はついそんなことを考えた。はじめは塾に行こうかとも思ったが、ついさっき帰っていった生徒が三十分もしないうちに戻ってきたのでは怪しく思われるだろうし、なにより私が気まずいのでやめた。私の中に学校帰りのついでに塾に寄ったのは間違いだったな、と変な後悔が残った。図書館はとっくに閉館時間を過ぎているし、この近辺には家に上げてくれるような友達の家もなかった。

 どこへ行くにしても家の前でじっとしているのをご近所に見られるのはまずい気がして、家を出てすぐの大通りを右へと曲がり、小道へと歩き出した。

 車一台分の幅しかないその道は、電柱に取り付けられたLED照明だけに照らされ、両脇に少しさびれた一軒家が点々と存在していた。私は歩みを進めながらズボンのポケットからスマホを取り出した。電話帳から目的の名前を探し、『発信』の文字を押して、スマホを耳に当てた。コール音を聞きながら夜空を見上げると、雲の切れ間から星々と満月が顔をのぞかせていた。三十秒ほど続いたコール音の後、相手が電話に出た。

 「もしもし。どしたの。なんかあった?」

 母の声だ。声の後ろで車の走行音らしき音が聞こえるので、おそらく運転中なのだろう。

 「いや、、、ちょっと。」

 私の歯切れの悪さから母はなにかを察したらしく、諦めたように答えた。

 「なに?また父さんがなんかした?」

 私がそれとなく頷くと、母が電話口の向こうでやっぱり、とため息を吐いた。

 「今度はなにがったの?」

 私は母の質問に答える。

 「なんというか、一言で言うなら”家出”かな。あいつの態度がどこか気に食わなくって。」

 母は”家出”という言葉に驚きつつも、私がそうした理由を尋ねた。私は静かにこれまでの経緯を説明した。塾から帰った私への父の出迎えに腹を立て、家をもう一度出てしまったこと。そして今はあてもなくひたすら歩いていること。これらすべてを話した。話し始めは落ち着いていた私の語調も最後には、蘇った苛立ちで少し強くなってしまっていた。時折相槌を打ちながら聞いていた母が少しの間の後に言った。

 「けどまあ、それって今回が初めてじゃないしね。○○がその態度に腹を立てる気持ちは分かるけど。」

 母の言葉で興奮気味になっていた私の心は冷静さを取り戻した。

 そう。母の言う通りあのような父の態度は今回が初めてではないし、私も多少の不快感はあったものの、気にならない程度のものであった。後で母に愚痴をこぼしたりすることはあったが。また、私は今回に関してだけ父の態度に腹を立てたのは、偶然なにかのタイミングが悪かったように思っているところもあった。気づかない程度に水を注がれ続けた風船がいつの間にか限界まで膨れ上がり、そこにほんの少しの衝撃が加わったことではじけ飛んでしまう、そんな感じだ。

 結局、母に別の人物からの着信が入り通話は一旦の終わりを迎えた。電話を切る直前、母がため息交じりにこう言った。

 「昔は、そんな人じゃなかったのに。」


 私がまだ幼い時、父はほとんど出張で家にいなかった。幼少期の私にとって父はたまに家にいるおじさん程度の認識でしかなかった。思えばその時から私と父の間に小さな溝があったのかもしれない。そうして私は父との触れ合い方を知らぬまま成長していた。

 私が中学生になる頃には父の出張は減り、お互いがコミュニケーションをとる機会も増えていった。しかし、私の四つ下の弟が野球のクラブチームに入ったことを境に、再び私たちの距離は遠くなっていった。食卓ではもっぱら弟のクラブチームの話題ばかりで私は疎外感ばかりを感じるようになっていた。母が気を遣って私も参加できる話題を出してくれたりもしたが、父はA君のパパがどうとか、今度O君やK君と親含めて遊びに行くだとかそんな話ばかりだった。私は、父は私のことを見ていないのではないかという不信感を抱くようになった。極めつけは私の中学の卒業式だ。私の卒業式と弟の野球の試合の日が偶然重なっていた。母は、せっかくの卒業式なんだから、と父を説得し、私もまた来てほしいと父にお願いをした。母曰く、父はクラブチームの他の保護者、さらには監督からも繰り返し卒業式に出席することを勧められていたらしい。しかし卒業式当日、そこに父の姿はなかった。父は私の卒業式よりも弟の野球を優先したのだ。私の父への不信感が確信に変わった瞬間であった。その日からしばらく普段は仲の良い弟が私と気まずそうにしていたのは強く印象に残っている。そして時期を同じくして父にある変化が起こりだした。それは自分本位な行動が目立つようになったことである。老いたせいか、心に余裕がないせいか、はたまた他に理由があるのか定かではないが、そうした自己中心的な言動を無自覚のままにしてしまうのだ。例えば、家に帰ってくるなり他の誰かが見ていようとお構いなしにリビングのテレビを占領し、録画していた番組を再生する。大抵の場合父が寝落ちするのだが、目を覚ますと自分が寝落ちした場面から再生を再開しだすのだ。しびれを切らした私と母が注意すると、父は激昂し、私を家から追い出したこともあった。他には、父は家に帰ってくると必ず母の帰宅の有無を私たちに尋ね、帰っていなければ速攻で母に電話なりLINEなりを送る。母は病院勤めで帰りも早いほうではない。父が連絡する時間帯は基本まだ勤務中で気づくはずはないのだ。にもかかわらず、父がそうする一番の理由は自分の夕飯のためである。誰かが帰ってくるといの一番に玄関を覗き、母かどうかを確認するのもそうした理由からだ。帰ってきたのが母でなければ途端にテンションが下がる。私自身何度も目の前で父に落胆されていた。私ももう慣れたと思っていたが、今回のことでそうではないことが分かった。母もこのような父の行動にことごとく呆れ果てていた。


 人気のない道をひたすら南へと進んで、突き当たるとそこから西へと向きを変えた。そのまましばらく歩くとそこそこ広い公園に出る。休日には中二になった弟とよくキャッチボールをしに来る場所だ。春には公園を囲むように植えられた桜が綺麗に咲き、花見客で賑わうのだが、初夏の今は青い葉がぽつぽつとついている程度だ。暗闇で街頭にぽうっと照らされるそれらの桜の木は、なんともさみしい印象を私に与えた。

 公園を通り過ぎて少しすると今度は夜にもかかわらず明るく人気の多い場所に出る。そこはスーパーと道路を挟んでスーパードラッグ、回転ずしチェーン店、さらに反対側には銭湯と、この町内全体の生活を支える場所になっている。私にもなじみ深い場所だ。客足がピークになる時間を越していたためにそれほど人はいなかったが、それでもこの近所では一番賑わっているのに変わりはなかった。私は少し足早にそこを後にした。

 先ほどの場所を抜けると、閑静な住宅街へと入る。外国人の多いアパートのそばに新築の目新しい住宅があり、さらにはその向かいに年季の入った木造一軒家が建っているなど統一感とは程遠い住宅街だ。私はほとんど来たことがなかったが、何となくで足を進めていた。しばらくの間ふらふらと歩いていた私の足は、ふと聞こえた明るい笑い声に反応するように止まった。振り返ると二階建ての一軒家があった。花柄の磨りガラスの向こうで幼い男の子が家族と談笑しながら食卓を囲んでいるらしかった。当然そこにはお父さんらしき人物の声もあった。私はふと思った。男の子は、今日一日起きたことを一生懸命に話しているのだろうか。そして彼のお父さんはそれに楽しそうに反応しているのだろうか。私もそうすることが出来ていればもう少し父と親子らしくあれただろうか。私は胸の奥でなにかが締め上げられるような感覚を覚えて、一家に背を向けるようにして再び歩き出した。


 あの男の子の一軒家を後にしてからどれほど歩いたか分からなくなった頃、目の前に土手が見えた。ゆっくりと土手を上り、土手の上に沿って敷かれた道路に出る。ここは近くの国道に直結していることもあって交通量が多い。私の目の前をひっきりなしに車が往来をしている。一瞬の隙を見つけて急いで道路の反対側へと渡った。地方有数の川幅と長さを誇るこの川の河川敷は、公園やゴルフ場、野球のグラウンドなどが整備されるなど休日の昼間は家族連れなど多くの人で賑わいをみせる場所だ。だが夜遅い今となっては、その川は反対岸とこちらとの間にある空間がそのまま闇に飲み込まれて消えてしまったかのようになっていて、人の気配すらない。私は河川敷へと下り、近くの橋の下に腰を下ろした。コンクリートの無機質な冷たさが私の体に伝わってくる。橋上を走る無数の車の走行音と水の流れる音が私をすべての思考から切り離し、時間の感覚さえも忘れさせる。


 突然のスマホの振動が私を現実へと引き戻す。あまりに唐突すぎてそれが母からの着信だと脳が認識するまでに少しの時間を要した。『応答』と『拒否』を間違えそうになりながら電話に出る。

 「もしもし。今どこにおる?」

 どうやら母は仕事帰りのついでに私を拾って帰るつもりらしかった。私自身これから特にどうするつもりか考えていなかったことや明日の学校にあまり影響を出したくないこともあって素直に居場所伝えた。母曰く、たまたま近くにいるらしく十分もしないうちにここに着くということだった。私はゆっくりと腰を上げ、先ほど来た時と同じように土手まで上がっていった。車通りは来た時よりも減っていたので簡単に反対側へと渡ることが出来た。土手の上から自分があてもなく放浪していた街を見下ろす。ほとんどの家に明かりが灯り、外を歩く人もいなかった。こうしていると私一人がこの世で孤独であるように思えた。


 遠くから近づいてくる車の走行音が耳に入った。音の方向へと視線を向ける。暗闇へと目を凝らしていると、家のかげから一台の見慣れたグレーのワゴンが姿を現した。私がそちらへと歩き出すと、土手から降りてくる私の姿を確認した様子の車が道沿いに停車した。フロントの強烈なライトの前を横切り、助手席へと乗り込む。運転席の母が私に「おかえり。」と言う。私は家出していた建前、素直に「ただいま。」と言うわけにもいかず、「どうも。」と小さく答えるのにとどまった。続けて母がこう言った。

 「どこか寄る?コンビニとか。」

 少しの間をおいて、ドアウィンドウの縁に頬杖をついて外を向いたままの私は「うん。」と答えた。母は静かにハンドルを切った。


 「お気の方は、お済みになりましたか。」

 移動中、落ち着いたトーンで母がわざとらしく言う。

 「納得はしてないけど。」

 相変わらず外を向いたままの私が口を尖らせて答えた。

 「だろうね。」

 母は私の返答を知っていたかのように返した。さらに母は続けた。

 「とはいえ、一時間以上歩き回ったらさすがに少しは落ち着いたでしょ。母さん、○○があそこの川にまで行ってるとは思わんかったよ。」

 母の言葉でデジタル時計へと視線を向けた私は、もうじき九時をまわろうとしているのを確認した。

 「落ち着いたのかな。よくわからん。ただあいつの行動が気に食わなかったことだけはたしか。」

 私の返答に母は落ち着いたまま言う。

 「あんたが言う父さんの行動が本当かどうかは私にはわからんけど、もう納得するしかないんだと思うよ。今の父さんを。」

 母は私が相槌も打たず黙っているのを確認して続けた。

 「確かに私も父さんが弟の方ばっかりを相手にしてるように思えるし、そのたびに注意してる。野球の時は本当にいろんな負担背負わせて、我慢ばっかりさせてた。それは本当にごめん。」

 私の沈黙は続く。

 「母さんだって父さんの今の身勝手な行動には散々腹を立ててきた。けど毎回それに反応してたら私たちの方が先に持たなくなっちゃう。だからもう諦めたのよ。あの人はああいう人間なんだって思っちゃうのよ。多分そうするほかにどうしようもないのよ。」

 母が言い終えてからコンビニに着くまでの間、終始車内は静寂に包まれた。


 コンビニ内に入ると私たちはまず、スイーツコーナーへと向かった。駐車場で母に言われた、

 「ここで買った分は後で父さんにツケとく。」

 という言葉を頼りに、普段は手の出さないそれなりに値が張るチーズケーキを躊躇なく買い物かごに放り込んだ。私はそのまま弟の分も選んだ後に母に、

 「あのおじさんの分は知らん。」

 と言い残して、学校で小腹が空いた時用のお菓子と家で食べるおやつを物色しに行った。適当に飴やグミを二三個、特大のポテチを一袋選び、母は自らと父の分のデザートと明日の朝食用に家族分の菓子パンを選んだ。だんだん私の中に楽しいという感覚が芽生えてきた。私は最後にレジ横のホットショーケースに並べられた揚げ鶏を、母はアメリカンドックを頼んでコンビニでの買い物を終えた。結局会計は二千円近くまでになっていた。その頃には先ほどまでよりも気持ちがすっきりと楽になっているように感じた。

 レジ横の揚げ物のにおいで空腹を思い出していた私は、車に戻るとあっという間に揚げ鶏をたいらげた。母がアメリカンドックを食べ終わるのを待ってからコンビニを後にした。母を待つ間に見上げた夜空には、雲一つない空に星々とともに満月が煌々と輝いていた。


 家へと向かう道中、再び母が口を開いた。

 「○○が父さんとの距離を感じて、どう接すればいいか分からなくなっているのはよく分かるけど。それは、父さんも同じなのよ。」

 私は母の言葉にはっとした。この一言で、私がこれまで気づいても見ぬふりをして、知らないふりをしていた事実が確かな実体を持ってモノとして突然私の前に立ちふさがったような気がした。

 「父さんだって最後まで迷ってたのよ。○○の卒業式に行くかどうか。あれだけ周りからの声をもらって、まして○○から直接来てほしいなんて言われて迷わないはずがないのよ。最後に選択した方は私は間違いだと思うけど。」

 母の言葉でどんどん私の前に立ち塞がったモノが大きくなっていく。

 「あの人はすごく不器用なのよ。今の時代、両親が子供の卒業式に出るなんて全然普通だけど、あの人の時はそうじゃなかったから。だから最後まで行っていいのかどうか悩んでたのよ。」

 母はそこで話をやめた。私はずっと前から気づいていたのだ。家族といえど結局は人同士の付き合い、完璧にお互いの相性が合うことなんてないのだと。だからこそお互いがそれぞれにとって最適な距離感を探さなければならない。けれど、私はそれをしようとはしてこなかった。すべてを父のせいにして、ただ被害者ぶっていただけなのかもしれない。

 家までの距離が着実に縮まっていくなかで、私は私の前に立ち塞がったモノと正面から向き合う勇気を必要とされていた。

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