19:隻眼の妾(メートレス)

19 隻眼の妾(メートレス)


 すべてが幻のように終わってしまった。

 私はいまや『裏切り者』の烙印を押され、名実ともに最低の奴隷に落ちたけれど、そのはじめの予想とは違って、殺されて処分されるということはなかった。けれどもやっぱり普通の奴隷をさせて貰う資格なんて無いようで、それも致し方ない。体だって五体満足かどうかもあやふやだし、何よりこんなにも簡単に敵に寝返るということが、明確に証明されてしまったのだから。あの男は私を奴隷とは認めなかった。


私はミシェルの奴隷になった。

あの片目を剔られた金髪の少女のこと。

つまり、奴隷の奴隷。

奴隷失格というより、奴隷降格。

ちなみにあの後ミシェルはメートレスに昇格したから、『奴隷の奴隷』というのは少し言い過ぎかもしれない(あの男は私を殺さないし、ミシェルのことも捨てないし、案外情にもろいところがあるのだろう……)。けれど、前より処遇が悪くなったことは間違いない。


 かたやあれほど主人から愛され、かたや私は毎日のように彼女に虐められている。ひどい苛め。彼女はしょっちゅう私を「裏切り者」だと言ってなじる――私はそのたびに何か言い返したくなるけれど、あの血塗れの眼窩のことを思い出すと何も言えなくなる。私にできるのはただ耐え忍ぶことだけ。ミシェルはとても性格が悪い。彼女の秀でたところは容姿だけであるからだ。彼女のおかげで、私は毎日苦痛に顔が歪まない日はない、あるいは屈辱に、あるいは悲しみに、あるいは後悔によって。

……あのときあんなことをしなければよかった。勝っていたらよかった。

そうしたら今頃、私がミシェルのほうをぼろ雑巾のようにコテンパンにしていたのだ。

ああでも、彼女にちっとも勝てるイメージがしないのはなぜだろう…あの隻眼せきがんメートレスに――


毎日ひどい、しけた、この世のものとは思えないほどの歪みきった生活。しかし、生きているだけでも幸運なのだ。

 あれから考えたことに、「箱とびらゲーム」に敗けた奴隷は優遇されてはならない――という暗黙の掟がある。なぜなら、ゲームに敗けた奴隷に容赦すると、裏切ってもひどい目に遭わないことが知れ渡ると、次のゲームで開始早々に裏切る奴隷が続出するからだ。これではゲームが早く終わってしまう。お互いのマスターにとって、ゲームが短時間で終わってしまうのはつまらないから、彼等は暗黙の協定を結ぶことになる。

かくて『敗けた奴隷には地獄を』のモットーが。

ちゃんと今後もゲームが楽しめるようにするために、『裏切り者』の奴隷の私は、出来るだけ酷い目に遭い続けなければならない、よってゲームが存続している限り、私が幸福になることはない。自分の不幸をそう分析する。

……憂鬱にしかすぎない。


 ときどきあの男からお呼びがかかると、私ははからずもご主人様と過ごした日々のことを思い出してしまう。もちろんあの男の所業に愛なんてないのだけれど――それどころか私が痛みに弱いことを知っていて、わざと鞭で打ったりする鬼畜なのだけれど――けれどベッドで感じる生理的な情動自体はあの時とまったく同じで。同じなのに、どうしてこんなに幸せになれないのだろうと不思議に思う。

そして、あのご主人様が恋しくなってしまうのは止めようもなく。


――彼は本当にどうなってしまったのだろう?


彼の素顔は、私に見せてくれた優しいあの笑顔だったのだろうか、それともいっそ全てが嘘なら、私たちの前に突如として立ちはだかった障害と、その向こうにあった幸福の絵図とが、すべて陰惨な意図から描き込まれた巧みな罠――箱とびらゲームの娯楽を味わいつくすためのほんの気紛れ――なら良かったと思う。でも、もしそうなら、私のことを愛していると言ってくれた彼の言葉も、すべて嘘偽りだったということになる。アポリア。

 私はいつも考える。考えてみるけれど、すぐ頭をかきむしたくなるほどの激しい後悔の念に打ちひしがれるだけ。ひとりではどうにもならない。


 彼は私の優しい恋人だったのだろうか。それとも、私を騙して、遊んで、果てには殺そうとしていた残虐な異常者だったのだろうか。

 ミシェルは「彼は拷問狂だった」と云う。けれど、そんなこと信じてはいない。私を拷問したあの男の言ったことも嘘だったのだ。ご主人様も彼女ミシェルを怯えさせる為に、わざとそういう策略の演技をしたのかもしれない。いやむしろ私は彼女ミシェルが憎たらしい言動をしたからこそ、それでご主人様の怒りを買ったのだと思っている。結局ミシェルは多くを語りたがらないけれど、ほんとはつまり、そういうことなのだ。

 もしご主人様が嘘をついていなかったとしたら、あのゲームには彼の全財産――住んでいる館と持っている土地の権利書か、若しくはそれと同等の金額――が賭けられていたことになる。でももしあれが私を追い詰めるための嘘だったなら、ほんとうのゲームの賭金は、そんなに大きな額ではなかったかもしれない。享楽のためにわざわざそんな大金を賭けることは考えにくいからだ。そのことを――ゲームにいくら位の賭金がかかっていたのかを――ミシェルの主人にそれとなく尋ねてみたけれど、彼は取り付く島もなく、私の質問を煩さそうに無視し続けた。奴隷以下がそんなことを知る必要は無いとでも言うように。

 いじわるなことに、何も教えないことによって私を苦しめるつもりらしい。けれどそれも仕方がない、このゲームに敗けた奴隷は、できるだけ苦しめられなければならないのだから。そもそも、あの男の言うことなんて大嘘だらけではじめから信じられない。こっらから願い下げだ。


 彼の消息を自分で調べに行きたいけれど、今の私には、そんな自由も無い。

結局、色々な思い出を頭の中に巡らせるだけ。

ああ、今日も、陰鬱な日日。


 メートレスとして可愛がられるミシェルの立場が、かつて私が思い描いていたご主人様との生活――幸福の幻――と重なってとても羨ましい。けれど妬むことはできない。ミシェルは「友よ、なぜ来る」という自分の合言葉をしっかりと守り通したのだから。

壊れなかったのはミシェルの箱。

わたしの箱は、ふたりの前に立ちはだかる障害という名の城壁を打ち壊さなかった。不良品の、出来損ないの、ガラクタの箱。開いてしまったパンドラの箱。その中に入っていたものは何?

 私は今も結論めいたものが出せないでいるのだ。



 私がこの薄暗くてじめじめする腐った木で造られた牢屋めいた寝所に居る理由は、あらかた、全部、記し終わった。後は時が解決してくれると思う。メメント・モリ。ご主人様から授かったその言葉を胸に、私は、今日も生きていく――


finis

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ある奴隷の憂鬱 -Symmetry Violation- もーち @efkefk2

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