二話『夢のようなデジャヴ』

 それから数日が経った。あの日、この世が乙女ゲームの世界で、自身が悪役令嬢のメイドだと分かったあの日、ニーナは確かに決意をした。絶対にルビィ・ホワイトからヒロインを守って見せる……と。一年後から始まる卑劣な嫌がらせの展開を回避させて見せる……と。

 だが実際、そう意気込んでみても何かすることがあるというわけではなく。結局ニーナはあの日から、いつもと変わらないような日々を過ごしていた。いや、ニーナは確かにここ数日変えようとしていた。未来を変えようと動いていた。


 ニーナは横目でじっとルビィを観察する。ペラリ、紙が捲れる音と、チクタク、調度品の古い時計が響かせる音。それ以外の音はない、静謐な部屋でニーナとルビィは二人きり。ニーナは思わずため息を零しそうになった。


 ここ数日、ニーナがルビィを観察していて分かったこと。それは彼女がいつも通り、聖人であった、ということだ。そう、聖人、人格者、貴族の中の貴族。どれだけ見ても、どれだけ観察しても、ルビィ・ホワイトという人物は、私がここ数年ずっと一緒に暮らし、見てきた彼女でしかなかった。

 例えば朝、彼女はメイドに起こされる前に自ら起床をし、ストレッチや読書等の自分磨きを欠かさず行っていた。本人に聞くところによると、なんでも夜が落ち着くらしく、なんと彼女は毎日3時間睡眠で生きているらしい。

 例えば食事の際、彼女は常に食材と料理人、更には製作者への感謝を忘れずに行い、テーブルマナーも完璧であった。

 例えば勉学、彼女は14という歳でありながら自ら様々な学業に手を出しており、その勤勉さは専属家庭教師の先生も目を見張り、称賛するほどの物であった。それは彼女が住まう屋敷で、その学を十二分に発揮し会社をいくつか経営している、なんて噂が流れるほどであった。

 例えば訓練時、彼女は貴族であるからと、女であるからという理由で慢心をすることはなく、日々ストイックに魔法と剣術の鍛錬を行っていた。その甲斐あってか、魔法学はここ数十年の鬼才と謳われ、剣術は下手な騎士など余裕で打ち負かすほどの実力を携えていた。

 例えばその人柄、彼女は平民を下と見る傾向がある貴族社会で生きながら、それでも人は皆平等という信念を貫き通し、転んだ子供には手を差し伸べ、困ったお年寄りには手を引き、悩む人がいれば共に考え、解決策を導く。お人好し、という言葉が似合う彼女、だけど困った人々を助けようとするその姿はまるで女神のよう。その人柄ゆえ、屋敷の住人にも、ホワイト家が納める領地の人々にも、ルビィは人格者として好かれていた。

 それが彼女、ルビィ・ホワイト。ニーナが幼い頃からずっと見てきた、彼女であった。


 ——もしかして私、ものすごい人違いをしているのかな。


 だが思い出される前世の記憶では、確かに悪役令嬢の名前はルビィ・ホワイトであり、その見た目も今の彼女をそのまま大人にしたような風貌。プラチナブロンドの髪だって、真っ赤に輝く宝石のような瞳だって、見間違えるはずがない。彼女は確かに、乙女ゲーム『天使の聖典』の悪役令嬢、ルビィ・ホワイトであった。


「……ふぅ」


 ニーナが部屋の掃除をしている中、ルビィは少し疲れたようなため息をこぼし、パタンと手に持った分厚い本を閉じる。チラリと一瞬見えた本のタイトルはニーナの知らない文字で書かれており、ルビィの声色に少し疲労が溜まっていることに納得をした。


「……いつの間にかもうこんな時間になっていたのね」


 ルビィのその言葉にニーナは反応し、時計を見た。時刻は20時前。メイドの仕事は基本20時までなので、それ以降の時間は自由時間になる。とはいっても、ニーナは仕える身、主人が仕事をよこせば、それを行わなければならないのだが。


「ニーナ」


 優しい声色が部屋に響く。その瞬間、ニーナはピキッと体を硬直させ、口をキュッと硬く閉じた。チラリと主人であるルビィに目を向ける。そして嬉しそうに目尻の垂れたルビィの瞳を前に、ニーナは諦めたようにため息を吐いた。


「ルビィ様、まだ私はお仕事中です」

「お仕事中って、もうすぐ終わりでしょ?」

「でもまだお仕事中です」

「少しくらいフライングしたって誰も怒らないわ。だって今ここには私とニーナしかいないじゃない」

「そういう問題じゃないですよ」

「大丈夫よ、誰も見てないわ。だから……ね?」


 サラサラと銀髪の一房が揺れ、ルビィの瞳にかかる。その表情は先ほどの真剣な表情とは一変し、まるで小さな子供のよう。未だ少しの幼さを残したルビィの顔貌は、悪戯を仕掛ける前の子供みたい。コテンと首をかしげたその姿は非常にあざとく……非常に可愛らしい。

 私は今日何度目かのため息を静かに吐いた。


「……今日だけですよ」

「やった」


 ルビィはそう嬉しそうに笑うと、ニーナに両手を伸ばした。ニーナはトボトボとソファに座るルビィに近づき、彼女の目の前で立ちすくむ。そして催促するように「んっ」とほほ笑んだルビィ。ニーナは諦めたように肩を下ろし、ゆっくりと腰をルビィの膝に下ろした。


「ふふ、あったかい」

「…………重くないですか?」

「ぜーんぜん。軽すぎて心配になるくらい。ちゃんとご飯食べてる?」

「人並みには」


 ニーナを膝の上に乗せ、後ろ方ギュッと抱きしめるルビィに、ニーナはどうしてこうなったと自問自答。ルビィが自身に対し、妙に距離感が近いことは昔からなのだが、ここ最近はそれが加速しているように思う。例えば今日だって、ルビィは意味もないのにニーナを呼び出し、部屋に置かせ、特に喋ることもなく読書をしていた。ニーナ目線でいえば楽だし、ルビィの観察がしやすいため別に構わないのだが、ニーナに対するルビィの行動は普通の従者、主の域を超えているようにニーナは感じていた。そしてそれは、今、この状況も含まれる。


 ——ほかのメイドや屋敷の人に見つかったら怒られそうだなぁ。


 なんたって自身が仕える主の上に座っているのだ。もしかしたら怒られるどころの騒ぎじゃないかもしれない。本来なら主の命令とはいえ、断らなければならないことのはずなのだが。


 ——あの声に弱いんだよなぁ。


「ん……ニーナの匂いがするわ」

「ちょ、やめてくださいよ」

「いいじゃない。私、ニーナの匂い好きよ」


 ニーナのお腹に回された手に、キュッと力が込められた。背中にはピトリとルビィの頬が当てられ、ルビィは何とも上機嫌に鼻歌まで歌っている。私の何が彼女をそんなにも上機嫌にさせるのか、とニーナは考えながら、ドキドキと早まる心音を抑え込んでいた。


「ねぇ、ニーナ」

「はい、なんですか?」

「もう20時回ったわよ」

「…………そうですね」

「ニーナ」

「…………もー」


 ——だからその声に弱いんだって。


「本当に策士だよね、ルビィは」

「ふふ、何の事かしら」

「はぁもぉ、このお姫様はさぁ」


 ニーナは呆れたように息を吐き、お腹に回されたルビィの手を触る。するとルビィの手がニーナの手に絡みつき、ルビィは嬉しそうにはにかみ笑い。キュッキュッと自身の手を握るルビィに、ニーナはこんな姿自分しか知らないのだろうな、と目を細めた。

 ルビィがニーナに対し、二人きりの時は呼び捨てにしてほしいと頼んだのは彼女たちが出会ってすぐの頃だった。当時6歳だったルビィには友達はおらず、だからこそ同い年のニーナとはすぐに仲良くなり、打ち解けた。ルビィにとって、自身のメイドであり友達でもあるニーナという存在。初めての友達。初めて家族以外に打ち解けた存在。それがニーナであった。

 だからこそルビィは、ニーナに二人きりの時は主従関係なく接してほしいと頼んだ。名前を呼ぶときは呼び捨てで、敬語は使わず、困ったときは互いに助け合う、そんな関係をルビィは望んだ。そしてニーナはその頼みを受け入れ、二人きりの時、彼女たちは主従関係ではなく、ただの友達として笑いあった。それは8年たった今でも、少し形が変わったとはいえ続いている。……思えば私たちはもう8年もの月日を一緒に過ごしてきたんだなぁ、とニーナは感慨深くなった。


「こんなところ、ほかの人に見られたら私メイドクビになっちゃうかも」

「その場合は私がもう一度貴方を買いなおすだけよ」

「ルビィが私にそこまで固執する理由がわかんない」

「あら、ニーナったら知らないの?友達はね、大事にしないといけないのよ」


 ルビィはそう溢すとクスクスと楽しそうに笑う。その表情は非常に幸せそうで、きっとその笑みをほかの人が見れば一発で恋に落ちるであろう。本当に彼女があの冷徹非道なルビィ・ホワイトなのか、ニーナは目を細める。


 ——そもそもあの記憶が本当なのかすらわからないんだよな。


 あれは確かに前世の自分の記憶なのだろうけど、それでも8年間ルビィ・ホワイトと笑いあってきた自分自身が、前世の記憶のルビィ・ホワイトを否定する。8年間もずっと一緒にいて、ずっと彼女を見てきたのだ。あんな恐ろしいことを、ルビィがするとは到底思えなかった。


 ——もしかしたら今後、ルビィがあんな性格になってしまった理由があるのかもしれないけど。


「あっ、そうそうニーナ」

「ん?」

「明日、一緒に街へお出かけしに行かない?」

「お出かけ……」

「ええ、なんでも街に新しく美味しいお菓子屋さんができたらしいの。明日私は特に用事がないから街へ出かけようと思っているのだけど、一緒にどうかしら」

「明日……」


 その瞬間、ニーナの頭に夢の記憶がフラッシュバックする。この会話だって初めて聞いたのに、何故か知っていた。所謂デジャヴというもの。ルビィがニーナに明日街へ出かけないかと誘って、ニーナはその誘いに少しだけ渋るのだ。そしてそんなニーナの反応に、ルビィはこういうのだ。


「私、ニーナと一緒にいたいの」


 と。


「っ」


 ルビィのその言葉を聞いた瞬間、ニーナは言い難い恐怖を覚えた。ゾワゾワと逆立つ自身の肌。時が止まったように感じた。さっと体から熱が落ち、バクバクと心臓がうるさく跳ねる。所謂嫌な予感、というもの。それを感じた瞬間、ニーナは反射的に立ち上がり、突っ立ったままルビィを正面から見た。


「わわっ、急にどうしたの?」

「…………ルビィ」


 困惑した表情のルビィへ、ニーナは真剣なまなざしを向ける。


「また別の日にしない?」

「……へ?」

「出かけるの」


 言い聞かせるように、ニーナはルビィへそう伝えた。ニーナの目の前にはポカンと呆けた表情のルビィ。その瞳はパチパチと瞬きをし、頭の上にいくつものクエスチョンマークを浮かべる。


「……まぁ別にいいけど、でもどうして?」

「いや、ちょっと明日は外せない用があって」

「そうなの?」

「うん。だからまた別の日にルビィと一緒に食べに行きたいなって、思って」

「……ふふ、そっか。わかったわ」


 しどろもどろになったニーナの言葉にルビィは納得したのか、くすりとほほ笑んだのち頷いた。その瞬間、ニーナに掛かっていた妙な圧力が消え、思わず彼女はため息を零す。そして無意識のうちに「よかった」と小さく呟いた。


「じゃあちょっとそろそろ私は部屋に戻るわ」

「えぇ、もう?」

「もうって……私を2時間拘束したことお分かり?」

「…………」

「じゃ、また明日ね」

「うん、また明日」


 ニーナはルビィに挨拶を残してから部屋から出る。ガチャン。扉が閉まる音。ニーナは早足で廊下を歩き、自室へ向かう。途中他のメイドや従者とすれ違うが、挨拶する余裕はない。ほぼ走る勢いで廊下を歩き、ニーナは自室へ転がり込んだ。


「…………」


 バクバクと煩い心臓をギュッと抑え込み、自分の部屋のドアに体を預けた。そしてそのまま凭れたまま、ズルズルと下に落ちる。そしてペタンと床に腰を落とし、額から流れる汗が顎をつたい、床にシミを作った。


 ——熱い。


 全身に伝わる、刺さるような熱さ。あの日、あの夢で、体感した、熱さ。思い出される、あの夢を。

 街へ向かう馬車が、走る道の崖崩れに巻き込まれ、ニーナとルビィが二人、空中に投げ出されて、思わずニーナはルビィを庇って、そして。

 正夢なのだろうか。だって、先ほどルビィがニーナへかけた言葉は、夢で見たものと一文一句すべて一緒だったのだから。


 ——考えすぎかもしれない。……だけど、それでも。


 あの時見た、ルビィの赤の瞳が、ニーナは忘れられなかった。

 ニーナはブンブンとかぶりを振り、身につけたメイド服を脱ぐ。


 ——所詮夢は夢。だから大丈夫、大丈夫。


 ニーナはそう自己暗示をしながら、ラフな格好に着替えるのだった。




 次の日、いつも使う街へ向かうための道が崖崩れを起こし、とある貴族が亡くなったと聞かされ、ニーナは顔面を蒼白にさせたのだった。

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