一話『ヒロイン推しの決意』

「——ニーナ」

「————えっ」


 自身の名前を呼ばれ、思わず間抜けな声を出した。目の前にはピシッとメイド服を着こなした女性が立っており、その表情は訝し気に歪められている。


「どうしましたか?」

「……えっ、あっ、メイド長」

「ぼーっと立ちすくんで……なんだか顔色が良くないわね。もしかして体調あまり良くないのかしら」

「あっ、いえ、体調のほうはもう、元気いっぱい……です、けど」


 メイド長の言葉を返しながら、少女は困惑した表情で回りをきょろきょろ見まわした。豪華なベッドに、装飾の多いドレッサー。煌びやかなドレスが沢山収納されたクローゼットに、高級そうな調度品の数々。窓から差し込む太陽光は部屋を明るく照らし、その部屋は少女は見慣れた主の部屋であることがわかった。


 ——あれ?


「……元気いっぱいには見えませんね。いいわ、あとの仕事はほかのメイドに任せるから、ニーナは今日一日休んでいなさい」

「えっ」

「その代わり、明日はいつも以上に働いてもらいますから」

「メイド長」

「いいですね?」

「……はい、わかりました」


 少女の返事に納得したのか、彼女はコクリと頷いた後部屋を後にした。パタンとドアが閉まった音を皮切りに、部屋にシンと静寂が訪れる。チク、タクと時計の音が響く部屋。そんな部屋で一人、残された少女はぐちゃぐちゃに困惑した頭で必死に考えた。


 ——どういうこと?


 少女は垂れ下がった腕を持ち上げ、自身の手のひらを見た。指が5本。ちゃんと正常な方向に曲がって、傷一つない。少女は自身の体を見た。右足も左足も、どちらもしっかり地面の上を立っていて、ちゃんと自分の意志で動かすことができる。ぴょんぴょんと跳ねることもできるし、どれだけ体を動かしても熱は一切感じない。少女はパチリパチリと瞬きをし、そっと自身の頬をつねってみた。


 ——痛い。


 頬に伝わった痛みに対し、これが夢でないことを確認する。


 ——じゃああれが夢だったの?


 少女はその場で立ち尽くし、考えた。思い出されるは先ほどの事。体に募り続ける熱に、動かない自身の体。頭は数年の記憶でいっぱいになり、音は何も聞こえず、視界は真っ暗。唯一分かったのは頬に落ちてきた涙の暖かさと、一瞬だけ見えた宝石のような赤色。鮮明に思い出される、記憶。少女は息を吐く。熱さは感じなかった。

 本当にあれが夢だったのか?あの時体感した熱さが、本当に夢の物だったのか?あの時見た赤の美しさが、本当に夢だったのか?あの時流れ込んできた記憶の全てが夢だったのか?

少女は自問自答を繰り返す。だけど繰り返せば繰り返すほど少女の記憶は混濁し、結論は遠くなるばかり。もしあれが本当に夢であるなら、人生で一番といっていいほどの悪夢だったと少女は思った。


 ——夢、だったのか。


 少女は再び自身の体を眺めながらそう思った。でなければあの時、少女の体は確実に……


 ——っ


 少女は目を細め、ぐちゃぐちゃになった頭を手で押さえた。微かな頭痛が少女を襲う。酷い悪夢を見たせいなのか、心身ともに疲労。ツキツキと刺すような痛みが少女の頭を襲う。静寂な部屋に、少女の苦しそうなうめき声が響く。少女は細めていた瞼をゆっくりと下ろした。


 ——頭がおかしくなりそう。


 それから少女は弱々しく被りを振り、メイド長に言われた通り今日は休もうと考えた。記憶の混濁も、頭の痛みも一晩眠れば治っている。そう思ったからだ。

 少女は重い瞼を上げ、痛む頭を摩りながら一旦自分の部屋に戻ろうと、部屋を出た。


「あ、ニーナ」


 その瞬間、鈴のような凛とした声が少女の名前を呼ぶ。少女はその声に気付き、反射的に振り返った。


「お掃除お疲れ様」


 廊下の窓から差し込む日光で輝くプラチナブロンドの髪。陶器のように色白できめ細やかな肌。まるで人形かと見間違えるほど整った容姿。その眼窩に嵌ったルビィ色の瞳にはまだまだ幼さが残っていて、だけど目を見張るほどの高貴さが漂っていて、その魅力は誰もが目を奪われる。


「いつもありがとうね、ニーナ」


 ニコリと微笑した彼女の瞳が、慈悲深く揺蕩んだ。


 ————あっ


 刹那、少女の頭に見知らぬ記憶が流れ出す。ズキン。頭に鈍痛が走った。少女は目を見開き、息を止める。汗がだらだらと溢れ、目の前が真っ白に濁る。鈍器で頭を殴られ、脳が破壊され、脳漿が思考を侵されているよう。もしくは、思考回路を焼かれ、脳みそをぐずぐずに溶かされているような感覚に、少女は時間という概念を忘れそうになった。


「……?ニーナ?」

「あっ」


 もう一度名前が呼ばれた。その瞬間、頭痛の痛みは更に加速し、少女は悲鳴にもならない声を溢す。瞬きすらできない。視界は真っ白に濁っているくせに、目の前の赤色は鮮明に見ることができて、目を逸らすことができない。赤を見るたび、少女の全く知らない記憶が流れ込んできて、頭の中で暴れまわる。暴れて、暴れて、暴れて。少女の人格を根本から否定し、覆し、壊してしまうほどの衝撃を、知らない記憶は与えていく。


「あ、がっ」

「えっ、ニーナ!?どうしたの!?ニーナ!?」


 これまで生きてきた14年を、見知らぬ記憶が塗り替えて。少女の人格に別の人格が上書きされて。自分が誰かもわからなくなって。この体が本当に自分の物なのかすらもあやふやになって。これまで知らなかった感情が蘇って。

 とにかく痛くて、痛くて、痛くて、痛くて。脳のキャパシティーはとっくの前に超えていて、それは人一人分の物ではなくて。その痛みは、まるで脳の思考回路を焼き尽くしているよう。新しく、頭の中で誰かがささやいているよう。


「はっ、はっ、はっ、はっ」


 少女は頭の痛みにふらふらと体をふらつかせ、廊下の壁に倒れるように凭れ掛った。その異常な様子を前に赤の瞳の彼女は少女に寄り添い、言葉を掛け続ける。だが少女はその言葉に応えられるほどの余裕は持ち合わせておらず、今にも発狂しそうな頭を必死に手で抑え込んでいた。


「うっ、ぐっ、あ、あぁ」

「ニーナ!しっかりして!ニーナ!!!」


 少女の見開かれた目は血走り、逸らすことができない赤をジッと見つめていた。


 ——あぁ、なんだっけ。この赤色、見たことあるんだ。


 少女は狂気で満ち溢れた頭で考えた。必死に考えた。わけもわからなくなって、自身の自我すらあいまいになり始めた頭で考えた。


 ——ルビィ・ホワイト。

 

 少女は自身の主のことを考えた。その髪を、その瞳を、その声を、少女は考えた。そして少女は気付く。その髪も、その瞳も、その声も。全てが全て、知っていた。少女は彼女のことを知っていた。


 ——あぁ、そうだ。そうだった。そうだった。そうなんだ。そうだった。


 少女は自身を支える赤の瞳の彼女を見た。


 ——ルビィ・ホワイト…………それは……


 少女は遠くなり始めた意識を認識しながら、思い出した。


 ——悪役令嬢の、名前じゃないか。


 その事実を受け入れた瞬間、少女の頭に響いていた鈍痛が消え、少女の意識は暗闇へと深く深く、沈んでいった。


△▽△▽△


 少女……ニーナには、前世の記憶があり、更にはこの世が乙女ゲームの世界だと伝えれば、一体何人の人間がその事実を信じるのだろう。

 ニーナは寝起き特有のぼんやりとした意識のまま、ふんわりとそのことを考えた。


「ニーナ、大丈夫?」

「……はい、大丈夫ですよルビィ様」


 ニーナが横になるベッドで心配そうに声をかけたのはルビィ・ホワイト……ニーナが仕えるホワイト家の令嬢であった。その人間離れした美しいプラチナブロンドの髪を揺らし、心配そうに鮮血色の瞳を揺らすルビィは、ニーナのギュッと握る。


「急に倒れるんだから、本当に心配したわ」

「心配おかけして申し訳ございません」

「ううん、いいの。ニーナが無事なら、それで」


 ルビィはそう言葉を零すと、ふっと薄く笑みを浮かべた。その表情は心底ほっとした様子で、涙の痕が残った目には慈愛の色が見える。幼いころからルールばかりのかたっくるしい貴族の世界で生きてきたにもかかわらず、ルビィのその真っすぐ純粋な優しさにニーナは心を打たれた。それと同時に、多大なる疑問が思考を覆いつくし、ニーナの唇を閉じさせる。ゴクリと鳴らした喉の音が、ルビィに聞こえてなければいいのに、そうニーナは思った。


「本当に体調は平気なの?」

「大丈夫ですよ。沢山寝たから元気いっぱいです」

「……まぁ確かに顔色はいいみたいだけど」


 眉を顰め、不安げに見つめるルビィは、ニーナの瞳をジッと見つめる。まるで脳の奥、考えていることすら見つめられていそうな感覚に、ニーナはなんとも言えないむず痒さを感じて、目を窓の方へやった。どうやらかならの時間眠っていたようで、ガラス越しの外の世界は暮れなずんでいて、あと数刻もすれば夜の世界へ突入することがわかった。


「ご飯は食べられそう?」

「……食欲はあまりないですね」

「そう、わかったわ。サリアに伝えておく」


 聖母のような微笑みをうっすら浮かべ、ニーナの髪を撫でるルビィに、ニーナは口をモゴモゴさせた。


「他に何かやってほしいことはある?」

「いえ特には。私は大丈夫ですよルビィ様」

「本当?」

「はい」


 ルビィの浮かべる心配そうな表情をかき消すように、ニーナはニコッと破顔する。別に空元気ではない。食欲はないにしろ、実際ニーナの体はいつも通り、正常な状態だったから。まるでそれは倒れる前に襲った頭痛がなかったみたいに。

 ニーナは静かに目を閉じ、ふっと短く息を吐いた。


「……ルビィ様、そろそろ夕飯のお時間ではございませんか?」

「ええ、そうね。でも今日はいいわ、ニーナのそばにいる」

「ダメですよルビィ様、今ですらこんなに細いのに、これ以上細くなったら大変です」

「大丈夫よ、それに私今あんまりお腹空いてな」


 ルビィの声を遮るように、クーッとニーナの部屋に可愛らしい音が鳴り響いた。途端に口を噤み、ゆっくりと色白の頬を桃色に染めるルビィ。恥ずかしそうにプイッと逸らす瞳は、なんとも言えない色を宿していた。


「……ルビィ様」

「…………わかったわよ」


 ルビィはニーナのベッドの横に置かれていた椅子から立ち上がり、恥ずかしそうに頬を掻く。まるで気にしてない風を装いながら、だけどニーナは彼女のサラサラの銀髪の奥で耳が真っ赤に染まっていることに気がついていた。


 ——可愛い。


 思わずそんなことを口走りそうになるが、我慢。冷静な装いを行うルビィへ、ニーナは「ありがとうございます」と微笑した。


「それじゃ私はもう行くけど、何かあったらすぐに人を呼びなさいね」

「はい、心配かけて申し訳ございません」

「いいのよ、だってニーナだもの」


 ルビィは一瞥してからそう笑うと、部屋を出て行った。残されたニーナは一人、ときめいた胸をキュッと手で押さえつける。サラッとあんなことを言うもんだから、心臓がいくつあっても足りない。ニーナは早くなった心音を無視しながら、ふぅーっと深いため息を吐く。そしてゆっくりと、頭の中の整理を始めた。


 この世界は多分、乙女ゲームの世界……なんだと思う。『天使の聖典』略してテンセイという乙女ゲームの世界。魔人や魔物といった人ならざる物が蔓延り始めた世界で、聖女であるヒロインが王子や騎士などと言った男性たちと共に人々を救う物語。乙女ゲームというジャンルでありながら、バリバリにRPG要素が盛り込まれ、個性的かつ魅力的なキャラクターや、いくつものエンディングが用意されたテンセイというゲーム。更には隠し要素が多く存在し、やり込めばやり込むほど、その魅力は引き立たれる。そして何よりテンセイはストーリーの内容が良質で、前世の世界では大ヒットゲームの一つとして有名であった。無論ニーナの前世である女もテンセイは既プレイ済みであり、だからこそ前世の記憶を思い出したニーナはルビィ・ホワイトという少女に大きな疑問と違和感を抱いていた。


 ——だって、ルビィ・ホワイトは……


 ルビィ・ホワイト。彼女は所謂乙女ゲームの”悪役令嬢”という立場であった。悪役令嬢、それは乙女ゲームでよくあるヒロインの壁となるキャラクター。例えばそれはヒロインに嫌がらせをしたり、攻略対象との間柄を邪魔したりなど、乙女ゲームではいなくてはならない存在である。ルビィ・ホワイトはそんな悪役令嬢という立場であり、例に漏れず彼女もゲーム内でヒロインに悪役令嬢らしい事柄を行なっていた。

 だが、テンセイという乙女ゲームの、ルビィ・ホワイトという悪役令嬢は、他の乙女ゲームとは比べ物にならないほどの人物であった。それは何故か。彼女がヒロインへ行う嫌がらせは、誰しもが絶句し、ドン引きする、悪行を煮詰めて煮詰めてこれでもかと煮詰めたいような、言葉にすることも憚れるほど酷いもの。一体何があってそこまで性根がねじまがり、腐り、悪魔のようになってしまったのか。不思議に思うほど、ルビィがヒロインに行う悪行は恐ろしいものであったからだ。

 勿論ルビィ・ホワイトの性格は言わずもがな。傲慢かつ冷徹で、平民を人だと思っておらず、それどころか家族以外全ての人類敵だと思っている彼女。人間を恨み、世界を恨み、ヒロインを卑劣な行為で貶める姿はまるで魔王のよう。事実、テンセイのとあるエンディングでは、その圧倒的な負のエネルギーから悪の根源である魔王に体を乗っ取られてしまい、ヒロインの聖女の力で浄化されるわけ、だが。

 一人になった部屋で、ニーナは首をかしげた。


 ——彼女が本当にルビィ様が”あの”ルビィ・ホワイトなの?


 ニーナは先ほどまで手を握ってくれていた少女と、記憶の中の少女を比べる。傲慢で、冷徹で、人間不信なルビィ・ホワイト。それがニーナの知っていた彼女のはずだったのに、今ニーナが関わっているルビィ・ホワイトは全くの別。純粋で、真っ直ぐで、優しくて、人格者。平民出身であるメイド達にも慈愛と敬愛を忘れずに接してくれる彼女。権力を振りかざすことなどなく、謙虚に貴族として生きる彼女が、本当にあのルビィ・ホワイトなのか、ニーナはとにかくその疑問で一杯になっていた。


 ——もしかして本来の性格を隠し、人格者のふりをして生きているのか?いや、そんなことはないはず。だって私はずっとルビィ様の側で彼女を見てきたのだから……だけど


 ニーナはゴロンと寝返りを打ち、考えた。だけど考えても考えても、わからないものはわからない。ニーナは眉を顰め、静かにため息を吐いた。


 ——わからないことは仕方ない。彼女が本当にあのルビィ・ホワイトであるかどうかは後で考えるとして、前世を思い出した私がやることは一つだけだ。


 ニーナは布団の中で、静かに決意する。


 ——ヒロイン推しとして、絶対にヒロインをルビィの嫌がらせから守る。何があっても、二度とあんな酷い嫌がらせをヒロインに受けさせない。


 そのためにニーナは何をすべきなのか、自分自身に冷静に問いかけた。


 ——幸い、私の立場はホワイト家のメイドで、ルビィ様と同い年。だからなのか、多分ルビィ様は私という存在を信頼しているよう。ならば私はその立場を存分に利用するまで。一年後には乙女ゲームの舞台であるアポカリプス学園でルビィ・ホワイトとヒロインと出会う。それまでに私はルビィの本性を掴み、ヒロインをなんとしてでも助ける。それがヒロイン推しである私の使命だ。


 ニーナは愛するヒロインの顔と、ルビィ・ホワイトの顔を思い浮かべながら、決意を胸に抱く。


 ——私は、ルビィ・ホワイトからヒロインを守る!


 揺るぎないその想いはニーナの心臓に火をつけ、そして世界はゆっくりと乙女ゲームのストーリーをなぞっていくのだった。

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