藤井 狐音

 後輩が来たときは、きまって熱いコーヒーを淹れる。

 焦茶色の匂いが漂いだした部屋の中を、後輩は一直線に駆けた。下階に響きそうな足音に、僕は背後から眉を顰める。彼女は居間の真ん中に図々しくも座ると、砂汚れ一つない通学鞄の底深くから、黒地のポーチを取り出した。中身は、ワインレッドの3DSだ。

 こんな光景が週二、三、前の冬から続いている。後輩といっても、今は同じ共同体に属した上下の間柄ではない。昨年度まで、高校の中でそういう関係にあった。僕は卒業して大学生になったわけだが、今も交流は続いていて、彼女からの「先輩」という呼称は残っている。

 木製の本棚の最下段、ゲームディスクや借りたDVDの並びの左端には、青く半透明なケースが収めてある。一昔前に百均で売っていた、薄汚れたゲームカセットのケース。後輩はそれを引っ張り出して、もうどこに何があるかわかったような手つきで、目当てのカセットを抜いた。『ポケットモンスター・パール』、二つ下の後輩からすれば物心もついていないかもしれないような頃のゲーム。彼女は僕の部屋を訪ねては、鞄に忍ばせたゲーム機でこれをプレイする。

 淹れたよ、と声をかけると、おいといてください、と返ってくる。その視線はとうに、縦に並んだ小さなディスプレイに落ちている。彼女は猫舌だ。けれどコーヒーはとびきり熱く淹れるのが、彼女との間のいつもだった。

 冷めるまでの間、彼女はゲームをしている。一人で。最新のスマブラも、自前の機体で遊びたいなら通信プレイのできる3DSソフトもこの部屋にはあるにもかかわらず、彼女は『パール』を選んだ。『プラチナ』から始めたそうで、ちょうどプレイしたことのないバージョンらしかった。僕と旅したポケモンたちはみな〝ホーム〟へ移住を済ませていたので、彼女には初期化してソフトを渡した。渡したのだから一応は彼女のものなのだが、持ち帰られることもなく、僕の部屋で保管されている。

 ゲーム中の後輩には、みだりに話しかけてはいけない。別にそんな決まりはないけれど、直感的にそう感じられて、僕はそれを守っていた。「淹れたよ」、「冷めたよ」、およそこの二言が全てだ。その間を、僕は読書か、課題か、あるいは茫然とローテーブルに着くなどして過ごすのだ。

 そうして四、五十分、自分の啜るコーヒーからすっかり熱を感じなくなったところで、僕は後輩に呼びかける。

「冷めたよ」

後輩の返事は曖昧だが、間もなく機体を閉じて台所へと足を運ぶ。そしてマグカップを手に取る前に、丈の低い冷蔵庫の上の扉を開ける。

 冷凍室には、練乳味のアイスキャンディーが入っている。食べ終わりの棒を再利用して作ったものだ。今や暑さも過ぎた十月の半ば、冷たい甘味はもう結構なのだが、僕も喫食に付き合わされる。今年の夏の頭から始まった習慣だ。

「進みましたか」

歯茎と頭を痛みに貫かれながら、後輩に尋ねる。

「レベルを上げてます」

カップの内にミルクを垂らしながら、彼女は答える。

「今はゲームも便利になってるんだなぁ、って実感しますね。だるいです」

四天王に腹を立てていたのが先週だったか。であれば、そろそろ敵うほどの戦力になる頃だろう。

「クリアしたら、そのあとはどうしますか」

クリアしたら終わりのゲームではないのは、無論わかっている。それでも、一つの区切りがついてしまうことの意味は、彼女にとっては大きいはずだ。

「……どうしましょうね」

なぜなら、それは理由だからだ。所属の縁は終わっていても、ゲームが終わっていないから。そうやって、大学生の部屋に足を運び続けている。

「……でも、コーヒーは冷めませんよ」

的を得ていないな、と僕は思う。かねてから根付いた言い訳を失って、はたしていつまで自分自身を誤魔化せようか。

 僕がローデスクに戻ると、後輩は次のぶんのアイスキャンディーを作り始めた。淡々としたその手さばきを遠目に見ていると、なんだか憐憫の情が湧いてくる。この場所、このひとときでしか役に立たない技能。それとも、アイスキャンディーは彼女をここに繋ぎ止める楔たりえるだろうか。

 そこまで考えて、漠然と気付きを得る。ああ、これらは楔だと。どこまで遠くへ行ってしまっても、彼女の残滓をこの部屋に繋ぎ止めておく、これらは確かに楔だと。繋ぎ止めておきたいのは、僕なのだと。

 であれば、練乳を買い足さなくなったときが、きっと僕たちの終わりだ。

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藤井 狐音 @F-Kitsune

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