第3話

 私は生まれたときからずっと、恵まれていたと思う。蛇口をひねれば、すぐに清潔な水が出てくるような、裕福な国に生まれて、飢えや暴力を経験したこともない。愛されて育ち、幸せな結婚をしていた。


 母は早くに他界してしまったけれど、結婚して家を出るまでは、残された父と妹と私の三人で、仲良く暮らしていた。妹のしおりの結婚が決まったとき、父を家に一人にするのが心配だという理由で、栞の旦那さんが同居してくれることになった。


 私が明里あかりを生むために二ヶ月ほど里帰りしたときは、子どものいなかった栞が、私と明里の面倒を見てくれた。


 夫は、仕事で家を空けることが多かったけれど、誠実な人で、よく私と明里のことを気にかけてくれた。


 誰も悪くなかったし、みんな優しかった。それなのに、ある日私は、動けなくなった。


****


 あれからちょうど二十七年前の春のことだ。明里の三ヶ月検診の帰りに、私は電車の中で気を失うように眠ってしまった。


 もともと眠りが浅い性分の私は、夜、明里と添い寝をしていても、少しのことですぐに目が覚めてしまう。最後にぐっすり眠った日がいつだったか思い出せず、朝起きた瞬間から、すでにぐったり疲れ切っている、そんな日々の連続だった。


 電車の中でうっかり眠り込んでしまい、ハッと目が覚めたときは、もう降りるはずだった駅を三つも過ぎていた。次の駅で降りて、逆方向の電車に乗らないといけない。そう頭ではわかっていたのに、私はずっとその電車から降りなかった。


 明里が起きてグズり始めたので、私は仕方なく次の駅で電車を降りた。降りたらかすかに潮の香がして、無性に海が見たくなった。駅のトイレで明里のオムツを替え、授乳をしてから抱っこ紐で明里をくくりつけた。それから、道も分からないのに、海を目指してやみくもに歩いた。


 一時間ほどして海岸にたどり着いた頃には、日が沈みかけていた。明里を抱っこしたまま歩いたので、脚も腰もジンジンと痛む。荷物を抱えた腕も痛い。オレンジ色の夕日が海に沈むのを眺めて、ああ、きれいだなと思ったのを覚えている。


 靴を履いたまま、海の中に入った。足首まで入ったとき、水が刺すように冷たく感じられて、私は立ち止まった。その先に進むつもりは毛頭なかったけれど、私はそこから動けなくなった。大きな夕日が水平線に溶けていくのを、私はただじっと見つめていた。


 えーん、えーん、と明里が泣く声がする。早く水から出て家に帰らなくちゃ。明里のオムツが汚れていないか確かめなくちゃ。洗濯物を干してきたから取り込まなくちゃ。濡れてしまった靴を洗って乾かさなくちゃ。


 やらないといけないことが、頭の中に無数に湧いてくる。わかっているのに、どうしても体が動かない。私は太陽がすっかり沈むまで、ずっとキラキラと光る水面を眺めていた。


「どうしましたか?」と耳元で声がして、誰かに二の腕をぐいっとつかまれた。その日、巡回中だったおまわりさんに、私は保護された。


****


 私はまた実家に戻った。緊張の糸が切れ、今までの疲労がどっと押し寄せたのか、私は起き上がれなくなった。栞がまた、私と明里のお世話をしてくれた。私はなかなか回復せず、数ヶ月が過ぎて、その間にお乳が出なくなった。栞にずっとお世話になっているのが本当に申し訳なくて、かといって、婚家に戻って、明里を一人で育てて行く体力も自信もない。


「明里を栞の養子にしてほしい」と栞にたのんだのは私のほうだ。最初は、とんでもないと取り合ってくれなかった。でも、私の気持ちはすでに決まっていた。「本当に私と明里のことを思うなら、どうか栞が明里のお母さんになってください。明里にとっても、そのほうがいいと思う」何度も、そう繰り返した。


 あの頃の栞は、子どもがなかなかできずに悩んでいて、明里を愛おしそうに抱きしめる顔は、誰が見ても母親のそれだった。栞の旦那さんも、明里のことを我が子のように可愛がっていた。


 けっきょく、明里には成人してからすべてを打ち明ける約束で、明里は妹夫婦の娘となり、私は明里の叔母として、近くで見守っていくことに決まった。


 それをきっかけに、私と夫の関係にはヒビが入ってしまい、最終的には離婚することになった。前の夫には心から申し訳ないと思ったけれど、あのころの私が下した決断を、後悔したことはない。私はもう母親になる自信がなかったから、前の夫が再婚して子どもができたと聞いたときは、心からほっとした。


 明里はみなに愛されて、立派に成人した。すべてを打ち明けた後も、明里と栞と私の関係は、こわれなかった。


(つづく)


****


次で最終回です。


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