第2話
ひとちゃんは、よく泣く。夜は
つまり、ひとちゃんは、泣き虫だけれど、ごく普通の健康な赤ちゃんだ。
ひとちゃんが生まれる一ヶ月ほど前から、明里は妹夫婦の家に里帰りをしていた。夫婦ともども、子ども好きな上に、初孫だったから、二人とも明里の里帰りに大喜びだった。明里の床上げまで、妹夫婦そろって、明里とひとちゃんを嬉々としてお世話していた。あのころの明里は、子どもを生んだばかりとは思えないほど、はつらつとしていた。
旦那さんと赤ちゃんの三人の生活が始まってからも、明里は元気そうだった。子煩悩の旦那さんと、夫婦で協力して子育てをしているのを見て、いい人と結婚したなぁとうれしく思っていた。
そんな旦那さんが、急にシンガポールに三ヶ月赴任することになった。
明里はまた里帰りをすればいいとみんな思っていたのだけれど、折り悪しく、妹の
いろんなことが重なって、明里はマンションで一人、ひとちゃんの面倒をみることになった。
「もう体は回復してるんだし、一人で大丈夫だよ。それより、お母さんのほうが心配だよ。あんまり手伝ってあげられなくてごめんね。ちょくちょくお見舞いに行くね」と明里は明るく言った。
みんな、明里なら大丈夫だと思っていた。
大丈夫。明里は、私とは違うのだから。私もそう思っていた。
実際、大丈夫そうだったのだ。ほんの一週間前にここを訪ねたときは、部屋はきれいに片付いていたし、明里はお化粧までしていた。睡眠不足が辛いとは言っていたけど、すっかり母親らしい顔になった明里は、幸せそうに輝いていた。
もしかしたら、あのときすでに、明里はいっぱいいっぱいだったのかもしれない。そうじゃなくても、人の心身の状態は、急変することだってある。今、私のとなりでベッドに横たわっている明里は、明らかに大丈夫なんかじゃなかった。
私が毎晩ぐっすり眠っている間に、明里は眠れない夜を何日も過ごし、こんなふうになるまで追いつめられてしまったのだ。なぜ、もっと早く手伝いにきてあげなかったのか、自分に腹が立ってしかたがない。怖かったのだ。あれからもう四半世紀も経つというのに。
「恵おばちゃん」明里が小さな声で私を呼ぶ。
「うん?」
「私、ひとちゃんを育てる自信ない」
「え?」
「私、母親になる能力が欠けてるのかもしれない」
そう言う明里は、もう泣いていなかった。何日も心の中で思っていたことを、私に打ち明けるような、そんな言い方だった。
「私みたいなのがお母さんで、ひとちゃんがかわいそう」蚊の鳴くような声で、明里がそう言ったとき、私の中で熱いエネルギーのようなものが、胸を突き上げた。怒りに似ていた。
「そんなこと、あるわけないでしょう」
ひとちゃんを起こさないように、小声にしたつもりだったのに、シンとした寝室で、私の声は思いの外ひびいた。
「ねえ、明里、そんなこと、自分以外の人に言える? 例えば、私がひとちゃんのお母さんだったら、私に向かって『母親になる能力が欠けてる』とか『あなたみたいなのがお母さんで、ひとちゃんがかわいそう』なんて言う?」
そう言う私を、明里は真っ直ぐに見つめた。それから「言わない」と言った。私は、鼻の奥がにわかにツンとするのを感じて、天井を見上げて息を整える。
「そんなこと、自分にだって言っちゃだめよ。ね?」
「うん」明里はそう返事をすると、そっと目を閉じた。
明里は、もともと私が生んだ子どもだ。
(つづく)
****
明日、最後の二話を公開して完結します。
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https://kakuyomu.jp/works/16816700426015479549/episodes/16816700426296737901
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