睡眠時間(花金参加作品)

かしこまりこ

第1話

 深い眠りの底から、無理やり起こされる瞬間。あの不快感に勝るものは、この世にあまりない気がする。


 姪の明里あかりから電話がかかってきたとき、私はぐっすり眠っていた。電話が鳴ってるのに気づくまでに、ずいぶんかかったような気がするし、電話を取ってからも、まだしばらくぼうっとしていた。


めぐみおばちゃん、私、明里」


 電話の相手は、確かにそう言ったと思ったのに、それっきり受話器からなにも聞こえてこない。


「もしもし?」


 ようやく目が覚めてきて、受話器に向かってそう言うと、「う」と、声なのか息なのか、わからないくらい小さな音が聞こえてきた。


「明里、泣いてるの?」


 そう言ったそばから、明里のすすり泣きが聞こえてくる。


「すぐ行くから」


 そう言って受話器を切った。車のカギと家のカギ、それから携帯、それだけジャケットのポケットに入れると、私は家を出た。


****


 ドアを開けた明里の顔を見て、なぜもっと早くこなかったんだろうと猛烈に後悔した。


 泣き腫らした目に、青白い顔。目の下には濃いクマができていて、くちびるはカサカサだ。


 えーん、えーん、と赤ん坊の泣き声が部屋の奥から聞こえてくる。


「明里ちゃん、ひとちゃんにおっぱいあげた?」と私が聞くと、明里が力なくうなずいた。

「おっぱい、ちゃんとでてる?」

「たぶん。さっき念のためにミルクあげたけど、飲まないし」と言う明里の声は、か細くて消え入りそうだ。


「オムツは?」

「替えたばっかり」

「そっか。抱っこ紐かなんかある?」


 明里が指さした先には、散らかったおもちゃや、放置されたままの衣類の中にまぎれて、スリングが転がっていた。


「スリングつけるの手伝って。ひとちゃん、散歩したら寝るかも」

「でも、夜中だし。ひとちゃんの泣き声が……」

「大丈夫、赤ちゃんの泣き声って、母親が思ってるほどうるさくないのよ」


 スリングで明里の娘のひとちゃんを抱っこすると、「三十分で戻ってくる。なんかあったかいもん飲むなり、少し横になるなり、ゆっくりしてて」と明里に言い置いてマンションを出た。


 春先とはいえ、まだ夜中は冷える。ふうっと吐く息が白い。抱っこしたひとちゃんは、マンションを出てからもしばらく、えーん、えーんと泣いていたけど、十五分くらい散歩しているうちに静かに寝息をたて始めた。


 寝ている赤ん坊って、どうしてこんなに可愛いんだろう。ていだけど本当に天使みたいだ。すやすや眠るひとちゃんを、スリングごしに抱きしめながら、ミルクの匂いのする頭にむかって「ひとちゃん、大好きだよ。宝物だよ」とささやいた。


 マンションに戻ると、明里がソファーでぐったりと放心していた。


「ひとちゃん、寝たよ」スリングの中で眠る赤ん坊を指差して報告する。

「ベッドに寝かせると、また起きると思う」そう言う明里の目から、涙がこぼれた。

「大丈夫。こうやって私が抱っこしといてあげるから。明里は少し寝なさい」


 明里は素直にうなずくと、寝室に向かった。部屋着用のズボンに長袖のTシャツを着ているから、そのまま寝ても問題ない。もしかしたら、今日は着替えてもいないのかもしれない。


 明里がベッドに横たわったのを見届けてから、寝室の電気を消し、部屋を出る。ドアを閉めるときに「恵おばちゃん」と明里の小さな声が聞こえた。


「うん?」ドアを少し開けて、首だけ部屋の中に入れてみたけど、返事がない。電気を消したまま部屋の中に戻り、明里が寝ているベッドに腰をかけた。ひとちゃんを抱っこしたままだから、お尻がベッドにドスンと沈んだ。


「私、どうして、みんなができることが、できないんだろう」


 私はその質問に答える代わりに、明里の頭をそっとなでた。


「睡眠時間、ちゃんと確保できてる?」私がそう聞くと、明里は小さく笑った。

「ごめん。愚問だったわ」と私も少し笑った。


(つづく)


****


お題は「睡眠時間」でした。長くなってしまったので、今日は二話公開します。全四話で完結です。

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