蝶と蜘蛛

新溶解性B錠剤

第1話 なくした心

「結婚生活は我慢の生活」という言葉をどこかで聞いたことがある。

私はその言葉の真意を結婚して14年目になってやっと知ることになった。夫の千葉への転勤が決まった。元々関東に住んでいた私は仕事の関係で名古屋で働くことになり、名古屋で夫と出会い結婚した。息子は生まれも育ちも名古屋。だから私の今の交友関係は名古屋にしかもう残っていなかった。けれど夫の転勤が決まり、また転勤先で一から交友関係を築き上げなければいけなくなった。

転勤の話を聞いたとき漠然とした不安が私を襲った。まるで私のすべてを奪われた気分になったし、これからどうなるのかわからない見えない未来が私を飲み込んだ。

そうした不安を感じた少し後に息子のことが頭に浮かんだ。来年受験の息子はもっと不安だろうし、交友関係が出来上がったところにいきなり放り込まれるのだからもっと不安で恐怖なんだろうと。

名古屋に残ろうかと思ったが、夫の稼ぎでは難しい。それに進学のことを考えると東京に近い方がきっといいだろうと感じた。だから私は千葉に引っ越しことを了承した。

3か月後。引っ越しも無事終わり、夫は仕事で忙しくしており、息子も不安を抱えながらも学校に通っている。私もパート先を探していた。息子の塾代やこれからかかるであろうお金を貯めるため。そして自分の交友関係を広げるため。少しでもこの寂しい昼間の時間を埋めるため。

けれどパート先を見つけるのはなかなか難しく、どうしようか悩んでいた。

夕飯を準備していると息子が帰ってきた。反抗期を真っただ中の息子は最近家に帰ってきても「ただいま」の一言すら言わない。ごはんの時だけリビングに来て、それ以外は自分の部屋にこもっている。夫も帰りが遅く、私は一人で過ごす時間が家にいてもほとんど。私の居場所はどこにもないのだなと内心そう感じていた。

名古屋にいたころを思い出す。パート先で一生懸命働いていたあの頃、たわいもない話で盛り上がったママ友とのランチ会。嫌味を言ってくる嫌われ者の息子の同級生の母親ですら懐かしく、今私の目の前に現れてほしいと感じるほどに。

結局私は孤独なのだ。息子も友達ができずにいるだろうと思い頑張っていたが、それは私の願望で実際はそうではない。先日買い物の帰りに下校中の息子を見かけた。学校の友達と仲良く話しながら帰っていた。家族の中で孤独なのは私だけだった。

パートの面接に行った帰りに買い物をし、一人帰り道を歩いていた。

なぜかその日はとても心が落ち込んでいて、どうしようもなかった。家に帰ればまた孤独。歩いている今も孤独なのには変わりないが、家に一人でいるよりはましだった。家に帰りたくないという思いから、私はふと目に入ったカフェに逃げるように、オアシスを見つけたキャラバン隊のように入っていった。

席に座るとアイスコーヒーを頼み、カバンに入っていた文庫本を取り出す。本を広げて読んではいるが内容は一切頭に入ってこない。ふと周りを見渡すと、みんな何かしら作業をしていた。勉強をしている大学生らしき人、パソコンに何かを打ち込んでいるサラリーマン、資料を読み込んでいるスーツを着た女性。私だけ、私だけ何もせず無駄な時間を過ごしている。

自分は何をしているのだろうかと自分に腹が立った。行動はしているが、それに結果が伴ってこない現状には不満しかなかった。

もう一度周りを見渡す。みんな何かしらしている中に、私と同じように何もせずコーヒーを飲んで、ケーキをつまんでいる人がいる。私と同じなのだと近しい何かを感じた。そしてその親近感は私に似ているからではないということに気が付いた。私はその人の顔を見たことがあったからだ。いや、見たことがあるなんてものではない、高校時代にその人の顔を見なかった日はなかったくらいに見た顔。佳乃だ。

私は汗をかいたアイスコーヒーと、カバンと買い物袋を持ちその顔の元へと歩く。

「佳乃…?」不安な声で私は声をかける。

「え…?」その顔は私を見るなり、霧がかかった山が朝日を受け光り輝くように笑顔になった。

「美和子?美和子じゃん!久しぶり!!」佳乃はここがカフェであることを忘れたように私の名前を呼んだ。

「佳乃声大きすぎだよ」そういうと佳乃は自分の口に手を当て、しまったという顔をしたがすぐにまた笑顔に戻った。

「なんで美和子ここにいるの?」

「それは私のセリフよ。旦那の仕事の関係で千葉に引っ越したのよ」

「そうなんだ。私は大学卒業してからずっとここら辺に住んでるの」そういうと佳乃は私の手を握る。

「でもこんなところで美和子に会えるなんて。ほんと偶然ってよりは奇跡!運命!」

「そうね。今は何しているの?」

「正社員で働いてる。あ、美和子まだ16時なのにカフェにいるから専業主婦だと思ったでしょ?」

「そんなことないけど」私は図星だという顔をしていたと思うが、口では否定をした。そして佳乃の専業主婦という言葉に違和感を覚えた。

「今専業主婦って言った?」私は佳乃に聞いた。

「そう、専業主婦。旦那と結婚して、今は2人で暮らしてる。子どもはいないんだけどね」

「そうなんだ」

そっか、結婚したのかと私は思った。

私と佳乃は高校時代の同級生でお互いに好意を持った仲だったからだ。


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