茜色した思い出へ

泡沫 希生

彼女と名も知らない魔女たちへ

 今日のように、目に焼きつくほど赤い夕焼けを見ると考えることがある。もしかして、どこかで魔女が死んだのだろうかと。

 それは何年も前、高校時代のある出来事がきっかけとなっている。現実にしてはどこか曖昧な思い出。けれど、不思議な出来事とは、ああいった捉えどころのないものなんだろうと、思い返す度に俺は感じる。






 あの日の放課後、円界えんかい真子まこはバスを待ちながら不意にこう言った。


「私はね、もうすぐ魔女になるんだ」


 その少し前まで、高校の先生やテストのことなど他愛もない話をしていたこともあり、流れで俺は「そうか」と返した。言ってから、彼女の言葉のおかしさに気づく。


「魔女?」

「そう、魔女」


 スマホから目を離し、横にいる円界に視線をやると、彼女は俺ではなく前を見据えていた。

 このバス停は本数が少なく、辺りには寂れた建物が並んでいる。彼女は前を向いているだけで、それらを見ているわけではない、そんな気がする。

 先ほどまで笑みが浮かんでいたはずなのに、今彼女の唇は引き締められており、余計なことは言わない方がいいような予感がした。


「高田くんは、今の話信じる?」


 通学に使うバスが同じである円界とは、今年クラスが一緒になってから時々話すようになった。ただそれだけの関係。

 なのに、彼女の問いには縋るような、そんな必死さが含まれて聞こえた。

 俺は遊んでいたゲーム内の魔法少女を眺めてから、ズボンのポケットにスマホを押し込んだ。


「……いや、その、魔女ってあの『魔女』か? だとして意味が、というか、どういうことなのかわからない」


 それだけをどうにか言葉にする。

 長い睫毛まつげをぱたぱた上下させたかと思うと、円界は艶やかな前髪をかきあげて何か呟いた。そうだよねとか、困るよねとか、そんな言葉。


「私の言う魔女は、高田くんが思い浮かべてるのとは違うと思う。だって、使える魔法は一生で一度だけだから」


 空は変わらず雲一つない夕焼けなのに、昼間の暑さが残る初夏の空気はいつの間にか消え失せ、今はなぜか肌寒く感じる。

 俺たちの間を鋭い風が駆け抜けたかと思うと、彼女の長い黒髪とセーラー服のリボンをさらりと揺らした。


「私の家、円界家は代々魔女を継ぐの。私の伯母さんもおばあちゃんも、魔女だった。伯母さんは、妹である私のお母さんのために魔女になったらしいから、私もそうしようと思って。私の妹はまだ小学生だし」


 人通りも行き交う車も少ない静かな世界に、円界の柔らかな声だけが響く。

 現実味のない話で信じようがない。そう思っても何も言えなかった。それくらい彼女の表情も声も真剣さを帯びていて、そもそも彼女はこんなふざけた冗談を言う奴ではないと、それくらいはわかる仲ではあった。


「私は、世界のために魔女になるんだ。自分の寿命と引き換えに、世界の寿命を延ばすために」


 肌にまとわりつく風の感触が、これが現実だと告げている。でも、こんなのあまりに突然で突拍子もなかった。


「世界には、私の家みたいな魔女の家系がいくつもあって、世界を守ってるんだって」


 最後に「信じられる?」ともう一度問うと、彼女は口を閉ざしてしまった。横顔の表情は変わらないものの、俺の言葉を待っているようにも見える。


「あの、さ」


 乾いてきた唇を湿らせながら、どうにか動かす。沈黙に耐えられそうになかった。それまで前を向いていた彼女の顔が、ほんの少し俺の方を向く。


「その話が本当なのかともかく、いや、本当だとして。お前は、死ぬのか?」

「うん、死ぬよ。だって、寿命と引き換えの魔法だから」

「ならさ。お前はこの話、他の奴にもしたのか? 仲の良い友達とかに」


 円界はすぐに答えなかった。言葉にならない息が、彼女の唇から吐き出される。ゆっくりとその体が動いて、彼女の顔が俺に向けられた。夕日のせいなのかその瞳は光って見える。


「ごめんなさい」


 その声は震えを伴っている。バッグを握る彼女の手から、小さくぎゅっと音がした。


「本当はね、このことは私たち魔女の家系だけの秘密なの。でも、誰か一人だけにはこのことを伝えても構わないって聞かされて。ものすごく悩んだよ。誰を選ぶべきなのか、言ったところで信じてもらえるのかって」

「なんで、俺に」

「これは私の我儘わがままなの」


 目を伏せると彼女は少し笑った。


「私のことをそれなりに知っている人の方が、信じてもらえる。どうしても誰かに、私がなぜ死ぬのか覚えていてほしかった。でも、私のことで悲しんでほしくなくて、その人を傷つけたくなくて。考えに考えてたどり着いたのが、あなた。勝手に選んでごめん」


 言葉を返そうとしてすぐにはできず、息をどうにか吸いこんだ。


「……それで、お前はいのかよ。正直、俺にはお前の言ってることがよくわからない。お前がこの話は嘘だって言ったら、その言葉の方が信じられると思う」

「それならそれでいい。あなたに言うと決めたのは私。後悔はしないよ」

「お前の言うことが本当だとして、証拠は?」

「ないよ。魔女なら魔法でも見せてあげるものなんだろうけど、私の魔法は一生で一度だけだから」


 円界は寂しげに笑ったまま、足元に視線を落とした。


「お母さんが言うには、魔法が発動した瞬間魔女は死んで、そのままんだって。それから先どうなるのかは、魔女にしかわからない。高田くんの気持ちはわかるつもりだよ。私だって完全には信じきれていないから」

「信じられないのに、魔女になるのかよ」

「それは少し違う。嘘だったら、何百年も私の一族がこんなことを続けているわけがないと思うの。だから信じたい、信じたいからこそ私は魔女になるんだ」


 その時、大きなエンジン音が近づいてきていることに俺は気づいた。


「高田くん」


 彼女は俺を改めて見ると、首を少し傾げて微笑んだ。

 円界はとりわけ美人という顔立ちではないと思うが、今の彼女は美しく見えた。陽光が彼女を赤く着飾っているかのようで。


「話を最後まで聞いてくれてありがとう。それだけでとても嬉しかった。だから、あと一つだけ我儘が許されるなら」


 視線の片隅に見えているバスが、少しずつ大きくなっていく。


「これから数日の間、夕空を見てほしい。おばあちゃんが魔女になった時も、伯母さんが魔女になった時も、その日の夕空はものすごく綺麗だったらしいんだ。きっと、死んだ魔女は夕空になるんだよ。私も、今日の空なんかよりもずっと綺麗な夕空になるから、どうか」


 バスが目の前まで来て緩やかに停止する。ドアが開く。


「どうか、私の空を見て。その空を忘れないで」


 彼女の目から何かが零れ落ちた気がして、俺は慰める代わりに頷いてみせた。


「……わかった」

「ありがとう、さよなら」


 絞り出すように円界は言うと、バスに勢いよく乗った。

 彼女をこのまま行かせたほうがいいと思い、俺は乗らなかった。バスに乗った円界がこちらを見ることはなく、その姿は徐々に小さくなっていった。


 エンジン音が遠ざかり、ふと周りを見渡すと、そこにはいつもの寂れた通りがあるだけ。肌寒かった空気も今は生温さを含んでいる。さっきまで繰り広げられていた不思議な話の余韻など、欠片もない。

 なんだか頭もぼーとしていて、もしかしてあれは夢ではないのか。そんな気もしてきた。

 今日は金曜だから、次に円界に会うとすれば月曜になる。彼女の言った「もうすぐ」がいつなのか、結局俺は知らない。明日かもしれないし、その次の日かもしれない。

 だけど、周りに広がる景色を見ていたら彼女にまた会える気がしてきて、俺はスマホを取り出すとゲームを起動した。心を落ち着かせるように深く息を吸っていたら、画面の中の魔法少女と目が合った。




 月曜、行きのバスに円界は乗っていなかった。そのまま学校に行ったところで、俺はようやく実感することになった。

 彼女の席がなくて、そのことに誰も何も言わなくて。心臓が激しく脈打つ中、休み時間に確認すると彼女のロッカーも下駄箱もなくて。

 それとなく尋ねて回ると、誰も円界真子なんて知らなかった。彼女と親しい友達さえ何も覚えていなかった。

 彼女はらしい。俺だけが彼女を覚えているのは多分、あの話を聞いてしまったから。

 金曜以来、何気なく空を見てはいたが、彼女が言ったような美しい夕空は見なかったと思う。

 とするとやはりあれは夢なのか。だが、バス停で彼女と話した時間の全てが夢だったのかと言われると、それは違う気がする。

 円界は穏やかで、話していて相手への気遣いを感じられる接しやすいタイプだった。彼女と話した内容をいくつも思い出すことができて、円界は先週まで確かに存在していたと結論づける。

 それなら、最後に話したことも現実になるはずだが、彼女はあの日まで秘密を抱える素振りを見せなかった。人を気遣う彼女らしいが、そのせいであの話がどこか浮いたものに思えてはっきりしない。

 そんな風に色々考えながら、放課後俺はバス停に着いた。今日は一日中薄い雲で覆われていたため、空を眺めてはいない。

 だけど、俺がバス亭に来た途端に晴れた。画面が赤い光を反射しているのに気づき、スマホから顔を上げた。


 茜色というのだろうか、目に焼き付くほど濃い赤色。それが空を覆い、上の方では桃色を帯びて見える。わずかに残る雲に濃い影を落とす空は、橙色の太陽を覆いつくさんばかりに強烈な赤を広げている。今日は夜など来ないのではないかと、そんな気にさせられるほどの赤だ。

 桃色と茜色が混じり合うその空には、幻想的でどこか妖しくも感じられる、引き込まれるほどの美しさもあった。上手くは表現できないが、いつも見る夕焼けとは異なる美しさをその空に感じた。

 反射的に、これが彼女の空だと思った。まぶたを閉じても防ぎれないほど強烈な茜色。俺がバス停に来るのを待っていたかのように、その空は姿を見せたから。






 それ以来、彼女の空に似た美しい夕焼けを見ると、どこかで魔女が死んだのかもしれないと思うようになった。

 もちろん、このことは誰にも言ったことがない。円界がいたことを証明する手段が俺にはないのだから、誰も信じてくれないに決まっている。これからも思い出として、自分の中に留めていくつもりだ。

 少なくとも、俺は彼女と彼女の空を覚えている。それだけは間違いようのない事実なのだから。

 仕事から帰ると、俺はマンションのベランダから茜色の空を改めて眺めた。その空に向かって、ビールを入れたコップを掲げる。彼女と名の知らない魔女たちへの、追悼の意を込めて。







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