無垢の辜

@umiumi0916

無辜の辜

【作品タイトル】

『無垢の辜』(読み:むくのつみ)


【ペンネーム】

内海郁



 引っ越し間近の探偵事務所に舞い込んだ、一通の依頼メール。送り主はとある孤独死した老人の家族を探し出すと言うものだった。

 依頼の内容を耳にした探偵・戸津ケンヤは一度は依頼を断ろうとした。孤独死した老人が先日自分が殺害した実の父だったからだ。だが、差し出された大金に目がくらみ最後は承諾する。結局、その会社の社員・三明海景と共に老人の家があると思しき地域に向かうことにした

 目的地に向かう中、明るく愛嬌ある三明に徐々に惹かれていく戸津。だが同時に彼女は自身の犯した罪について知っているのでは無いかと疑心暗鬼に陥り、殺害してしまう。

 三明は過去、戸津に飼い猫捜索の依頼をしていた。その当時からずっと、戸津に想いを寄せており、どうにかして思い出してもらおうとしていた。戸津が老人の息子で殺人犯であることは最後まで知らなかった。

 今から十数年前、戸津ケイヤはこの小さなベッドタウンにやってきた。

 劣化で濁った、外壁と蔦が印象的な古びたビル。その一室が、彼にとっての初めての城だ。上京して間もない頃、昼間から酒を飲んでいた暇そうな中年男性から格安で借りたテナントだった。あの時の自分は、身一つで都会に乗り込んできた無一文。考えなしの若造が、己の衝動のままに開いたのが、この戸津探偵事務所なのだ。

 探偵とは名前の割にロマンの無い職業である。舞い込む依頼は迷子の猫探し、浮気調査などぱっとしないものばかり。ある日突然警察と協力することになり、殺人事件や何かの陰謀に巻き込まれる……など夢のまた夢。あんなの、ご都合主義のドラマやエンタメ小説限定の作り話だ。

 当時の自分は手に入りたての小さく新しい世界に我を忘れ、願望のまま看板を立てた。設立したばかりの頃は、余所者の小僧が営む探偵事務所の門を叩くような、お人好しなど居るわけもなく常に飢えていた。

 だが、夏のある日の出来事、まだ一〇そこらの幼い少女が僅かな小遣いを握りしめやってきたのだ。飼い猫が家出したと泣きじゃくる彼女をなだめながら、町中を駆け巡った夕暮れのことを今でも時折思い出す。砂埃にまみれた子猫を差し出した時の少女の笑みは、ささくれだった自分自身の心を柔らかくしていった。以降、少しづつであるが依頼は増え始め、いつしか一日三食を満足に摂れる生活を送れるようになった。

 ああ、懐かしいな。

 ポケットから煙草を取り出し、安物のライターで火を灯す。脳を駆け巡るニコチンに酔いながら、視線を部屋の中に向けた。

 ついこの前まで雑然としていた、数年の歴史を感じさせるはずの事務所。今は殆どの荷物がゴミ袋に包まれている。先日、この町から離れることを決意した。住み慣れたこの地域を後にするのは不本意であったが、やむを得ぬ事情がそうさせた。本当は、今すぐにでも出て行ってもいいのだが、何年も住まわせてもらった手前、無言で消えるのは良くないとオーナーに相談し、先月払った家賃分だけもう少し居座ることにした。

 急にどうしたと心配されたが、親が他界したと適当に伝えたら残念そうに「達者でな」と言ってくれた。何も恩返しらしいことができ無かったのが心残りだったが、円満に契約解消ができただけでも満足だった。

 大方の荷物が片付いた広い部屋の中に置かれたソファとローテーブルが、なんとも言えぬ哀愁を醸し出している。再来週、この二つの家具を送り出したその時、町を離れると決めた。

 ほんの少し開いた窓から聞こえる、みしみしとやかましい蝉の声。それをかき消す消すように、スマートフォンで適当なロックを流す。乾燥しきった煙草から浮かぶ小さなのろしは、換気扇の奥に消えていった。

 凝り固まった肩をほぐすように、腕を回す。ぽきぽきという音とともに、筋肉痛が腕全体にじんわりと広がった。連日慣れない力仕事をしてきたせいか、年を取り始めた体は悲鳴をあげている。

「はぁ」

 思わず、ため息が零れた。

 衝動的に家具を処分し始めたものの、手元にある金はさほど多くない。これから町を出るまでの生活費、町を出てからの生活費について全く考えていなかった。こんな時に都合よく依頼が入ってくれはしないかと願ってみたが、やはり神様は日頃の行いを見ているのだろう。

 ふと、部屋の時計に目をやると、新規メールの確認時間になっていた。煙草を放るように灰皿に乗せて、思い息と共にパソコンを開く。

 見ると受信ボックスにぽつん、と一件のメールが届いている。顧客リストにも登録されていない、新しいアドレスからだった。件名に『ご依頼について』と書かれている。待ちに待った、新規依頼だ。体を駆け巡る高揚を抑え、アイコンをクリックしメールを開封した。


『件名:ご依頼について

 戸津探偵事務所様

 初めてご連絡させていただきます。私、株式会社青山クリーンシステムズの三明と申します。

 このたび、調査の依頼をさせていただきたくメールをお送りした次第です。

 詳細については、また後日直接お会いしてお話したく存じます。一度お話の機会を設けさせていただいてもよろしいでしょうか。

 どうか前向きなご検討、お願いいたします』


 簡素ながも丁寧なメールだった。企業からのメールであるから、当たり前と言えば当たり前だろう。

 青山クリーンシステムズ。

 耳慣れない名だ。どこかで聞いたことがあるような、。

 検索エンジンを開き、コピーしたメールアドレスを元に検索すると、一件の企業サイトが引っかかった。どうやら、この場所から近い場所に会社を構える、小さな特殊清掃の会社らしい。

 特殊清掃、所謂孤独死した死体の処理や部屋の掃除をする職業だ。

 ぞくり、と妙な悪寒が背中を走る。まさか、特殊清掃の業者から依頼が来るだなんて。時期とタイミング的に、このような依頼が来る可能性はゼロでは無いだろう。だが、本当に来るとは。

 人間の死と隣り合う仕事に対しての偏見は無い……と言いたいところだが、どうにも薄気味悪さを感じているところはある。この現実とは少し離れた、自分とは交わらぬところにある存在だと思い込んでいた。

 一息ついて、返信のメールを送る。承諾の旨を綴ったものだ。

「……」

 ソファに深く腰掛ける。灰皿の上で消えかけていた煙草を咥え、思い切り吸った。煙とともに不安が消え去れば、どれほど気が楽になるだろうか。

 この胸騒ぎが、杞憂だと言うことを願うしか無い。


・・・


 例のメールが届いてから数日が経過した。

 カチカチという時計の針の音と、余計に効かせた空調の音が部屋に響く。

 青山クリーンシステムズの職員がするまで、十分近く時間がある。むしゃくしゃする心を鎮めようと、紙箱を手にベランダに出た。

 日差しが刺さるように痛い。ライターを弾こうとする指にすら、熱射に当てられる。だがこれで不安が紛れるのならどうでも良かった。小さく燃える筒を咥え、コンクリートを見下ろした。

 このビルが建つのは、町のメイン通りからいくらか離れた場所だ。古く短いビルが密集し、お世辞にも明るいとは言えない。そんな通りだからか、この街の住人達は皆明るい商店街の道を通る。人通りがほとんどそちらに持って行かれるせいで、周辺は物寂しい雰囲気を纏っている。

 だが、静かでどこか哀愁漂うこの場所が、それなりに気に入っている。まだ上着が必要な時期は、毎晩このベランダから街を見渡して酒を飲むのが日課だった。

 最近は照りつける太陽のせいで、それどころでは無くなっている。久しぶりに見る平凡な町の景色を楽しんでいると、探偵事務所の看板の下、一人佇む女性がいことに気がついた。色鮮やかなリュックサックに、無地のポロシャツというシンプルな出で立ちだ。時折、スマートフォンを眺めながらじっと立っている。

 誰かを待っているのだろうか。

 こんな寂れた場所で待ち合わせをしているというのはさておき、八月の太陽の下、まともに日よけの無い場所で立っているのは辛かろう。いくら若くても限界があるはずだ。

 そうぼんやりと考えていると、視線に気づいたのか女性が顔を上げる。

「あ、」

 さっと血の気が引いた。

 上階から若い女性を見下ろす中年男性。明らかに不審者じゃないか。少なくとも自分だったら即通報案件だ。何か、気の利いた言葉をかけねば。

 ありったけの脳をフル回転させ、必死に言葉を選ぶ。地上の女性は顔を上げたまま、眩しそうに目を細めている。

 まるで子猫のような小さく跳ねた目元に太陽に反射する肌。歳は二十代前半、下手したらもっと若い可能性だってある。

「あ、暑く、何ですか?」

 恐る恐る声をかけた。

 彼女からの返事は無く、こてんと首を傾げこちらを見るばかりだ。

「あ、だから、その、日差しが、」

 女性はあぁ、と一瞬の間を置いて、小さな唇を動かす。

「大丈夫です。慣れてますので、ご心配なく」

「それは、よかった」

 鈴の音のような声と、はまさにこれのことか。二階のこちらまで聞こえるよう少し張り上げてもなお透明で、心のささくれ立った部分を優しくいたわるような声。水面に落ちた水滴が広がるような安らぎが、全身を包んだ。

 じわりと広がる声の余韻もほどほどに、なるべく怪しまれないように彼女の視界から外れる。そっと身を引いて、ベランダから室内へ足を踏み入れた。

「あの、」

 再び、彼女の声が聞こえた。反射的にびくりと肩が跳ねる。再び同じ場所から地上に目を向けると、くるりとした瞳と目が合った。先ほどとは変わった、何かの意思を持った視線に捉えられ、体が固まる。

「戸津探偵事務所の方ですか」

「へっ、あ、はい。戸津ですが」

「私、本日ご相談に伺わせていただきました、青山クリーンシステムズの者です」

「あ、」

 一瞬脳の働きが停止した。はっと思考を元に戻すと、余所行きの声で呼びかける。

「今日いらっしゃる。そうですか、はい。も、もしよろしければ、差し支えなければ、お上がりください」

「お心遣い、感謝いたします」

 そう言って女性は軽く会釈をし、ベランダの下に消え見えなくなった。

それを見届けた瞬間、踵を返しタバコの火を灰皿に押しつける。ついでに煙の染みついたTシャツも脱いだ。

 まさか、女性が来るとは。

 特殊清掃と言えば、男の仕事だろう。俺のような中年がする仕事なんじゃないか。あんな細い腕の、若くて小さな女ができるわけが無いじゃないか。

 ぶつぶつと呟きながら、適当に買った香水を首に吹きかける。新しいシャツも引っ張りだし、洗面台の鏡で髪も整えた。こんなこと、付け焼き刃にもならないなんてわかっていた。だが、やらずにはいられなかった。

 何しろ、若い女性と話すのが久しいのだ。ここに来る依頼人の多くは自分と同じくらいか少し上の年齢層の者ばかり。あの年頃と話す機会など、コンビニやスーパー程度がせいぜいだった。

 コップ片手に応接間に戻ると、冷蔵庫からジュースと茶菓子を探す。こんなことがあるのなら、もう少しマシなものを買っておけば良かった。

 そうこうしている内に、インターホンが鳴る。

「はい!」

 できるだけ、みっともない姿は見せたくない。特に理由の無い虚勢をはりつつ、事務所のドアを開いた。


・・・


「改めまして、株式会社青山クリーンシステムズの三明です」

 先ほど自分を見上げていた顔が、真っ正面からこちらを向いている。 二人がけのソファの端にちょこんと腰掛ける様子は、ショーウィンドウに並ぶ人形のようだ。

 近くで見れば見るほど、華奢な女だ。目線の位置が頭一つ分顔下で、身長はおおよそ一五〇を少し過ぎた程。腕も、脚も、腰も、首も。少し力を込めれば、軽快な音とともに折れてしまいそうだ。

「どうも、戸津です。よろしくお願いします」

「お願いします。一応、こちらお渡ししておきますね」

 隣に乗せた四角いリュックサックの中をごそごそと探ると、一枚の小さな紙を手渡してきた。名刺だ。白地に水色のラインが入った、シンプルなベースに『三明海景』と印刷されていた。

 綺麗な名前だ。

「こちらこそ、お越しくださりありがとうございます。さんみょう……えっと、ミカゲさんでよろしいですか?」

 恐る恐る、三明の顔を伺う。すると彼女は小さく口を開け、ぽかんとした表情を浮かべる。

 何か、間違ったとことを言ってしまったか。すかさず謝罪の言葉を述べる。

「あ、読み方間違ってましたでしょうか?失礼いたしま……」

「いいえ、合ってます。大正解です」

 気づけば自分よりも二周りほど小さな白い手に腕を取られ、ぶんぶんと握手をさせられていた。その嬉しそうな表情に気圧され、手を引タイミングをすっかり逃してしまう。

「会うのが二回目の方でも、結構読み方迷われる方が多いんですよ」

 葡萄のような瞳がきらきらと輝く。

「あの、手、」

「あっ」

 三明は、握っていた手を机に下ろし、「すみません、つい嬉しくて」と目を細める。

「いや、偶然ですって」

「そんなことありませんよ。ふふ、嬉しい」

 ふと確かに、と考える。海をミと読むことは多けれど、景をケイではなくカゲと言うのは珍しいかもしれない。

 我ながら、冴えている。心の中でそっと胸をなで下ろした。

 三明は再びリュックに手を入れ、中から一冊のファイルを取り出す。

「私ったら、話をそらせてしまいましたね。では、早速ですが今回のご依頼について詳しくお話してもよろしいでしょうか」

「はい」

 会社ロゴの箔押しの入ったファイルには、いくつかのコピー用紙が入っている。その中の一枚が、机に並べられた。

「ご存じかもしれませんが、弊社の主な業務は特殊清掃と遺品整理です」

 簡単なパンフレットが開かれ、三明はページを指さす。

「遺品整理もされるんですか。それは初耳です」

「はい。基本は別の業者が請け負うことが大半ですが。我が社ではどちらも行っています。まとめてしまえば、ご遺族の方も少しは楽でしょう」

 たしかに。

 そう相づちを打つと、三明は微笑みながら話を続ける。

「私たちは先日、あるアパートにて孤独死されたご遺体の清掃をしておりました。八十代で認知症の気があった男性です」

 認知症の独居老人の孤独死。まあ、独居老人の増えたこの時代ではよくある話だろう。

「この方が亡くなられた後発覚したんですが、押し入れの中にそれなりの財産がありまして。大家さんにお伺いしたところ、できればご遺族の方の元にお渡ししたいとのことで」

「そこで、探偵事務所へ……とのことですか」

「はい。その通りです」

 三明が頷くと、彼女の小さな爪が一枚の写真を指さした。コピー用紙に印刷されただけの、ざらざらしたそれを目にした瞬間、ぐわんと大きく視界が揺れた。

 どくり、どくり。血管を流れる脈の音が脳にこだまする。合わない焦点をなんとか正そうと大きく深呼吸してみるも、動機は収まらない。

 グラスに注いだ麦茶を一口飲み、深く息を吐く。

 まさか、よりによって今来るだなんて。

「今回、お願いしたいのはこの写真の中の方々の捜索です」

 改めて資料を覗き込むと三人家族が写っている。三十代前後と思しき夫婦と一人の息子、彼らが青々と葉が茂る山の森を背景に微笑む姿は、見る人に仲の良さを感じさせるだろう。

「日付からしておよそ二十年前写真ですね。この男性が写真の持ち主方で、お隣が恐らく奥さん。そして少年の方が息子さんだとお思われます。この奥様と息子さん、どちらかの捜索をお願いしたく……」

「え、」

 言葉を遮られた三明は、小さく首を傾げこちらに目を向けた。

「どうかされました?」

「あ、その……お話を遮ってすみません。この人の、この方々の捜索ですか?」

「はい、おっしゃる通りですが。何かありました?」

「あの。お受けしたいのは山々ですが。この写真一枚で人を探し出すというのは、探偵の私でも少々困難でして」

 お伝え忘れて降りましたが、事務所は半月で閉める予定なんです。なので、時間のかかりそうな依頼は受けかねます。どうか、お引き取りください。

 そうだ。正直に言って帰ってもらえばいい。穏便に、穏便に。

 まだぼうっとする頭を動かし、脳内シュミレーションを行う。だがそんな戸津をよそに三明は、はつらつとした表情で付け加えた。

「その辺は大丈夫です。遺品や大家さんの証言から、大まかな目安はこちらの方でつけてあります」

 今度は地図を取り出した。日本列島の東北地方に当たる部分に丸をつけた。

「日本海側のこの地域。おおよそこの辺りです……というのはわかっているんですけど」

 山に囲まれ、閉鎖的な地域だ。観光スポットはいくつかあるが、一日に数本の電車しか出ない限界集落とも言える場所。

「私たち素人では、とても特定までは」

「……そういうことですか」

 ならば、地域を特定して渡せば事が済むかもしれない。

「わかりました。では一週間、いえ三日ほどお時間をいただいてもよろしいでしょうか。後日、特定した地域の情報をお送りいたします。依頼料についてですが、当事務所は前払い制となってまして」

「ありがとうございます!もう一つ、お願いがあるのですが良いですか?」」

「はい。可能な範囲であれば」

 三明は姿勢を正し、ソファに座り直す。ぴんと背筋を伸ばした姿は、子猫を彷彿とさせた。

「私をそのご遺族の元に連れて行っていただきたいんです」

 僅かな静寂が辺りを包んだ。

「……へ?」

 思わず営業用の言葉も忘れ、地の言葉がこぼれ落ちる。

「もちろん、依頼料については追加でお支払いさせていただきます。もし、足りないと言う場合がございましたら、お申し付けください」

 三明がリュックサックから取り出した茶封筒は、目測だけでも一センチ以上の厚みがある。

「あの、つれて行くというのは、貴方を」

「はい」

「別の職員ではなく、貴方を……貴方だけを?」

「はい」

 一瞬にして、頭が真っ白になった。

 彼女を連れて行く?若い女性と?長い旅路を共にしろと?

 嬉しい、という感情以前に得体の知れない最悪感と不安が襲ってくる。

「どう、でしょうか。やはり駄目ですか」

 ゆるりとカーブを描いた細い眉が垂れ下がった。心なしか肩も力なくしぼんでいる。まるで、路上で一人飼い主を待つ子猫のそれだ。

 やめてくれ、そんな顔で見ないでくれ。

「あ、その、」

 断るのは、今しか無い。目の前の茶封筒に手を伸ばしたい気持ちは確かにある。だが、駄目だ。かろうじて働く脳がそう警鐘を鳴らしている。

「そ、そう。ですね」

 写真を眺めながら、平然を装うようにわざとらしく唸る。

 それはお受けしかねます。その一言だけだいいんだ。言ってしまえば、済む話だ。

 小さく息を吸う。

 喉を震わせ小さく、だが聞こえるように言った。

「……はい。わかりました。できる限りのことはしましょう」

 ああ、言ってしまった。胸の奥から、じんわりと後悔が広がっていく。沈む気分とは裏腹に、三明はなんとも嬉しそうに礼を言った。

「本当に、感謝いたします」

「いえ、できることなら何でもする、というのが私のモットーですから」

「よかった。戸津さんに頼んで正解でした」

 では、早速ですが日程や経費についてのお話をさせていただきますね。

 意気揚々と資料に目を落としながら話を始める三明をぼうっと眺める。妙な脱力感に身を委ねながら彼女の説明を聞くが、全くといっていいほど頭に入ってこない。ただ、その嬉しそうな表情を空虚な眼で見つめていた。

 見ればみるほど愛嬌のある、かわいらしい顔つきをしている。

 来る途中で日に焼けてしまったのか、額が僅かに赤い。日焼け止めでも塗れば良いのにと、ぼうっと思い浮かべた。元々色が白いせいか、どこか痛々しくもある。そういえば、化粧もしている様子は無い。していても、所謂ナチュラルメイクだろう。全身を防護服で身を包むことの多い特殊清掃の仕事では、メイクをする習慣がないのだろうか。

 どこかノスタルジックで、懐かしい思い出をそのまま形にしたような。少し前まで少女だったであろう女性。

「ところで、日時なんですけど」

 さらりと流れ落ちた黒髪が、さらりと耳にかけられた。当たり前だが、流れるように自然で滑らかな仕草。白い腕がしなやかに動くその瞬間、目を見開いた。

 目が、離せない。

 心の内から向きだされたその感情があまりにも恐ろしい。だが目を背けてはいけない。決して。と胸の奥でくすぶる本能が囁いた。

「戸津さん?」

「あ、」

 こちらの視線に気がついたのだろうか。顔を上げた三明と目が合う。黒目がちな瞳。見ればみるほど、蠱惑的な視線に引きずり込まれそうになる。

「大丈夫ですか、先ほどからぼうっとしていらっしゃいますが。熱中症とかじゃ」

「いいえ、少し考え事をしていただけです」

 パンフレットを見るように見せかけ、目を伏せた。少しわざとらしかっただろうか。

「考え事?」

「できるだけ、ご依頼に答えられるように、とスケジュールを。はい」

 一間置いて、三明は微笑む。まるで子犬のような人なつこい笑顔だ。

「なら、良かったです」

 そう言った後、三明は話を続けた。できるだけ、その言葉を頭に詰め込み、これからどう動けばいいのかを必死に考えた。

 話を終えることになると、窓の向こうはうっすら茜色に染まっていた。

 三明は資料をリュックの中に詰め込み、じゅっ、とリュックサックのチャックを閉める。

「では、後日。よろしくお願いします」

「は、はい。下までお送りしますね」

「いいんですか。では是非」

 三明はふわりと束ねた髪を揺らしながら、出入り口へ向かう。歩と共に髪を見ていると、先ほどのぞましい感情ががぶり返しそうになる。

 自分はこの女性ととあの遠い地まで行くのか。

 そう思うと、憂鬱と同時に妙な高揚が精神を蝕む。気分を入れかえよう。ゆっくり深呼吸をしながら、ビルの外に出た。数時間前まできつかった日差しは、穏やかな夕日となり地上に降り注いでいる。そのかわり、籠もるような蒸し暑さが全身を包み込む。撫でるように吹く風邪は気休め程度にしかならない。

「お気をつけてお帰りください」

「ありがとうございました!また今度!」

 にっと、口角を上げ彼女は笑う。

「はい、今度」

 駅の方に歩く小さな後ろ姿。その影が見えなくなるまで、じっと見つめていた。


・・・


 絶えずあふれる喧騒、人の波、無機質な車輪の回る音。

 ついに。ついにこの日が来てしまった。

 あの依頼を受けてから丸一週間。地域の特定、ホテルや新幹線のチケットの手配を報告は驚くほどスムーズに進んだ。本当に、嫌になるほどだ。この話が白紙になってくれないかと何度願ったことか。

 重いため息が漏れる。

 集合場所は東京駅の新幹線入り口、時間は十一時を予定している。だが、むずむずと疼く心臓に急かされ、予定よりも1時間早く事務所を出た。そのせいで四十分近くこの場所に発っている。人の波が来る度、彼女がいないかと目をよぎらせてしまうのが嫌だ。

 その時が来ないことを願っていたが、時間というものは残酷だった。

 人混みの中から、柔らかく透き通った声がはっきりと耳に入る。

「おはようございます」

 半袖から伸びる、細い腕をひらひらと揺らしながら、三明がこちらにやってくる。Tシャツにジーンズとラフな格好だが、何故か洒落て見える。仕事服じみたポロシャツ姿とはまた違った、等身大の雰囲気だ。「おはようございます」と軽く返事をした。

 背中からはみ出すほどのリュックを縦に揺らしながら、浮かれた足取りで跳ねる。登山用だろうか。その大きさと派手な色合いは、目が痛いほどに目立つ。。

「おまたせしてすみません」

「い、いえ。お気になさらず」

「ふふ、戸津さんはやっぱり優しい人ですね」

 ちくり、と言葉が胸に刺さった気がした。

「いや、そんな、そんなこと無いです。そうだ、三明さん」

「はぁい?」

「昼食、どうしますか。新幹線で食べることになりますけど……」

「お昼ですか。そうですね……あ、駅弁。駅弁が食べたいです」

 三明のリクエストに応え、昼食を駅の売店で購入することにした。冷蔵スペースに並ぶ色とりどりの弁当を眺める彼女の姿は、さながらおもちゃ箱に目を輝かせる少女だ。

「珍しい、ですか」

「あっ」

 細い肩がびくりと跳ね、こちらを振り向く。少し気恥ずかしそうに、へへへっと笑った。

「えっと、実は新幹線に乗るの初めてで。こういうのも食べたことが無いんですよ。うーん。どれも美味しそうで迷いますね。戸津さんは何にしました?」

「えっと、サラダサンドです」

「サラダサンドと?」

「いえ、サラダサンドだけです」

 ぶら下げていたビニール袋をふい、と持ち上げる。

「えぇ、少ない。これだけで午後のカロリー足りるんですか?」

「座っているだけですから」

「座っていても、お腹はすくのに。足りなくなったら言ってくださいね」

 ひひひっと悪戯な笑みを浮かべル彼女に、あきれたため息を吐く。だが、口角は無意識のうちに上を向いていた。


・・・


 新幹線に乗り込み指定の席に座ってから数分、戸津はゆっくりとサンドを囓っていた。隣では車窓の外の景色に目を輝かせる三明が絶えず話しかけてくる。

「ねえ、見てください!綺麗な緑ですよ」

「緑色なんて、これから行く場所ではこれより大きいのが沢山見れますが」

「本当ですか!楽しみだなぁ」

 小さなスニーカーがリズミカルに床を叩く。ふんふんと聞いたことのない鼻歌に、変な心地よさを感じていた。

「そうだ、戸津さん」

「どうかされました」

「みかげ、でいいですよ」

 へ、と情けない声が返事をした。

「呼び方です。戸津さん、私のことずっと『三明さん』って言ってるじゃ無いですか」

「そりゃあ、クライアントですし」

 ええー。

 不満そうに、頬を風船のように膨らます。

「ご不満ですか?」

「だって、『さんみょう』よりも『みかげ』の方が文字数が少ないですし」

 それに。

 三明は目を細め、付け加える。

「呼ばれたいなって、思うんで」

 その声が砂糖のように甘く聞こえた。いや、それどころじゃ無い。もっと凝縮された甘味が体の内側でに爆発したような感覚だ。

「ね、依頼内容に付け加えればいいですか?そうしたら呼んでくれますか?」

「え、えっと。その」

「ねえ、戸津さん」

 脳が沸騰するようだ。何も考えられない。三明にずっと見つめられるだけで、正気が飛んでいきそうだった。

 これ以上やられたら、おかしくなる。

 確信するまで早かった。はあ、と息を吐き彼女が望む覚悟を決める。

「わかりました、み、海景さん……これでいいですか?」

「はい!」

 軽やかに満面の笑みを浮かべる彼女とは打って変わって、戸津の心にはずしりと重い熱が籠もっていた。

「ふふ、じゃあ私はケンヤさんって呼びますね、ケンヤさん」

「……わかりました。好きに呼んでくださいよ」

「はあい!そうしますね、ケンヤさん。素敵なお名前ですね」

 それはどうも、とそっぽを向き呟く。もちろん、表情を見られないためだ。

「お名前、何か由来とかがあるんですか」

「由来?」

 自分の名前の由来、か。

 二十年以上。いや、それより前だろうか、一度親に尋ねた気がする。切っ掛けはなんだっただろうか。確か、夏休みの宿題だったか。よく覚えていない。

「えっと、『ケンヤ』というのは本所謂、仕事のための名前で、本当は健也。健やかに生きてくれって理由で、母がつけてくれました」

「素敵です。お母様のつけててくださったお名前を大切にしているんですね」

 そうとも言いますね。そう煮え切らない言葉を返し戸津は話題を変えた。

「そ、そうだ。ところで三みょ……いや、海景さん」

「はあい」

「その写真の男が死んだ時の様子って、何か覚えていたりしますか?特徴的なものだったりとか……いや、ただの興味本位なんですけど」

「もしかして、刑事ドラマとか好きなタイプですか?特徴的なもの、特徴的なものですか」

 海景はこくりと小首を傾げる。少しうぅんと唸ると、

「ケンヤさん、一応これはあんまり人に言わないでくださいね。念のため」

「はい」

「彼は、お風呂で亡くなっていました。確か、死後一週間は経過していたと思います。大家さんが悪臭に気がつくまで、誰も気づかなかったそうです」

「へえ、そんなこともあるんですね」

 曰く、独居老人という者の多くは周囲との関わりを持たない者も多いという。彼もまたその一人で、かろうじての繋がりが大家だったそうだ。

「本当に、知り合いがいなかったんですか?誰かと話している姿も?」

「はい。少なくとも周囲の人が見た限りでは」

「寂しい方だったんですね」

「そうかもしれません。だからこそ、ご遺族の方を見つけないと」

 これまで、様々な人の死に立ち会ってきた彼女の言葉は予想以上に重かった。

「嫌な質問でしたね。お気を悪くされてしまったらごめんなさい」

「いいえ、ケンヤさんになら構いません。むしろ、もっと沢山聞いてください」

 次は、何が聞きたいですか?

 ずいっとこちらに頭を寄せる海景。目的地までの数時間、彼女の身の上や好みについて隅々まで知り尽くさせられることとなった。

 

・・・


 降り立った無人駅から徒歩数分の名所にある、少し立派なカプセルホテル。チェックインを済ませた時、既に空は茜色に染まり夜の片鱗が覗き始めていた。東京を出て約半日あまりが経過しており、宿に着いた安心感からか、全身の力が緩まる。

 荷物を部屋に置いた後、共用スペースにて夕食をとることにした。移動中ずっと何かを食べていたことが信じられないくらいに海景はよく食べる。三つめの菓子パンを腹に収めた彼女を眺めつつ、一つ目のサンドイッチを囓り終えた。

「明日、何時にここを出るんですか?」

 四つめの菓子パンを開けた海景が尋ねる。

「そうですね、朝九時くらいに行けば十時には目的地につきますよ。少し歩きますが問題はありませんか?」

「はい。体力については心配無用です」

 ふんっ、と海景が腕にを込めると、白い腕にくっきりとした筋肉の筋がついた。一口、牛乳を飲み干してから続ける。

「その、ご家族がまだ住んでいるかの確証については……ご了承ください」

「はい。その時になったら諦めますね」

 ……あれだけ依頼に必死になっていたのに、諦めはいいのか。

 僅かな違和感を感じたが、気のせいだと自分を誤魔化し話題をそらす。

「気になっていたんですけど、何故私に調査の依頼をしたのですか。ちゃんとした探偵ならいくらでもいるはずでしょう」

「理由、ですか。ずいぶんと昔なんですけど、以前社員がケンヤさんにお世話になったことがあって。それが切っ掛けといえば切っ掛けですね。覚えてますか?」

 海景は試すようにこちらを眺めてくる。よほど印象深くない限り依頼人のことなど覚えていられない。随分昔と言われればなおさらだ。

 黙って首を横に振ると、「ですよねぇ」と気の抜けたこえで返答が帰ってきた。それと同時にその手元の菓子パンは全て口の中に吸い込まれていく。

 ごくん、と喉が揺れた。

「ふう、美味しかったです。ごちそうさま」

 丁寧にたたまれた包装ビニールを、ぽいぽいとゴミ袋の中にためていく。

「ごちそうさま。では、今日は解散にしましょうか」

「はぁい、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 海景は手を振りながら共用スペースを出て行く。

 一人になった瞬間、何かを奪われたような喪失感が体中を這う。逃げるように部屋へ戻った。

「はぁ、」

 ドアを閉め、ベッドに身を投げた。敷き立てのシーツに皺をつける罪悪感はある種の快感へと変わる。疲労の溜まった体に、充実感がじわじわと沁みていく。

 あれほどためらっていた旅も、始まってしまえば存外楽しいものに感じる。一人の食べる姿や話す姿を見ていいるだけで、これほどに満足するものなのか。

 サンドイッチ。カップアイス、大盛りの駅弁。そのほかにも乗り換えの度に海景は何かしら口にしていた。あの小さな体のどこに入って言っているのか、不思議で仕方なかった。

 ふと彼女の横顔を思い浮かべる。頬を膨らませ、咀嚼する口元。随分と美味しそうに食べるのだな。そう微笑ましく眺めていた。

 口を軽く開き、サンドイッチにかじりつく。小さな唇の隙間から覗く白い歯が、パン生地をかみ切る。そして薄く赤い舌が、口の端についたマスタードを舐め取った。

 食べっぷりに感心する戸津に気づいた海景は、声をかけるのだ。

 

 ケンヤさん


 曇りも穢れも知らない瞳は、どこか誇らしげに眼差しを向ける。

 手元のサンドイッチを、ずいっとこちらに向けた。


 食べますか?

 

 小さな歯形のついたパン。

 先ほどまで、彼女が口づけていたもの。


「ゔ」

 妄想から、我に返る。

 えもいえぬ熱が体を走り、嘔吐きに似たかすれるような声が漏れる。とっさに口元を覆った。

 脳がぼやけ、脈拍が上がる。感情に比例して、顔が熱くなっていく。

 正体不明の熱にうなされながら、枕元のペットボトルと手に取る。シーツの上に数滴零しながらも、一口水を含んだ。

 今、何を考えた。

 深く呼吸し、脈拍を整えた。そして自身に問いかける。

 自分は、今、何を考えた。

 海景に対し、何を考えた?

 私は、私は。私は。

 彼女で、何をするところを、想像した。

「、ぁあ」

 奥深くから湧き出る罪悪感を、かろうじて理性が崩れる前で受け止める。

 なんて、年甲斐も無い。

 相手は二〇そこらの女性だぞ。成人したと言っても、ついこの間まで未成年だった。そんな相手に恋慕の情……いや、もっと汚らわしく浅ましい感情を抱くなんて。

 自身の性欲にほとほと呆れる。ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。それでも、脳裏に浮かぶ妄想は止まらない。

 あの白い肌に触れたら、その唇で甘く名を呼ばれたら。そしてもっと、もっと近くで蠱惑的な視線に射貫かれでもしたら。

「おかしく、なってしまう」

 忘れようとしても駆け巡る雑念と一緒に、ポケットに入れっぱなしになっていたメンソールキャンディーを噛みつぶす。砕かれた破片が口内に刺さり、うっすらと鉄分の味が広がるが、痛みを感じる事は無かった。

 もう寝るか。

 熱の冷めかけた脳が出した答えだった。

 硬い掛け布団を頭に被る。

 寝る気など、微塵も起きやしないのだが。


・・・


 無機質な電子音をワンコールで止める。

 体がセメント漬けにされたように硬い。やはり、ろくに眠れなどしなかった。背中に感じる重みを振り払う。

 ロビーに向かうと、見慣れない女性がスタッフのマダムと楽しげに談笑していた。ノースリーブのブラウスに、ジーンズパンツという、ラフでありながらかわいらしい装いだ。

 あんな格好の女性、昨日はいただろうか。

 そっと、廊下の角から覗いて見ると、受付のマダムと目めがあった。彼女は「あンら!」と嬉々とした声を上げる。

「ねえ、ねえ。来てるみたいよ彼氏」

「え、本当ですか?」

 彼氏?

 全くもって見覚えがない。弁解しようと一歩前に出るが、それより先にブラウスの女性が振り返る。

「あ。おはようございます、ケイヤさん」

 海景だった。

 たんたんたん、とこちらに向かい飛び跳ねて来る。昨日よりもくっきりと浮かび上がる肉感的な体に思わず目を背けた。

「あれぇ、どうしたんですか」

「いえ、なんでもありません」

「じゃあ、なんで見てくれないんですか。ね、ねえ」

 昨晩、貴方ではしたない想像をしていました。など言えるわけがない。

「少し、目にゴミが入っただけです」

 目が合うか、会わないか。ギリギリのとこりで視線を泳がせ、なんとかやり過ごそうとする。だが、彼女の手前でそう上手くいくわけがない。

「ふふ、なんて拙い言い訳。誤魔化しても駄目ですよ」

「誤魔化してなんか」

「じゃ、私が当ててあげます。ケイヤさんが目を背けた理由」

 得意げに笑顔を浮かべ、覗き込む海景。至近距離から覗く肌は、想像していたよりもずっときめ細やかで瑞々しく、自分とは遙か遠い高嶺の存在であることを再認識させられた。

「うわっ」

 爆発しかけた理性を押さえ込むように、後ろに飛び退く。

「ケンヤさん?」

「……はぁ、はぁ。驚いた」

「吹っ飛んじゃう程にですか?へへへ、ごめんなさい」

 謝罪の言葉を並べているも、反省の色は全く見えない。

 見た目こそ大人の女性であるが、仕草や表情はまだ幼い少女そのもの。どこかいびつでアンバランス。自分はそこに惹かれているのだろうか。

 嫌な趣味だ。


・・・


「確か、この辺だったと」

二人はホテルから数キロ離れた山の麓まで来ていた。ホテル周辺こそ人通りや民家があったが、十分も歩けば見渡す限りの緑の海。自分たち以外に人は見ていない。

 戸津が先導して道を進むが、海景は背後一歩下がった場所から彼の背を追っている。

「海景さん、後ろを歩かれると少し不安になるんですが」

「心細いんですか?大丈夫です。私はここにいますよ」

 声色が、先ほどにもまして浮かれている。暑いのが苦手なのは本当のようだ。

「も、もうすぐです」

 はぁい。という背後からの返答に、ぞわりと背中があわ立つ。

 早く、早く終わらせて帰ろう。

 そう願い鼓動が早くなる心臓とは裏腹に、進む足は鉛のように重い。

 ざりざりざり。適当に舗装された道を進む足音は、リズムを違えることはない。会話の無い二人の間に流れるのは、耳障りな蝉の声だけだった。

「ここ、ですね」

「あれ」

 足音がピタリと止まった。二人の視線は左手の古びた屋敷に注がれている。

 広い庭を持った、典型的な日本奥家だった。美しい造形とは裏腹に、塀や壁には下品な落書きに汚れ、窓は割れ、柱はささくれ立っている。

 けどられぬよう、と海景の横顔を覗く。落胆しているだろうと思ったが彼女は特に驚きはしていない。それどころか、目の前の現実を平然と受け止めている。

「残念、でしたね」

「はい」

「廃墟のようです」

「はい」

「……帰り、ますか」

 彼女との間に、長い長い蝉時雨が通る。しばらく間を置いて、彼女は動き出す。

「……海景さん?」

 海景は小さな石畳の道へ飛び乗り、スタスタと屋敷の方へ向かう。

「海景さ、海景さん!」

 仕方なくその背を負い自身も石畳の道を駆け上る。追いつく頃には、蜘蛛の巣の張った玄関がこじ開けられていた。

「駄目です、海景さん。廃墟に勝手に入っては」

「少しだけ、少しだけですから」」

 普段と変わらない、明るく透明で、どこか空虚な声。それにぞくりと悪寒が走る。背中を指先でなぞられたような恐怖に硬直していると、海景は丁寧に靴を脱ぎ屋敷に上がった。

「ここに住んでいた家族は、十年以上前に離散したそうですね」

 息が止まった。

「……何故」

「元々、あの男性は粗暴な性格だったそうです。妻や息子に手を上げ、酒を浴び、彼をよく思っている人はいなかったとか」

 一つにまとまった髪が、屋内の熱気に揺れる。

「それにしびれを切らした息子さんは十年前、この屋敷を出て行ったそうです。次いで妻も。最終的に残された彼も、多額の借金を抱えたまま蒸発してしまったようです」

 目の前で淡々と話す小柄な女性が、今、どんなものよりも恐ろしかった。

 数十年の経験を蓄えた脳でも、この状況を分析することができない。ただ、不規則な呼吸を整えることだけで精一杯だ。

「み、みみ、海景、さん」

「はぁい」

 海景が振り返る。まるで天使のように柔らかく、蕩けそうな微笑みで。

 ただ、今はそう皮を被った悪魔に見える。

「あ、貴方は、い、一体……何を知って……」

「何って」

 闇色に濡れた葡萄の瞳が、刃の弧を描く。

「貴方について、少しだけ」

 限界だった。

 よくよく考えて見れば、最初から海景の様子はおかしかったのだ。閉業間際の事務所に押しかけてくるのはまだいい、だが存在するかもわからない人捜しにあれだけの大金を渡すのは考えられない。普通の人捜しでもあの金額を出す者はいない。大家から受け取った家賃の前払いとはいえ、そのままぽんと出せるものだろうか。

 考えれば考えるほど、不可解だ。酷く馴れ馴れしい態度にも、この旅への奇妙な執着も、どうかみ砕こうとも理解できない。

 かろうじて直立していた脚は力なく崩れ、しりもちをつく。途端に上がった白い砂埃がジーンズを汚した。

「なんで、」

 情けないくらいに震えた声で絞り出す。

「なんで、いつから、」

 海景はうぅん、と愛らしく首を傾げる。少し迷いを見せた後「最初っからと言えば、最初からです」と言った。

「さい、しょ?」

「はい。ずっと、ずっと」

そうです。

 海景はしゃがみ込み、目線の高さをそっと合わせる。ブラウスの隙間から見える柔らかな肌に高ぶる余裕など今はない。

「でもね、ケンヤさん。私、貴方の全てを貴方の口から聞きたいんです」

 だから、何なんだ。

「でね、だからこれから」

 小さな手が頬に手を伸ばす。先端の皮だけ僅かに硬くなった指が、ひりひりと精神を焼く。

「少し、思い出しましょう?」


 ああ、駄目だ。


 気がつけば、その首に手が伸びていた。

 海景はこくりと首を傾げ、自身を見つめる。透き通っているようで深く、底の無い瞳は底知れぬ狂気を宿していた。

 やめてくれ、お願いだ。やめてくれ。

 あの時のあいつと、同じ目をしている。

 どす黒く、無垢な、自身に加害しようとする目

 気がつけば、彼女の喉を握りしめていた。

 初めて肌に触れた。細く、柔らかく、本当に自分と同じ生き物なのだろうかと疑ってしまうほどに驚愕した。同時に、乾燥し弛んだ汚い男の皮を思い出す。

 あのクソ親父とは大違いだ。

 思い出せば、その怒りは焦りへと変わり、全身に込める力は増す。

 体重をかけ、力任せに床に押しつける。体を床板に叩きつける鈍い音が、静かな日本家屋に響く。

「ケンヤ、さ」

 言葉を遮るように、首を絞めた。

 人間と思えぬ高い断末魔と、空気の詰まり流れる音。抵抗しようと藻掻く手足は、自身より二回りも大きな男を振り払うことはできない。ただむなしく、じたばたと揺れるだけだ。

 元々大きかったその目が更に見開かれる。少し指でひっかけば零れてしまいそうだ。

 腕に、手に、体に。ありったけの力を込めた。

 眼下でぐるぐるとうごめいていた乳白色の眼球がふと止まり、一筋の滴が流れ落ちた。

 途端に我に返る。

 恐る恐る触れていた場所から手を離すと、紫色の指痕が浮かんでいた。

「……海景さん」

 呼びかけるも返事は無い。

 頬に触れた。ぬるさを感じるものの、皮下に流れる生き物の鼓動はない、。

 それが何を示すかを理解したとき、全身の血の気が引いた。

「海景さん、起きてください。海景さん」

 肩を叩くも、力なく頭が揺れるだけ。嫌というほど現実を突きつけられる。

 瞬間、自身が夏の屋内にいることを思い出した。

 なんてことをしてしまった。

 自分は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

「み、海景さん。あ、貴方が悪いんです。貴方が、あんなことを言わなければ」

 そうだ、これは自分が引き起こしたことでは無い。彼女の軽率な判断が招いたものだ。警戒心が足りなかったのだ.自分は、悪くない。思いつく限りの言い訳を並べる。

 いや。

 本当にそうだろうか。

 そうでも言い聞かせなければ、最悪感で心を握りつぶされてしまいそうなのだ。

「っ、海景さん」

 冷えていく肌から手を離した。彼女は変わらず反応を示さない。ただぼんやりと濁った目でどこか遠い方を眺めている。

 生ぬるい頬に手を当て、小さな顔を正面へと向ける。

 まだ潤いおおびた彼女の唇は、僅かな隙間を空けていた。

 まるで果実だ。石榴のように赤く、蜜柑のように柔らかい。

 それは、一抹の好奇心だった。

 最低で、最悪だ。だがこの感情を整理する術は、これしか知らない。

 恋とも性欲ともつかないこの煮えを、抑える方法。

 ゆっくりと頭を垂れる。ゆっくり、ゆっくりと下げていった。

 果実を摘まむように、それを食む。

 永遠に続く化のように思える蝉時雨に包まれ、目を閉じた。


 あの瑞々しい果実の味は、今もなお忘れることができない。


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無垢の辜 @umiumi0916

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