その2 かけがえのない感情

 現在地から一番近い山の頂上まで泳いでいくと、海とはいえ空気が美味しい気分になった。本来はそんな意味不明なことを感じるわけがないのだが、おそらく”人魚”としての”役”がそう思わせているのだろう。また、クソ髑髏も言っていたがここは四方を山に囲まれた、つまるところ盆地だ。山頂に着いて改めて実感したが、ついでに山頂から向こう側は白い霧に包まれていた。海の中なのにと思っていたが、クソ髑髏が言うにはそれは想像力の及ばぬ場所、要は”虚無という空白”らしい。言い回しに少しイラッとしたが、そこまで言うだけあってかなり危険なものらしく、一度でも飛び込んでしまえば、囚われ、這い出ることも叶わず、心と身体が壊れ、いつか虚無と一体化してしまうらしい。それを予防するためか、お腹ほどまでの高さがある柵越しに見下ろすと、身震いした。


「ミュトスって……本当に佐藤の空想でしかないんだね」


「今更何言ってんだ? ミュトスってもんは数え切れないほどの再生と崩壊を繰り返すっていうのが原則なんだし、認識がなければ何もなくなる、っていうのは道理ってもんだぜ?」


「そういう意味じゃないんだけど。……だから、佐藤にそんな髑髏みたいなクソみたいな姿にされちゃったんじゃないの?」


 ちょっと言い過ぎたかと自分の言葉に後悔したが、頭の上からは笑い声が聞こえたのでほっとした。女の子に攻められて嬉しい、というやつだろうか。つまりドMか。やっぱり気持ち悪い。そんなやつは放っておき、祠の方を確認する。フォルムとしてよくある百葉箱タイプだ。錠タイプではなくて金の鎖が何重にも巻かれているものであり、老朽化のせいか鎖は触れると簡単に外れた。運が良かったことに感謝しつつ両開きの扉を開くと、中から紫色の煙がでてきた。とても甘ったるくて長時間嗅いでいると身体がトリップしてしまいそうだ。煙は町の方へ飛んでいくと、あの髑髏の山の中へと姿を消した。これといって変わった様子はないが、一つの可能性が頭を過ぎる。


「これ、もしかして全部の祠にあるさっきの煙? みたいなやつを解放しないと”ギミック”が起動しないの?」


「……あぁ、そうだな。俺の直感だとそれを達成すれば、ここの”物語”は終わる。そんな気がするぜ」


 遠目に見える大量の百葉箱たちを見て意識がくらりとする。ここまでくると、佐藤による露骨な時間稼ぎにしか思えない。私という存在と”共感”することは是認しているのに、”普段はツンツンしているけどたまにデレる”というタイプでもないのに。これもまた深い意図があるのかと考えたが、いや、前のミュトスも意味不明であったし考えるだけ無駄かと諦める。本人に会って答え合わせをすればいい。

 さっさと次の祠へ向かおうとしたが、数センチ泳ごうとして突然、身体にどっしりと疲労感が落ちてくる。動けないほどではないが、これ以上無理すれば本当に動けなくなるレベルだ。土の上なのにと思いつつ目をつむると、意識が一気に眠りへと誘われた。

 次に目を覚ますと、クソ髑髏が曰く、半日ほどの時間が経っていた。朝も昼も晩もない海の中では時間という概念がよく分からないものになってくるが、現実問題として時間は有限だ。それを無駄に浪費してしまった事実に声を漏らすと、頭の上から笑い声が聞こえてきた。私が頭蓋骨を力を入れて握ってみると、黄色の悲鳴を上げながら教えてくれる。前のミュトスとこのミュトスでは”役”が違うのは前にも言ったが、それは同時に、前者と後者は別の”怪物”であることを意味しており、それぞれ固有の能力を持っている。その能力の”違い”の一つとして、前者では身体能力があった。しかし、後者……”人魚”では自由に泳げる能力を手に入れた代わりに、絶大なる身体能力を失ってしまったのではないか。「ただの推論でしかないがな」と言っていたが、珍しく的を得た意見だと思った。実際に町を探索した時にも体力がなさすぎてすぐ眠ってしまったのだ。否定する理由はない。

 全く、不便な身体になったものだと溜息をつく。たしかに前の肉体のままだと水中呼吸はできないし早く泳ぐこともできないが、肝心のスタミナがなければ元も子もない。これからはもっと慎重に能力を運用していかないとなと思いつつも、盆地の広大な大地で、百葉箱……ではなく祠は数多とある。仕返ない。


「手分けして探せないの? キミは非生物の”役”なんだし疲れないだろうし」


「そんなことができるならとっくにやってらぁ!」


 突然の声に心臓の弁が閉じる。呼吸が出来なくなるほどの威圧、肌を焼き、言葉を失う。よく分からないが、クソ髑髏の地雷でも踏んでしまったのか。それにしてもそこまで怒る必要はあったのかと思いつつ、気まずい空気のまま、次の祠へと向かった。

 それから起きては寝て、寝ては起きる。全く不便な身体だと思いつつ、気が付くと一週間が過ぎようとしていた。その間のざっくりとした成果だが、まず良いニュースとして「全ての祠を開ける必要はない」ということだ。どうやら幾つかの祠は「はずれ」枠として制定されているらしく、開けてもあの紫の煙が入ってない。それどころか、丁寧にも「はずれ」という紙まで入っている。地味にイライラする要素だが、何もないよりは分かりやすい。それで……悪いニュースだが、これはまぁ問題ないが問題があることだ。頭の上にいる厄介な物体に触れたが、無反応だ。その癖にもう死んでいる(髑髏に死という概念があるのか分からないが)というわけでもなく、「今日は四日目だぜぇ」とか「今日で一週間だぜぇ」とか寝起きに教えてくれる。時間感覚の把握には便利だが、普段は死んでも喋ってくれないのも意思疎通が難しくて面倒だ。

 今日も黙るクソ髑髏と祠を開ける作業をしようかと次の祠の筋の鎖を外すと、また紙切れが入っていた。どうせ「はずれ」なんだろうなと溜息をつきかけると、何か様子がおかしいことに気付く。紙切れが黄ばんでいる。今までのは気持ち悪いぐらいに白だったのだが、と思いつつ手に取ってみると、英語やロシア語やアラブ語でもない、見たこともない文字が書かれていた。あまりに見覚えがなさすぎて落書きなのかと思っていると、頭上から「”ヴィリの鎖”」と聞こえてくる。あまりに久しぶりに聞いたテンプレートではない言葉にびっくりする。


「機械になったわけじゃないんだ、普通に喋る時は喋るぜ」


「……だったら、普段も喋ってほしいけど」


「どうせ一つか二つ回る度にお前は眠ってしまうんだぜ? だったら話す必要もねぇだろ。それとも……寂しいのか?」


「……そんなことより! クソ髑髏はこの文字読めるの?」


「まぁな。多分本体の佐藤が記憶しているから俺も認知しているんじゃねぇか?」


 言われてみれば、佐藤が一時期狂ったように「ゲイボルグを作るんだ!」と何か……ルーン文字? だっかを調べていたのを思い出す。あの時はそんな文字よりも怪しいサイトに引っかかり、「100万円要求されたんだけど!」とか「なんか変な人形がたくさん画面に出てきた!」とか悉くことごとくウイルスにかかっていたのを私に修理させていたのを思い出す。今考えると執事さんに頼んで欲しかったが、あれもあれで良い経験だった。不意にこぼれた自分の微笑み声に自分で驚いていると、最悪にも、クソ髑髏は喉の奥に餅が詰まったような笑い声をあげる。


「なに?」


「いや、なんでもないさ。たとえ何かを思っていたとしても、”気持ち悪っ!”とか言われてしまいそうだからなあ。”言わぬが花”というやつさ」


「言わない方が気持ち悪いしさっさと教えて」


「そうかい? だったら端的に。……そういう人間味のある顔もするんだなぁ、って」


「気持ち悪っ」


「やっぱりそう言うじゃねぇか! おじさんなりに配慮してやったのに、失礼ってもんじゃねぇか?」


「それは……ごめん。でも、そういうマーライオン並に口から花を吐きそうなのはキミには似合わないよ」


「逆に何が似合うんだよ」


「散々普段から暴力を振るっていたのに病床に伏したら”俺はお前のことを愛していたんだ”って理不尽なキレ方をする昭和の夫の”役”」


「お前はおじさんに対してどんなバイアスを持っているんだよ。……せっかく顔が良いのに中身が残念すぎないか?」


 ”顔の良い”なんて言葉にたじろいたが、いやいやと思う。そもそも、私はそれほど顔が良いわけじゃない。化粧が映える顔をしているだけだ。すっぴんだと目は細いし二重まぶたでもない。それに、顔の良さならクソ髑髏が生まれた元……佐藤の方が相応しい。いわゆる昔の彫刻的な美人であり、ミロのヴィーナスと入れ替えてもバレないほどの顔のクオリティだ。そんな人間から生まれた髑髏が、「顔が良い」なんて。決して嬉しくないわけではない。悪い気はしない。だが、心底喜べもしない。複雑さで胸が苦しい。クソ髑髏の頭に手を置くと、変に鼻の下伸ばした声を漏らした。すぐに手をグーに変えると、今度は軽い悲鳴が聞こえてくる。自業自得だ。私の頭にいるのが悪い。

 それからまた一週間が経った。ついにこれで最後の祠だ。かなり時間を要したが、やっと終わりだ。夢みたいな世界なので現実とどの程度時間がリンクしているのか分からないが、そのままの時間ならそろそろ期限も近いなぁと溜息をつく。やっとこのクソ髑髏との生活も終わりだ。いよいよ最後の祠を開けると、紫の煙が中から出てくる。これでやっと終わり。ギミックもこれだけ面倒だったんだし、さすがにこれで終わりだろう。せっかくだしもう一眠りしようかと思っていると、突然地面が揺れはじめる。何が起こったのかと思っていると、町の方から爆音が聞こえてきた。若干の疲れが溜まった肉体で町の方を見てみると、髑髏の山があったはずの場所に、巨大な人間……いわゆる”巨人”が産声を上げていた。その山にいたはずのクソ髑髏が「なんだよ、あれ!」と本気で叫んでいるあたり、自称核のクソ髑髏にも予想外だった存在なのか。

 あれが何のなのか聞いてみたが、動揺するばかりで全く教えてくれない。その間にも巨人は動き出し、適当な建物から柱を引き抜いたかと思うと、一番尖った部分を心臓がある部分に刺した。血潮が舞い、悲鳴が聞こえ、そのまま巨人はその場に倒れ伏す。一体何をしたかったのかと思っていたが、すぐに分かった。湧き出る血潮はまったく止まる気配を見せず、それが触れた場所は、まるで塩酸や硫酸でもかかったかのように溶けていく。世界の破壊。咄嗟に頭上を見ると、クソ髑髏はあぁもうと珍しくイライラしていた。


「いいか、よく聞け。あれは”巨人ユミル”。”オーディン””ヴィリ””ヴェー”含める三神に殺されてその血潮を海として生物を殺戮した、太古の巨人なんだよ!」


「その……えっ? キミは……」


「あぁ、そうだよ。俺の本当の姿は……あの、巨人ユミルだ」


 この、小さなクソ髑髏が。頭の上から意地でも離れなかったり、憎まれ口を叩いたり、その癖強情だったりする、このクソ髑髏ユミルが。どう、感情の支柱を倒せば良いのか分からない。判断が揺らぎ、倒れそうになった瞬間につい手で掴んでしまう。露骨なフラグはあった。何かを隠しているのは理解していた。それでも、まだ信じたかった。


「一つだけ聞かせて」


「なんだ? 俺と心中するのは嫌だから、あの血潮に飲まれてお詫びに死んでくれって話か?」


「それは後で。今は違う。……キミは、最初から裏切るつもりで私に近付いてきたの?」


「裏切る? それは、表現が間違っているぜ。俺は最初から”そういうつもり”でお前に協力していただけだ。別に隠そうとしていたわけじゃない。聞かれなかったから言わなかっただけ、当然の論理だろ?」


 ついぞ頭の上から降りたユミルは、飄々とした雰囲気を纏い、さも自分が正しいように振舞う。その論理は正しい。私は一度もクソ髑髏ユミルを疑いはすれど言葉にして尋ねなかった。前のミュトスでは散々手痛いやらかしをしているというのに、あるいはそれが作用したのかは分からない。でも、この感情は。どうしようもなく支柱が揺れ、不意をつかれ、倒れる。どうせこの血潮のスピードだ。もう数分もすれば私たちを飲み込んでしまう。ユミルを掴むと、抵抗せずに紫のくぼんだ目で見つめてくるのに唇を噛んだ。


「殺すのか? まぁもうどうにもならないし、いいぜ。それで気持ちが晴れるなら勝手にしな」


「しないよ。私は前のミュトスと同じく選択を誤って、こういう結果を招いた。それは紛れもない事実だから。……でも、よ。死ぬほど憎い。だけど、殺してその感情が晴れるタイプでもない」


「何が言いたいんだよ。要は俺を殺さないのか?」


「……。キミが巨人ユミルであったと告白した事実を。キミも言ってないことにする。未分の状態に戻す」


 「はぁ?」という顰蹙ひんしゅくの言葉が投げつけられる。当然だ。私だってそんなことを言われたら同じ反応をする自信がある。でも、だからこそだ。これがSNSだったら対話は瓦解し、私は圧倒されてボロを漏らして論破され続けていたかもしれない。でも、ここは現実……というより、相手と対面で会話できる世界だ。言葉が正義の世界ではない。つまり、論理的である必要性は少しもない。


「憎いけど、憎いままだとどっちが先に死ぬのかのチキンレースをするしかない。そうして死んでも殺してもイライラは消えないし、だったら協力関係を再度結び直した方が良い……ってだけの話だよ」


「頭おかしいのか? その協力関係とやらを結び直したとして、ここからどうやって状況を打開するんだ? 何か作戦でも」


「あるよ」


「嘘、じゃないんだよな?」


「裏切った癖に今更裏切りを勘ぐるの?」


「……あぁそうだな。もうそれでいいよ。お前が満足するなら。それで? その作戦って何なんだよ」


 私は血潮に背中を向けると、逆側を向く。そこにあるのは、もちろん虚無。佐藤が予期していない、あるいは空想していない部分。思考の白紙だ。


「ねぇキミ。このまま血潮が来るまで頂上で絶望しているか、永遠に虚無を彷徨う危険性を背負って向こうへ飛び込むかどっちがいい?」


「ここに飛び込むのか? 何のために?」


「虚無だったら、多分、ああいう血潮も届かないでしょ。それだけ」


 髑髏は私の両手を振り払うと、しばらく無言で虚無を見つめていた。私からすれば血潮に飲み込まれて死ぬほどの思いをするより、可能性がある方を選んだ方が良いと思う。そうこうしている間にも町を包み込んでいた青は赤に変わり、全てが溶けていた。もうあと数秒もすればここまで届く。決めるなら早く決めてほしいとイライラしていると、クソ髑髏は私の頭の上に乗ってきた。ずっしりとした重み。


「良いだろう。提案にはのる。だが、虚無から抜け出す方法は……」


「それじゃあ、行く……えっ?」


「……もう知らん」


 その声色の中には、クソ髑髏なりの優しさが滲み出ていた。心臓の上を擦ると、柔らかい感情が弾ける。心地よくて、そのまま胸の中にあった強い衝動も消えた。足先まで触れそうになる血潮から全速力で逃げると、やがて変な感触が身体全体を覆った。何かと思った瞬間、無慈悲な水流が身体を吸い込まれる。なぜか呼吸ができなくなると思ったが、いや自分は”人魚”なのだからと思い出し、むしろ水流に上手く乗った。それから、いつまで泳いでいたのだろうか。ほとんど無意識でいつ意識が落ちてもおかしくはなかった。そんな時、唐突に地面へと投げ出された。釣られて陸に投げ出された魚ってこんな気持ちなのかなと思いつつ、いつの間にか消えた疲労感に驚く。一体、これはどういう状況なのか。ひとまず頭の上にいるクソ髑髏にも触れて確認したが無事だった。「さすがに振り落とされるかと思ったぜ」と笑う声にブレなさを感じながらも、周囲に何かがないかを確認する。

 ここが虚無だからか、今までいた山も血潮も何もない。当初の目的は果たせたようだと一安心する。


「……で、どうすんだよ。このままここにいて、二人一緒に発狂して自害するのか?」


「それは。それだったらキミを殺す方法を模索した方が良い」


「そのことなんだが……一つ、嘘をついていたことがある」


「なに? やっぱり裏切ってたの?」


「ちげぇよ。……すまん。俺はこのミュトスの”核”ではないんだ」


 今更というか、タイミングが最悪だった。ここで謝られても仕方ないし、というか、それは”裏切り”としてカウントできるものなのではないか。せめて頭を握るぐらいは許されるかと掴もうとしたが、おかしなことに気付く。手の腹に妙な引っかかりが当たる。頭の上から外すことはできないので実際はどうなっているのか分からないが、この感じは骨にヒビが入っているのか。飲み込もうとしたが、いやこういう所だなと頭を振る。


「もしかして、ここに入ってくるタイミングでヒビ入った?」


「まさか。俺は巨人ユミルだぜ? ……と強がりたいが、バレたら仕方ない。そうだ。お前と違って俺はただの髑髏だ。あの水流に揉まれる間に、石か何かにぶつかったらしくてな。その時にヒビが入った、ってだけさ」


 別に支障なく生きれているし気にするほどのことでもないさと言われたが、それでも気になるものは気になる。消しゴムだって一度半分に壊れてしまえば、あとはボロボロと欠片みたいになる。怪しむ視線を向ける私に気付いたのか、髑髏は私の髪を引っ張ってくる。「このぐらいの元気はあるさ」と笑っているが、かえって気になってしまう。なるたけ動かないようにと指示すると、虚無の世界をちょっと歩いてみようとする。だがその時、前方に小さなひずみが生まれたことに気付く。真っ白な景色に生まれた、ひずみ。何が起こったのかと思っていると、そこからまた祠が出てくる。今回も例によって百葉箱タイプではあるのだが、色が違う。白い虚無に配慮したのか黒色である。近付いて確認しようとしたが、それよりも先に箱の扉が開く。

 中から紫の煙が出てきたかと思うと、今回はここに滞留して、一つの形になっていく。三メートルは優にありそうな身長、ジムトレーナー並みに割れた腹筋、そして巨大な槍。この特徴だけでも、なんとなく理解した。


「あれって……オーディン?」


「あ、あぁ。それはそう、なんだが……」


 何か悩んでいる様子のクソ髑髏を気にしながらも、ここを逃したら次がないと思ってオーディンへと近付く。向こうも私が近付くと存在を認知してくれたのか、一歩一歩と進む度に地ならしを起こし、こちらへと来てくれる。怖いけど案外優しい人なのかもしれない。そう思った時、彼は自分の持っていた槍を突然構えた。もしもあれがかの有名なグングニルなら、その特性は、意図は。


「我が魂が受肉し、望む事は一つだ。”巨人ユミルの死”をっ!」


 猛スピードで飛んでくる槍に身体が反応できない。これが前のミュトスなら良かったにと後悔しても変わらない。目をつむってもうダメなのかと思った瞬間、頭が軽くなった。しかも、どこも痛くない。目を開けると、そこには半分に割れたクソ髑髏の姿がある。咄嗟に駆け寄ったが、もう遅い。


……なんだろ? だったら……せいぜい頑張って生き延びな」


 その言葉だけを残すと、それからはうんともすんともクソ髑髏は動いてくれない。髑髏に死の概念は曖昧なはずなのに、こんな簡単に死ぬなんて。砕けた骨の一欠片を拾い上げると、オーディンの方を向く。……おかしい。槍が手にない。かのグングニルの能力なら、「必中」かつ「投げても戻ってくる」はずだ。だったら、今その槍は。咄嗟に振り返ると、そこには虚無の世界に大穴が開いていた。血潮によって満たされた海中をモーセみたいに切り裂いて、一直線に死にかけの巨人ユミルを狙う。その一閃は相手を捕捉し、一撃で破壊する。槍が返ってくると、私の方を向いた。


「これでこのミュトスは終わりだ。我の役目も終わりだ」


 そっと私の身体を持ち上げると、自分がこじ開けた海中へと私を放り投げた。またあの山頂、最後の場所だ。私が腰の痛みに震えている間に、虚無と海中に開いた穴は閉じてしまう。これで、終わりなのか。本当に、終わってくれるのか。先に進めるのは嬉しい。なのに、どうしてだろうか。胸に詰まった感情は軋んだ音を立てていた。 

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