その4 致命的失敗(ファンブル)
檻の中というのは心地よくない。冷たいトタンの床と簡易的なトイレと、あとはシーツ一枚を「ベッド」とする傲慢さ。いくら私が犯罪者だとしても、これほど酷いことをするのはいかがなものかとは思ってしまう。だが、自分のやった行為を振り返るとそれでもマシな方かと諦める。檻自体に一度触れてみたが、この程度の強度なら今の私でも折ることはできそうだった。だが、脱走した所でまたあの見張りの大群に襲われると逆戻りでしかない。大人しく眼鏡妖精の言葉を信じるのが無難、なのだろう。ベッドの上に寝転んで呼ばれるまで一眠りした。
次に目を覚ますと、檻に付けられた小窓から紫色の光が差し込んでいた。何が起こっているのかと小窓の格子から外を見ていると、あの偽物の太陽が紫に輝いていた。
町の中ではコボルトたちが叫び、泣き、笑う。まるで無軌道で、狂気的で、カニバリズム的。お互いを殺し合い、食べ合い、そして弾けた衝撃でまた誰かが死ぬ。あまりの光景に見ているだけで気持ち悪くなっていると、ふと、背中に嫌な感じが走った。何かと思って振り返ったが、誰もいない。見張りすらいない。どういうことかと思いつつも、今この場にいる意味はないなと檻を破壊して外へと出た。
あの紫の光の正体を考えつつ階段を使って地上階までやってくると、一階の時点で地獄絵図だった。コボルトだったものたちの、大量の死体。外にはその死体を求めて
「ご飯!」「食べる!」と叫びながら、獣のように喰らいつくコボルトたちの姿があった。あのハンバーガーらしき食べ物をくれた彼の死体の両足もまだ残っていた。良かったと一安心していたが、ちょうどそのタイミングで狂ったコボルトたちの群れがこちらにやってくる。攻撃自体は単純なので今の肉体だと大した害はない。だが、いくら狂っているとはいえ、彼の目の前で「殺す」という行為をするなんてことは私には出来なかった。残った下半身のパーツをかき集めると、襲ってくるコボルトたちを足で吹っ飛ばしつつ、どうにか人気のない場所へと階段を上っていた。
四階までもコボルトたちがいたので、結局五階までやってきた。そこにはやっと人気のない休憩室があったので、彼の肉体を座らせてあげる。もう弾けてしまったので戻すことはできないが、そうしなければ私の感情が落ちつく気がしなかった。休憩室を出ると、紫の太陽を見る。そういえばコントロールルームがあったと思いドアを開けてみると、「緊急停止」のボタンが赤く輝いていた。紫の光に目を細めながらも、ボタンを押す。これで太陽は停止する、コボルトたちも「普通」に戻る。肩を下ろして椅子に座ろうとしたが、背中を思いっきり殴られる。まだコボルトたちが追って来ていたのかと思っていたが、違う。
そこにいたのは……ティターニアさん、だった。美しい微笑みを携えているのに、足を組んでいるという治安の悪さ。それはあの理想郷の中に置いて見えた彼女とはまったく異なる存在のように見える。
「ティターニア……さん、ですか?」
「汝はもう、全てを”理解”しているはずです。既に佐藤という人間の内面世界は彼女だけのものならず。わし……ヴルトゥームが寄生することによって、本来の内面世界に”ラヴォルモス”が併合され、空想的混在的内面世界……”ミュトス”へと変貌してしまっているという事実を」
ヴルトゥームとラヴォルモス。一度、クトゥルフを探しに世界旅行をしていた時に彼女が大量のクトゥルフ関連の翻訳本や関連書籍を読むようにと進めてきた。その中に「原典は他の作品ではあるが、リン・カーターによりクトゥルフやハスターの異母弟として位置付けられた」といったようなことが書かれていた文章を思い出す。クトゥルフに関連することなので彼女にもそれなりに聞いたが、どうやらその原典では火星の地下にヴルトゥームは住んでおり、その地下空間自体をラヴォルモスと呼ばれていたらしいと教えてくれていた。
今思い出す度に悔しくなる。どうしてその可能性が思いつかなかったのか。ヴォル・モスラから最後の文字を最初に持っていくだけの、簡単な偽装トリックであったはずなのに。ヴルトゥームは私の頬に根を触れさせると、穏和な笑顔を見せた。
「コボルトたちは本当に厄介でした。数十年前……いえ、現実だと数時間前でしょうか。わしはこの世界に降り立ち、愚かなピクシーたちを花のエキスを凝縮させた甘い水で幻覚により人形へと作り変えたはずでした。ですが、コボルトたちはわしの支配を拒みました。多くのピクシーたちを殺し、地下世界へと立てこもってしまったのです。あの厄介な太陽は、わしを退けました」
彼女はくるりと回ると、懐から一つの瓶を取り出した。中にふわふわとした白い液体が詰まっており、見るからに怪しいものだった。
「これは眠りの瓶。本来はわしが眠るために使っているもっており、偽物の太陽の中心部に隠されていたのですが、ちょうど電源が切れる騒動がありまして。それに乗じて太陽を乗っ取り、ついでに邪魔なコボルトたちには死んでもらうことにしました」
「それは……それじゃあ、コボルトたちはこのミュト……ス? を守るために”正しい”行為をしていたんですか」
「そうですね。愚かにも、一人の”聡明なる部外者”が、その計画を破壊してくれたのですが」
そういって懐から取り出したのは「おいしい」「おいら」と目が無軌道に揺らし、手を痙攣させ、髪を激しく搔いていた。それでも、表情はとても楽しそうだった。つい動揺してしまうと、ヴルトゥームは私の頬に自身の両手を触れさせた。
瞬間に思考が揺れ始めると、世界はどんどん平穏に戻って行く。外ではコボルトもピクシーも一緒に平穏に暮らしていて、あの……緑のハンバーガーをくれたコボルトが、私の前で笑顔を見せていた。ヴルトゥームがまた私の両頬に触れると、元の、地獄を体現したかのような状況へと戻る。
「これは……どちらが、真実の世界なんですか?」
「わしにとってはどっちも真実の世界です。幻想を見る妖精たちも、現実ではお互いを潰し合っている妖精たちも。……ただ、汝ら人間は真実や正しさを追い求める。そんな夢みたいなものがあると信じ込んでいる。誰にも共通した、それこそ幻想とでもいうべきものを」
ヴルトゥームは私の目を覗き込むと、伸ばした根を首元に回してきた。幾本もの細い根を絡み合わせて人間の手のようになっており、そのまま私の目を覆ってくる。時間はまだあるからすぐに答えを出す必要はない、と微笑む。そうして私に眠りの瓶を投げてきた。ヴルトゥームが言うには、もしも幸福な世界が「真実」でないと決心したならその瓶を開いたら良い。そうすればヴルトゥームはまた眠りにつくし、それは元の世界に戻るための「切符」になる。だが、この幸福な世界を「真実」だというのならば、その瓶の蓋を開けずに返しに来てほしい。そうすれば、私を佐藤と引き合わせてあげる。加えて、現実の身体が死ぬまでは幸福のまま生かし続けてくれるのを約束するという。それだけ言い残すと、ヴルトゥームはその奇妙な肉体に付属した四枚の羽根を揺らして紫の太陽へと向かう。
ただ一人残された私は、未だ樹木の中で紫に光る太陽を見ていた。これからどうするべきか。私の心は疲弊していた。もう、佐藤との幸せな日々に浸かってもいいのではないか。どちらも真実と断言できないのなら、より楽かつ幸せな方を選ぶべきではないのか。ひとまず椅子に座って心を落ちつかせようと思っていると、お尻を思いっきり叩かれた。痛みに床へのたうち回っていると、椅子の上にいたのは、ひどいクマを顔に付けた眼鏡妖精だったことに気付く。いつも代名詞と化していた眼鏡はフレームごと割れていて、もう前すら見えていないようだった。身体も衰弱しているようで、いずれ死ぬのは確実だ。
「ごめんね、ケイカ」
そんな身体なのに、彼女は謝ってきた。「仲間を呼んであげられなかった」「約束したのに」なんて、もう終わっていて、もっとひどい事実で上書きされてしまったことに拘っていた。それはとても滑稽で、バカで、アホで、間抜けで。……なのに、惹かれた。その愚かな妖精に、私は惹かれた。
「……もういいよ。私は気にしてない」
「だとしても、さ……おいらの罪は消えないよ。バカだから難しいことは分からないけど、でも……コボルトどもから助けるって、約束を守れなかったんだよ」
その言葉を残すと、私の手の上で眼鏡妖精は息を引き取った。隣で憎悪をたぎらせ、殺し、それでも眼鏡妖精は自分を貫いてた。私はその憎悪が最期まで理解できなかった。でも、分かった。分からないけど、その想いが本気であったことだけは理解できた。どれだけ愚かな生物であっても、できることがある。犠牲に報いる行為がある。それはきっと……私自身の願いを、果たすことだけだ。眼鏡妖精の小指に私の小指を触れあわせると、立ち上がる。
「……こんな瓶如きに、未来を決められたくない」
渡したりしなければ、まだこの地下世界にいることができるはずだ。せっかく屋上があるんだし、見渡して、佐藤を探そう。それから話し合って、どうにか二人一緒に現実へ帰ろう。それが私にできる唯一の、死者たちへの弔いだ。そう決心すると、早速部屋を出ようとする。だが次の瞬間、体が浮いた。足元に落ちていた、大量の空き缶。あの最初にいたコボルトが飲んでいたお酒の缶、なのだろう。私は手から眠りの瓶を滑らせると、くるくると回っていき、やがて壁にぶつかった瓶は音を立てて割れてしまった。甘い香りが満ちていく。
『思考発見――ロゴス・ユーリカ――論証終了。第一のミュトスを終了します』
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